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『追放された悪役侯爵令嬢ですが、元自衛官なので前線は職場です』 ――戦場で出会ったのは、剣よりも重い責任でした  作者: 月白ふゆ


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第25話 『次期公爵と、その伴侶』

公爵家の内紛は、終わった――というより、終わらせた。

燃え上がる前に水をかけ、火種を握り潰し、灰が舞う前に覆いをかける。王都の政治劇は、派手な剣戟ではなく、静かな手順で勝敗が決まる。


ただ、その勝ち方は必ず「代償」を伴う。

代償の一つは、家の内部に残る傷。もう一つは、外部の視線がさらに鋭くなること。

そして最後の代償は――座るはずではなかった椅子が、こちらへ滑ってくることだ。


「呼んでいる。次の話だ」


アルベルトがそう言って廊下を歩き出した時、ミレイユはその椅子の軋みを、足音の先に感じ取った。

当主である公爵の部屋へ向かう導線は、いつもより短く見えた。屋敷全体が、呼吸を止めているような静けさだった。


扉の前で、護衛が一礼し、開く。

中には公爵だけではなく、宰相府の使者と、軍務尚書の代理、そして王家からの立会人がいた。

立会人がいる時点で、これは「家の話」ではない。国家の話だ。


公爵は座ったまま、短く言った。


「座れ。……話す」


ミレイユは礼を最小限にし、アルベルトと並んで席に着く。

並ぶ位置にも意味がある。公爵の正面に長男が座るはずの位置、その半歩後ろに次男が控えるはずの位置。

今、その空白の隣に三男がいる。

空白は、視線を呼ぶ。呼ばれた視線は、必ず意図を読み取ろうとする。


宰相府の使者が、書類の束を机に置いた。


「公爵閣下。監査報告の第一段階は、宰相府としても受領しました。

本件は“家内の混乱”として扱うには、内容が重すぎます。国家反逆の疑いが含まれる以上、処理は公的に固定する必要があります」


軍務尚書の代理が続ける。


「前線補給に関する不正は、兵の死に直結します。

さらに敵国側への流出が疑われる以上、軍務省としては“公爵領の補給系統の再編”を急ぎたい。

……その責任者が必要です」


公爵は頷き、視線をアルベルトへ向けた。


「お前に、その責任を取らせる」


室内の空気が変わった。

言葉は短い。短いが、逃げ道がない。

当主が、国家の目の前で、息子に責任を押し付けたのではない。責任を渡したのだ。


アルベルトの背筋が僅かに硬くなる。

軍人としての反応は速い。だが今は戦場ではない。ここでの返答は、剣ではなく椅子の意味を持つ。


「父上……」


「言い訳は要らん。お前が望んだ形ではないのも分かる。

だが、家は空白を残せない。空白を残せば、外が喰う。

……長男と次男は権限停止、身柄は預かり、側近は拘束。監査は続く。

その間、家の顔は誰が務める」


答えは一つしかない。

アルベルトが息を吐き、低い声で言った。


「俺が務めます」


公爵は即座に頷いた。


「よし。

王家と宰相府に対しても、そう報告する。

……そしてもう一つ。お前を“次期公爵”に指名する」


その宣言が落ちた瞬間、ミレイユの脳内で手順が走り出した。

指名の形式。王家の承認。宰相府の文言固定。領内への通達。軍務省との権限調整。

これを遅らせれば、噂の余白が生まれる。余白が生まれれば、長男派、次男派、そして外部の貴族派閥が勝手に物語を差し込む。


ミレイユは席に座ったまま、淡々と口を開いた。


「確認します。指名を公に固定するタイミングは今日ですか」


宰相府の使者が目を細める。

“妻”がこの場で口を挟むこと自体、王都では異物だ。だが同時に、今は異物が必要な局面でもある。


公爵が答えるより先に、軍務尚書の代理が頷いた。


「今日が望ましい。監査報告と同時に固定すれば、反対派が“疑惑の隙”に入り込めない」


ミレイユは短く頷く。


「なら、文言は『監査体制の継続と補給系統再編を担う責任者として、当主が次期公爵を指名』です。

“家督争いの勝者”に見せてはいけません。国家案件の機能として固定します」


公爵が、少しだけ口元を動かした。笑みではない。

理解した者が出す、短い肯定の表情だ。


「……良い。ミレイユ、お前の言う通りだ。

宰相府、文言をその形で詰めろ」


宰相府の使者が一礼し、羊皮紙を開く。


「承りました。

ただし王家の承認を得るには、王都での“儀礼的な確認”が必要になります。第二王子殿下も列席するでしょう」


ミレイユの心臓が一拍だけ遅れた。

第二王子。

過去を引きずる相手は、余白があるとそこへ刃を差し込む。だから余白を潰す。――それは今も同じだ。


ミレイユは淡々と返した。


「列席は構いません。発言権は議事録に残る形だけに。口頭の“感想”は排除してください」


「了解しました」


アルベルトが隣で小さく息を吐く。

その息には、諦めではなく、覚悟が混じっている。


公爵が最後に言った。


「アルベルト。お前は次期公爵だ。

ミレイユ、お前は次期公爵夫人だ。

――家の内側の刃は、まだ残る。だが外の刃は、お前たちで折れ」


その言葉で、椅子は完全にこちらへ滑り込んできた。

避けることはできない。避けるべきでもない。

座るなら、姿勢を正し、背筋で支えるしかない。



───


王都での確認は、三日後に設定された。

短すぎるが、短い方が良い。王都に時間を与えれば、噂が勝手に増殖する。


その三日の間に、ミレイユは“次期公爵夫人”としての最初の仕事を片付けた。

それは衣装ではない。挨拶回りでもない。

補給系統の再編案と、退役兵の処遇の暫定策、そして公爵領内の治安維持の指針――要するに、国境が再び燃えないための骨組みだ。


夜遅く、机に向かっていると、アルベルトが部屋に入ってきた。

いつもなら鎧の音がする。だが今夜は、鎧ではない。家の男の衣装で、足音が静かだ。


ミレイユは顔を上げずに言った。


「帰還ですか」


「帰還だ。……お前は、まだやってるのか」


「はい」


「明日でいい」


「明日では遅いです」


即答すると、アルベルトが苦笑に近い息を吐く。


「お前は本当に、容赦がないな」


「容赦があると、死者が出ます」


その言い方がいつも通りすぎて、ミレイユは自分で少しだけ反省した。

今は戦場ではない。だが、王都の戦いも戦場に似ている。死ぬのは兵ではなく、体制や未来だ。


アルベルトが机の端に腰を下ろし、ミレイユの書類を見た。

視線が、数字の列を辿っている。以前の彼なら、ここまで紙を読むことはなかった。

変わったのだ。前線の指揮官が、家と国の椅子に触れたことで。


「……退役兵の支給を先に出すのか」


「はい。

戦争が終わっても、腹は減ります。

支給が遅れると、盗みが増え、治安が悪化します。

治安が悪化すると、領内商人が逃げます。

商人が逃げると税が落ちます。税が落ちると補給が落ちます。

補給が落ちると、国境が揺れます」


アルベルトは短く頷いた。


「分かった。……お前が正しい」


その言葉が、ミレイユの胸の奥を少し温める。

温めるのに、彼女はすぐに紙へ戻ろうとした。だが、アルベルトが低い声で止めた。


「ミレイユ」


名前。

名前で呼ばれると、彼女の硬さが少しだけ緩む。

それが危険で、同時に救いだ。


「はい」


「……怖くないのか。次期公爵夫人になるのが」


質問が直球だった。

前線の男は、回りくどい言葉が下手だ。だから、こういう形になる。


ミレイユは一拍置き、正直に言った。


「怖いです。

ですが、怖いから手順を作ります。

怖くないふりをする方が、危険です」


アルベルトが小さく頷き、指先がミレイユの薬指に触れた。

そこに輪がある。輪は、形であり、鎖にも盾にもなる。


「……俺は、お前を鎖にしたくない」


ミレイユは目を伏せたまま、短く言った。


「鎖にされても、長さを確保します」


「そういう意味じゃない」


「分かっています」


分かっているのに、言葉が出る。

言葉で逃げるのは、彼女の癖だ。癖を捨てるには、まだ時間が要る。


アルベルトの声が少しだけ柔らかくなる。


「今夜は……少し休め。俺が隣にいる」


隣。

その単語は、最も現実的な甘さだった。


ミレイユはペンを置き、ゆっくり息を吐いた。


「……では、十分の休憩を取ります」


「十分か」


「十分あれば、呼吸が整います」


アルベルトが笑いそうになって堪えた。


「相変わらずだな」


そう言いながら、彼はミレイユの隣に座った。

肩が触れる距離。

前線では役割だった距離が、今は意味を持つ。


ミレイユは、書類を閉じずに言った。


「確認式が終わったら、最初にやるべきは補給倉庫の統合です。

そして領内の“兵站官”の育成制度を作ります。

個人技に依存すると、また穴が開きます」


アルベルトが頷いた。


「……お前がいないと、俺はやれない」


その言葉は、甘いはずなのに、妙に冷静だった。

アルベルトは“恋”の言葉が下手で、代わりに“機能”で告白する。

それが彼の誠実さだと、ミレイユは理解し始めていた。


「私はここにいます。

ただし、私もあなたがいないと難しいです。

壁がないと、王都の刃が刺さります」


アルベルトの腕が、ミレイユの肩に回る。

抱くのではない。支える。

支えることで、彼は自分の役割を確認する。


「なら、俺は壁だ。

お前が構造なら、俺は外側を守る」


ミレイユは小さく頷いた。

戦友から伴侶へ。

そして伴侶から、次の体制の柱へ。

柱になるなら、互いの役割が必要だ。



───


確認式当日。

王城の広間は、いつもより光が冷たかった。

儀礼は華やかだが、その華やかさは刃の反射にも似ている。

貴族たちは笑みを浮かべながら、互いの腹を探っている。誰が沈み、誰が浮くのか。

沈む者の背中には、必ず刃が刺さる。


ミレイユは礼装を纏い、アルベルトの隣に立っていた。

前に出すぎない。だが引かない。

次期公爵夫人は飾りではない。飾りに見せた瞬間、王都はそこへ付け込む。


宰相が宣言し、当主たる公爵が文言を読み上げる。

“監査体制の継続と補給系統再編を担う責任者として、当主は三男アルベルトを次期公爵に指名する”。

文言は固定され、余白がない。

余白がないからこそ、貴族たちは刃を差し込みにくい。


王家の承認が続く。

そして、第二王子が壇上に姿を見せた。


ミレイユは視線を合わせない。

合わせれば物語が立ち上がる。物語が立ち上がれば、刃が増える。

彼女はただ、儀礼の手順を頭の中で追い、次の動作を準備する。

礼、署名、印章、証人、発表。


だが、第二王子の視線は、ミレイユを追っていた。

追う視線には、過去の「彼女は冷たい」という物語が混じっている。

そして今、その物語が崩れ始めていることへの戸惑いが混じっている。


第二王子は、形式的な言葉を述べた。

公爵家の安定は王国の安定であり、次期公爵に期待すると。

言葉は整っている。だが声が僅かに硬い。

硬さは、感情の抑圧の痕跡だ。


儀礼が進む間、ミレイユは一度だけ、横目で王子の表情を見た。

彼は自分の言葉を言いながら、視線が揺れていた。

ミレイユではなく、ミレイユの隣にいるアルベルトへ。

そして再びミレイユへ。


王子は、気づき始めている。

彼女を失ったのは政治的損失だけではない、と。


式が終わり、参列者が退く導線に移る。

その瞬間、王子が一歩だけ前に出た。

宰相府の目が僅かに鋭くなる。

アルベルトの背筋が僅かに固まる。

ミレイユは先に手順を組んだ。ここで物語を作らせない。作らせるなら、文書で潰す。


第二王子は、低い声で言った。


「ミレイユ……少し、話せないか」


名前で呼ぶ。

王子は、今になって名前で呼ぶ。

それがどれだけ遅いかを、彼自身が分かっているのか分からない。


ミレイユは立ち止まらず、足だけを止めて体を少しだけ向けた。

礼は最低限。距離は保つ。導線を乱さない。


「殿下、議題によります」


冷たい、と聞こえるかもしれない。

だがこれは冷たさではない。王都で生き残るための距離だ。


第二王子は言葉を探し、そして結局、不器用に吐き出した。


「……お前は、変わったな」


ミレイユは淡々と返す。


「私は、死ぬはずでした。

死ななかったので、必要な形に適応しただけです」


その返しが、王子の胸を刺したのが分かった。

“死ぬはずだった”――それは彼が作った形だ。

そして彼は、その形が実際に「死刑」だったことを、今になって現実として突きつけられている。


第二王子の声が僅かに揺れた。


「……俺は、あの時、正しいと思っていた」


ミレイユは表情を変えず、短く言った。


「正しいと思うなら、それで良いです。

ただし、結果は変わりません」


結果。

それは冷たい言葉だ。

だが、結果の前では、王都の物語は意味を持たない。


第二王子は続けようとした。

だが続ける言葉が見つからない。

見つからない代わりに、視線がミレイユの薬指へ落ちた。

輪が光る。

輪は、彼が失ったものの形だ。


王子は、声を落として言った。


「……俺は、失ったのか」


独り言に近かった。

問いを投げた相手はミレイユではなく、自分自身だ。


ミレイユは答えなかった。

答える義務がない。答えれば物語が立ち上がる。

彼女はただ、最後に形式的な礼を取り、淡々と告げた。


「殿下。私はこれから、公爵領の補給再編に入ります。

国境が揺れれば、また兵が死にます。

……失うことを嘆くより、失わない構造を作る方が先です」


そう言い切ると、彼女は歩き出した。

アルベルトが、半歩前に出て壁になる。

王子は追わない。追えば恥になる。追えば、王都の刃が自分に刺さる。


だが追わない代わりに、王子の目が深く沈んだ。

それは、初めて“自分の選択の重さ”を理解した者の目だった。



───


王城を出る馬車の中、アルベルトはしばらく黙っていた。

沈黙は不機嫌ではない。

怒りと警戒が混ざった時の沈黙だ。


ミレイユは先に言った。


「今の接触は、想定内です。

文書で残る形ではありませんでした。

ただし、王子の感情は今後、動きます。

動く感情は、周囲に利用されます」


アルベルトが低い声で言う。


「……お前は、嫌じゃないのか」


「何がですか」


「王子が今さら、あんな顔をすることが」


ミレイユは一拍置いた。

嫌か、と問われると答えにくい。

嫌悪ではない。

ただ、時間が遅い。遅いものは役に立たない。前線でも王都でも同じだ。


「……感情は自由です。

ですが、私はもう“王子の婚約者”ではありません。

役割は終わりました。

終わった役割に戻るのは、構造の破壊です」


アルベルトが、息を吐く。

そして、隣で小さく言った。


「ミレイユ」


「はい」


「……俺は、お前が選んだのが俺で良かったと思ってる」


言葉が不器用で、直球で、少しだけ幼い。

だが、それが彼の誠実さだ。


ミレイユは胸の奥が温かくなるのを感じ、いつもの癖で逃げそうになった。

だが今日は、逃げない方が良い気がした。

次期公爵夫人になるなら、次は“内側の温度”も管理する必要がある。

温度を無理に押し殺すと、折れる。


ミレイユは小さく息を吐き、少しだけ柔らかく言った。


「……私も、あなたで良かったです」


その瞬間、アルベルトの表情が僅かに崩れた。

前線では見せない崩れ方。

彼は何か言おうとしたが、言葉が出ず、代わりにミレイユの薬指に触れた。

輪の上から、軽く。


「……それ、反則だ」


ミレイユは短く返した。


「処理能力を上げてください」


アルベルトが小さく笑い、そして低い声で言った。


「努力する。……次期公爵としても、夫としても」


夫。

その単語が、儀礼の言葉ではなく、温度として落ちる。

ミレイユはその温度を受け止め、今度は逃げずに頷いた。



───


公爵領に戻ると、仕事が待っていた。

当主の権限停止が宣言されている間、家の表の顔は次期公爵が担う。

つまり、アルベルトが決裁し、ミレイユが構造を作り、宰相府と軍務省が監査と公的固定を続ける。

三者のバランスが崩れると、火が再燃する。


最初の会議は、領内の補給責任者と、倉庫管理者、そして治安担当の騎士隊長を集めたものだった。

ミレイユは机上の地図を広げ、淡々と指を走らせた。


「倉庫を分散させすぎています。分散は盗難に弱い。

統合倉庫を三つ。国境線に近い前方倉庫は二つ。

輸送は“同じ経路”を使わない。経路を固定すると、襲撃と横流しが容易になる。

そして、補給の記録は二重化し、別部署が照合する。

照合の権限は家ではなく、軍務省の監査官に一部渡す。

家の顔を保つために、外部監査を入れるのが最も安全です」


騎士隊長が眉を上げる。


「外部に家の内を見せるのは……」


「見せない方が燃えます。

燃えたら、家は灰になります。

見せて、膿を出せば、家は生き残る」


言い切ると、場が静まった。

静まったのは反発ではない。理解が追いつくまでの時間だ。

戦争を生き残った者は、現実の重さを知っている。

だからこそ、現実的な構造案には従う。


アルベルトが、次期公爵として宣言した。


「ミレイユの案で行く。

不満があるなら、数字で持ってこい。感情は要らない」


前線の口調だが、今はそれが必要だった。

家の内側は感情が多すぎる。感情を抑える役割を、次期公爵が担う。

ミレイユは内心で、少しだけ安心した。

壁が機能している。


会議が終わり、人が去った後、アルベルトがミレイユの隣に立った。


「……お前、本当に、俺の妻だな」


唐突な言い方だった。

褒めるのが下手な男の言葉だ。


「どういう意味ですか」


「俺の弱い所を、全部補ってる。

……いや、弱いというより、俺が知らない所を埋めてる」


ミレイユは一拍置き、短く言った。


「あなたが前を見ているから、私は後ろを見られます。

逆なら成り立ちません」


アルベルトが頷く。

そして、ほんの少しだけ柔らかく言った。


「……ありがとう」


礼を言われるのは、ミレイユにとって未だに慣れない。

軍では礼は形式で、褒めは稀だ。

だから胸の奥が小さく熱くなる。

ミレイユは逃げそうになり、逃げる代わりに一つだけ、甘さを許した。


「……こちらこそ。

あなたがいないと、私は王都で切り裂かれます」


アルベルトの目が細くなる。


「切り裂かせない」


言い切る声が低い。

低い声は、盾になる。



───


その頃、王城の奥では、第二王子が一人で窓の外を見ていた。

彼は聖女に囲まれ、貴族に囲まれ、称賛に囲まれているはずだった。

だが今、視界の中にあるのは称賛ではない。

自分が切り捨てたはずの女が、誰よりも整った形で国を支えている現実だった。


第二王子は、認めたくない感情を整理しようとした。

だが整理できない。

なぜなら、ミレイユがやっていることは「感情」ではなく「結果」だからだ。


戦争が終わった。

それだけではない。

損耗が減った。補給が整った。講和が有利に結ばれた。

そして今、戦後の補給再編まで、彼女は既に骨組みを作っている。

王子が望む“国の安定”そのものを、彼女が手順で実現している。


――なのに、自分は彼女を「冷たい」と断じた。

可愛げがないと断じた。

そして、前線で死ねという形で追放した。


第二王子はようやく理解する。

彼女は冷たいのではない。

熱に溺れないだけだ。

溺れないから、死者を減らせる。

溺れないから、国が保つ。


それは、王子が最も欲しかった資質だった。

王族に必要な資質だった。


そして、その資質を持つ女は、今、自分の隣ではなく、別の男の隣にいる。

しかもその男は、彼女を“鎖”にせず、壁として守り、彼女の構造を活かしている。

王子がやったのは逆だ。

彼女を飾りにしようとし、飾りにならないと見た瞬間、捨てた。


第二王子は、胸の奥が締め付けられるのを感じた。

締め付けられるのに、誰にも言えない。

言えば、自分の弱さが王都の刃になる。


彼は机に戻り、紙を引き寄せた。

ミレイユに宛てた手紙を書こうとして、止めた。

何を書く。謝罪か。悔恨か。未練か。

どれも遅い。遅い言葉は、届かない。

そして届いたとしても、彼女は受け取らない。受け取れば構造が壊れるからだ。


第二王子は、ペンを置き、初めて自分に問うた。


――俺は、何を失った。

地位か。面子か。

違う。

「国を守る形」を、隣に置ける未来を失ったのだ。


その結論は、痛かった。

だが痛いからこそ、真実だった。



───


公爵領の夕暮れ。

屋敷の庭園は、王都よりも空が広く見える。

同じ石畳でも、空気の匂いが違う。

ここはまだ“人が生きる場所”の匂いがする。王都は“人が削られる場所”の匂いが濃い。


ミレイユは歩きながら、今日の会議の議事録を頭の中で反芻していた。

補給倉庫の統合。外部監査。治安維持。退役兵支給。

やることは山ほどある。

だが、山ほどあるからこそ、手順が作れる。

手順が作れれば、恐怖は制御できる。


隣を歩くアルベルトが、ふいに言った。


「……お前、さっきから難しい顔をしてる」


「難しい顔ではありません。通常です」


「通常が難しい顔なんだ」


ミレイユは一拍置き、少しだけ柔らかく言った。


「では、努力します」


「努力じゃなくて……笑え」


命令口調に聞こえるが、声がどこか弱い。

壁の男が、今は少しだけ自分の内側の温度を欲しがっている。


ミレイユは立ち止まり、アルベルトの方を向いた。

夕暮れの光が、彼の輪郭を柔らかくする。

この男が壁になり、次期公爵という椅子に座る。

彼女は構造を作り、次期公爵夫人としてその構造を支える。

二人でやる。二人でなければ崩れる。


ミレイユは短く言った。


「……アルベルト」


名前で呼ぶと、彼の表情が少しだけ緩む。

その緩みは、王都のどんな儀礼よりも価値がある。


「何だ」


「笑う理由をください」


不器用な言い方だと自分でも思う。

だが、彼も不器用だ。

不器用同士なら、これで足りる。


アルベルトは一瞬言葉を失い、次に、珍しく素直な返答をした。


「俺がいる」


それだけ。

それだけなのに、ミレイユの胸の奥が温かくなる。

温かくなって、少しだけ、口元が緩む。


アルベルトがそれを見て、息を吐いた。


「……それだ。今の」


「今の、何ですか」


「お前が“夫人”じゃなくて、ミレイユでいる顔だ」


ミレイユは視線を落とし、そして短く返した。


「私は、両方です」


「そうだな。……両方でいてくれ」


その言葉に、ミレイユは頷いた。

そして、今度は逃げずに言った。


「あなたも。

次期公爵で、アルベルトでいてください」


アルベルトの手が、ミレイユの薬指に触れた。

輪の上から、軽く。

それはもう癖になっている。確かめる癖。守る癖。


「約束する」


約束。

前線での約束は、命の交換だった。

今の約束は、未来の交換だ。


ミレイユは小さく息を吐き、歩き出した。

アルベルトも並ぶ。

並び方が、戦友のそれと少し違う。伴侶のそれとも少し違う。

もっと重い。もっと現実的だ。

二人で国境を支える並び方だ。


そしてミレイユは、心の中で最後の確認をする。

第二王子が気づいたとしても、遅い。

遅い言葉は届かない。

届かないから、構造は守られる。


守られる構造の中で、彼女はようやく理解し始めていた。

処刑場に送られたはずだった自分が、生き残り、国を守り、家を支え、そして――初めて、誰かを好きになったという事実を。

それは“物語”ではなく、彼女が自分の手順で掴み取った結果だった。


次にやることは明確だ。

補給を整え、退役兵を支え、領内の治安を整え、国境が揺れない骨組みを作る。

そして、隣にいる男と一緒に、王都の刃を鈍らせ続ける。


ミレイユは、夕暮れの空を見上げ、淡々と――しかし今までより少しだけ柔らかく言った。


「始まらない構造を、作ります」


アルベルトが低い声で返す。


「君がいないと、この国の戦争は始まる」


ミレイユは首を振った。

そして、言い切る。


「始まりません。

……始まらないように、私たちが作るから」


次期公爵。次期公爵夫人。

その肩書きは重い。

だが重いからこそ、支える価値がある。


二人は並んで屋敷へ戻っていった。

王都の光ではなく、領の暮らしの灯りの方へ。

そこから、国境へ続く未来を整えるために。

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― 新着の感想 ―
この状況、王家としては、その体面を保つ為に、〈ミレイユの資質を理解した上で前線に送り、戦場の兵站を支えさせ、講和を導かせ、そして騎士団長にして公爵家三男との縁を取り持ち、公爵家の改革も行わせた〉 とい…
今回第二王子は未練があるのでファーストネーム呼びは解釈一致なんだけど、家名呼びに改めないのは マナー的にOKなのか、後で説教食らう失言なのかどっちなんだろう? 王に即位した後なら元婚約者含め貴族女性…
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