第25話 『次期公爵と、その伴侶』
公爵家の内紛は、終わった――というより、終わらせた。
燃え上がる前に水をかけ、火種を握り潰し、灰が舞う前に覆いをかける。王都の政治劇は、派手な剣戟ではなく、静かな手順で勝敗が決まる。
ただ、その勝ち方は必ず「代償」を伴う。
代償の一つは、家の内部に残る傷。もう一つは、外部の視線がさらに鋭くなること。
そして最後の代償は――座るはずではなかった椅子が、こちらへ滑ってくることだ。
「呼んでいる。次の話だ」
アルベルトがそう言って廊下を歩き出した時、ミレイユはその椅子の軋みを、足音の先に感じ取った。
当主である公爵の部屋へ向かう導線は、いつもより短く見えた。屋敷全体が、呼吸を止めているような静けさだった。
扉の前で、護衛が一礼し、開く。
中には公爵だけではなく、宰相府の使者と、軍務尚書の代理、そして王家からの立会人がいた。
立会人がいる時点で、これは「家の話」ではない。国家の話だ。
公爵は座ったまま、短く言った。
「座れ。……話す」
ミレイユは礼を最小限にし、アルベルトと並んで席に着く。
並ぶ位置にも意味がある。公爵の正面に長男が座るはずの位置、その半歩後ろに次男が控えるはずの位置。
今、その空白の隣に三男がいる。
空白は、視線を呼ぶ。呼ばれた視線は、必ず意図を読み取ろうとする。
宰相府の使者が、書類の束を机に置いた。
「公爵閣下。監査報告の第一段階は、宰相府としても受領しました。
本件は“家内の混乱”として扱うには、内容が重すぎます。国家反逆の疑いが含まれる以上、処理は公的に固定する必要があります」
軍務尚書の代理が続ける。
「前線補給に関する不正は、兵の死に直結します。
さらに敵国側への流出が疑われる以上、軍務省としては“公爵領の補給系統の再編”を急ぎたい。
……その責任者が必要です」
公爵は頷き、視線をアルベルトへ向けた。
「お前に、その責任を取らせる」
室内の空気が変わった。
言葉は短い。短いが、逃げ道がない。
当主が、国家の目の前で、息子に責任を押し付けたのではない。責任を渡したのだ。
アルベルトの背筋が僅かに硬くなる。
軍人としての反応は速い。だが今は戦場ではない。ここでの返答は、剣ではなく椅子の意味を持つ。
「父上……」
「言い訳は要らん。お前が望んだ形ではないのも分かる。
だが、家は空白を残せない。空白を残せば、外が喰う。
……長男と次男は権限停止、身柄は預かり、側近は拘束。監査は続く。
その間、家の顔は誰が務める」
答えは一つしかない。
アルベルトが息を吐き、低い声で言った。
「俺が務めます」
公爵は即座に頷いた。
「よし。
王家と宰相府に対しても、そう報告する。
……そしてもう一つ。お前を“次期公爵”に指名する」
その宣言が落ちた瞬間、ミレイユの脳内で手順が走り出した。
指名の形式。王家の承認。宰相府の文言固定。領内への通達。軍務省との権限調整。
これを遅らせれば、噂の余白が生まれる。余白が生まれれば、長男派、次男派、そして外部の貴族派閥が勝手に物語を差し込む。
ミレイユは席に座ったまま、淡々と口を開いた。
「確認します。指名を公に固定するタイミングは今日ですか」
宰相府の使者が目を細める。
“妻”がこの場で口を挟むこと自体、王都では異物だ。だが同時に、今は異物が必要な局面でもある。
公爵が答えるより先に、軍務尚書の代理が頷いた。
「今日が望ましい。監査報告と同時に固定すれば、反対派が“疑惑の隙”に入り込めない」
ミレイユは短く頷く。
「なら、文言は『監査体制の継続と補給系統再編を担う責任者として、当主が次期公爵を指名』です。
“家督争いの勝者”に見せてはいけません。国家案件の機能として固定します」
公爵が、少しだけ口元を動かした。笑みではない。
理解した者が出す、短い肯定の表情だ。
「……良い。ミレイユ、お前の言う通りだ。
宰相府、文言をその形で詰めろ」
宰相府の使者が一礼し、羊皮紙を開く。
「承りました。
ただし王家の承認を得るには、王都での“儀礼的な確認”が必要になります。第二王子殿下も列席するでしょう」
ミレイユの心臓が一拍だけ遅れた。
第二王子。
過去を引きずる相手は、余白があるとそこへ刃を差し込む。だから余白を潰す。――それは今も同じだ。
ミレイユは淡々と返した。
「列席は構いません。発言権は議事録に残る形だけに。口頭の“感想”は排除してください」
「了解しました」
アルベルトが隣で小さく息を吐く。
その息には、諦めではなく、覚悟が混じっている。
公爵が最後に言った。
「アルベルト。お前は次期公爵だ。
ミレイユ、お前は次期公爵夫人だ。
――家の内側の刃は、まだ残る。だが外の刃は、お前たちで折れ」
その言葉で、椅子は完全にこちらへ滑り込んできた。
避けることはできない。避けるべきでもない。
座るなら、姿勢を正し、背筋で支えるしかない。
───
王都での確認は、三日後に設定された。
短すぎるが、短い方が良い。王都に時間を与えれば、噂が勝手に増殖する。
その三日の間に、ミレイユは“次期公爵夫人”としての最初の仕事を片付けた。
それは衣装ではない。挨拶回りでもない。
補給系統の再編案と、退役兵の処遇の暫定策、そして公爵領内の治安維持の指針――要するに、国境が再び燃えないための骨組みだ。
夜遅く、机に向かっていると、アルベルトが部屋に入ってきた。
いつもなら鎧の音がする。だが今夜は、鎧ではない。家の男の衣装で、足音が静かだ。
ミレイユは顔を上げずに言った。
「帰還ですか」
「帰還だ。……お前は、まだやってるのか」
「はい」
「明日でいい」
「明日では遅いです」
即答すると、アルベルトが苦笑に近い息を吐く。
「お前は本当に、容赦がないな」
「容赦があると、死者が出ます」
その言い方がいつも通りすぎて、ミレイユは自分で少しだけ反省した。
今は戦場ではない。だが、王都の戦いも戦場に似ている。死ぬのは兵ではなく、体制や未来だ。
アルベルトが机の端に腰を下ろし、ミレイユの書類を見た。
視線が、数字の列を辿っている。以前の彼なら、ここまで紙を読むことはなかった。
変わったのだ。前線の指揮官が、家と国の椅子に触れたことで。
「……退役兵の支給を先に出すのか」
「はい。
戦争が終わっても、腹は減ります。
支給が遅れると、盗みが増え、治安が悪化します。
治安が悪化すると、領内商人が逃げます。
商人が逃げると税が落ちます。税が落ちると補給が落ちます。
補給が落ちると、国境が揺れます」
アルベルトは短く頷いた。
「分かった。……お前が正しい」
その言葉が、ミレイユの胸の奥を少し温める。
温めるのに、彼女はすぐに紙へ戻ろうとした。だが、アルベルトが低い声で止めた。
「ミレイユ」
名前。
名前で呼ばれると、彼女の硬さが少しだけ緩む。
それが危険で、同時に救いだ。
「はい」
「……怖くないのか。次期公爵夫人になるのが」
質問が直球だった。
前線の男は、回りくどい言葉が下手だ。だから、こういう形になる。
ミレイユは一拍置き、正直に言った。
「怖いです。
ですが、怖いから手順を作ります。
怖くないふりをする方が、危険です」
アルベルトが小さく頷き、指先がミレイユの薬指に触れた。
そこに輪がある。輪は、形であり、鎖にも盾にもなる。
「……俺は、お前を鎖にしたくない」
ミレイユは目を伏せたまま、短く言った。
「鎖にされても、長さを確保します」
「そういう意味じゃない」
「分かっています」
分かっているのに、言葉が出る。
言葉で逃げるのは、彼女の癖だ。癖を捨てるには、まだ時間が要る。
アルベルトの声が少しだけ柔らかくなる。
「今夜は……少し休め。俺が隣にいる」
隣。
その単語は、最も現実的な甘さだった。
ミレイユはペンを置き、ゆっくり息を吐いた。
「……では、十分の休憩を取ります」
「十分か」
「十分あれば、呼吸が整います」
アルベルトが笑いそうになって堪えた。
「相変わらずだな」
そう言いながら、彼はミレイユの隣に座った。
肩が触れる距離。
前線では役割だった距離が、今は意味を持つ。
ミレイユは、書類を閉じずに言った。
「確認式が終わったら、最初にやるべきは補給倉庫の統合です。
そして領内の“兵站官”の育成制度を作ります。
個人技に依存すると、また穴が開きます」
アルベルトが頷いた。
「……お前がいないと、俺はやれない」
その言葉は、甘いはずなのに、妙に冷静だった。
アルベルトは“恋”の言葉が下手で、代わりに“機能”で告白する。
それが彼の誠実さだと、ミレイユは理解し始めていた。
「私はここにいます。
ただし、私もあなたがいないと難しいです。
壁がないと、王都の刃が刺さります」
アルベルトの腕が、ミレイユの肩に回る。
抱くのではない。支える。
支えることで、彼は自分の役割を確認する。
「なら、俺は壁だ。
お前が構造なら、俺は外側を守る」
ミレイユは小さく頷いた。
戦友から伴侶へ。
そして伴侶から、次の体制の柱へ。
柱になるなら、互いの役割が必要だ。
───
確認式当日。
王城の広間は、いつもより光が冷たかった。
儀礼は華やかだが、その華やかさは刃の反射にも似ている。
貴族たちは笑みを浮かべながら、互いの腹を探っている。誰が沈み、誰が浮くのか。
沈む者の背中には、必ず刃が刺さる。
ミレイユは礼装を纏い、アルベルトの隣に立っていた。
前に出すぎない。だが引かない。
次期公爵夫人は飾りではない。飾りに見せた瞬間、王都はそこへ付け込む。
宰相が宣言し、当主たる公爵が文言を読み上げる。
“監査体制の継続と補給系統再編を担う責任者として、当主は三男アルベルトを次期公爵に指名する”。
文言は固定され、余白がない。
余白がないからこそ、貴族たちは刃を差し込みにくい。
王家の承認が続く。
そして、第二王子が壇上に姿を見せた。
ミレイユは視線を合わせない。
合わせれば物語が立ち上がる。物語が立ち上がれば、刃が増える。
彼女はただ、儀礼の手順を頭の中で追い、次の動作を準備する。
礼、署名、印章、証人、発表。
だが、第二王子の視線は、ミレイユを追っていた。
追う視線には、過去の「彼女は冷たい」という物語が混じっている。
そして今、その物語が崩れ始めていることへの戸惑いが混じっている。
第二王子は、形式的な言葉を述べた。
公爵家の安定は王国の安定であり、次期公爵に期待すると。
言葉は整っている。だが声が僅かに硬い。
硬さは、感情の抑圧の痕跡だ。
儀礼が進む間、ミレイユは一度だけ、横目で王子の表情を見た。
彼は自分の言葉を言いながら、視線が揺れていた。
ミレイユではなく、ミレイユの隣にいるアルベルトへ。
そして再びミレイユへ。
王子は、気づき始めている。
彼女を失ったのは政治的損失だけではない、と。
式が終わり、参列者が退く導線に移る。
その瞬間、王子が一歩だけ前に出た。
宰相府の目が僅かに鋭くなる。
アルベルトの背筋が僅かに固まる。
ミレイユは先に手順を組んだ。ここで物語を作らせない。作らせるなら、文書で潰す。
第二王子は、低い声で言った。
「ミレイユ……少し、話せないか」
名前で呼ぶ。
王子は、今になって名前で呼ぶ。
それがどれだけ遅いかを、彼自身が分かっているのか分からない。
ミレイユは立ち止まらず、足だけを止めて体を少しだけ向けた。
礼は最低限。距離は保つ。導線を乱さない。
「殿下、議題によります」
冷たい、と聞こえるかもしれない。
だがこれは冷たさではない。王都で生き残るための距離だ。
第二王子は言葉を探し、そして結局、不器用に吐き出した。
「……お前は、変わったな」
ミレイユは淡々と返す。
「私は、死ぬはずでした。
死ななかったので、必要な形に適応しただけです」
その返しが、王子の胸を刺したのが分かった。
“死ぬはずだった”――それは彼が作った形だ。
そして彼は、その形が実際に「死刑」だったことを、今になって現実として突きつけられている。
第二王子の声が僅かに揺れた。
「……俺は、あの時、正しいと思っていた」
ミレイユは表情を変えず、短く言った。
「正しいと思うなら、それで良いです。
ただし、結果は変わりません」
結果。
それは冷たい言葉だ。
だが、結果の前では、王都の物語は意味を持たない。
第二王子は続けようとした。
だが続ける言葉が見つからない。
見つからない代わりに、視線がミレイユの薬指へ落ちた。
輪が光る。
輪は、彼が失ったものの形だ。
王子は、声を落として言った。
「……俺は、失ったのか」
独り言に近かった。
問いを投げた相手はミレイユではなく、自分自身だ。
ミレイユは答えなかった。
答える義務がない。答えれば物語が立ち上がる。
彼女はただ、最後に形式的な礼を取り、淡々と告げた。
「殿下。私はこれから、公爵領の補給再編に入ります。
国境が揺れれば、また兵が死にます。
……失うことを嘆くより、失わない構造を作る方が先です」
そう言い切ると、彼女は歩き出した。
アルベルトが、半歩前に出て壁になる。
王子は追わない。追えば恥になる。追えば、王都の刃が自分に刺さる。
だが追わない代わりに、王子の目が深く沈んだ。
それは、初めて“自分の選択の重さ”を理解した者の目だった。
───
王城を出る馬車の中、アルベルトはしばらく黙っていた。
沈黙は不機嫌ではない。
怒りと警戒が混ざった時の沈黙だ。
ミレイユは先に言った。
「今の接触は、想定内です。
文書で残る形ではありませんでした。
ただし、王子の感情は今後、動きます。
動く感情は、周囲に利用されます」
アルベルトが低い声で言う。
「……お前は、嫌じゃないのか」
「何がですか」
「王子が今さら、あんな顔をすることが」
ミレイユは一拍置いた。
嫌か、と問われると答えにくい。
嫌悪ではない。
ただ、時間が遅い。遅いものは役に立たない。前線でも王都でも同じだ。
「……感情は自由です。
ですが、私はもう“王子の婚約者”ではありません。
役割は終わりました。
終わった役割に戻るのは、構造の破壊です」
アルベルトが、息を吐く。
そして、隣で小さく言った。
「ミレイユ」
「はい」
「……俺は、お前が選んだのが俺で良かったと思ってる」
言葉が不器用で、直球で、少しだけ幼い。
だが、それが彼の誠実さだ。
ミレイユは胸の奥が温かくなるのを感じ、いつもの癖で逃げそうになった。
だが今日は、逃げない方が良い気がした。
次期公爵夫人になるなら、次は“内側の温度”も管理する必要がある。
温度を無理に押し殺すと、折れる。
ミレイユは小さく息を吐き、少しだけ柔らかく言った。
「……私も、あなたで良かったです」
その瞬間、アルベルトの表情が僅かに崩れた。
前線では見せない崩れ方。
彼は何か言おうとしたが、言葉が出ず、代わりにミレイユの薬指に触れた。
輪の上から、軽く。
「……それ、反則だ」
ミレイユは短く返した。
「処理能力を上げてください」
アルベルトが小さく笑い、そして低い声で言った。
「努力する。……次期公爵としても、夫としても」
夫。
その単語が、儀礼の言葉ではなく、温度として落ちる。
ミレイユはその温度を受け止め、今度は逃げずに頷いた。
───
公爵領に戻ると、仕事が待っていた。
当主の権限停止が宣言されている間、家の表の顔は次期公爵が担う。
つまり、アルベルトが決裁し、ミレイユが構造を作り、宰相府と軍務省が監査と公的固定を続ける。
三者のバランスが崩れると、火が再燃する。
最初の会議は、領内の補給責任者と、倉庫管理者、そして治安担当の騎士隊長を集めたものだった。
ミレイユは机上の地図を広げ、淡々と指を走らせた。
「倉庫を分散させすぎています。分散は盗難に弱い。
統合倉庫を三つ。国境線に近い前方倉庫は二つ。
輸送は“同じ経路”を使わない。経路を固定すると、襲撃と横流しが容易になる。
そして、補給の記録は二重化し、別部署が照合する。
照合の権限は家ではなく、軍務省の監査官に一部渡す。
家の顔を保つために、外部監査を入れるのが最も安全です」
騎士隊長が眉を上げる。
「外部に家の内を見せるのは……」
「見せない方が燃えます。
燃えたら、家は灰になります。
見せて、膿を出せば、家は生き残る」
言い切ると、場が静まった。
静まったのは反発ではない。理解が追いつくまでの時間だ。
戦争を生き残った者は、現実の重さを知っている。
だからこそ、現実的な構造案には従う。
アルベルトが、次期公爵として宣言した。
「ミレイユの案で行く。
不満があるなら、数字で持ってこい。感情は要らない」
前線の口調だが、今はそれが必要だった。
家の内側は感情が多すぎる。感情を抑える役割を、次期公爵が担う。
ミレイユは内心で、少しだけ安心した。
壁が機能している。
会議が終わり、人が去った後、アルベルトがミレイユの隣に立った。
「……お前、本当に、俺の妻だな」
唐突な言い方だった。
褒めるのが下手な男の言葉だ。
「どういう意味ですか」
「俺の弱い所を、全部補ってる。
……いや、弱いというより、俺が知らない所を埋めてる」
ミレイユは一拍置き、短く言った。
「あなたが前を見ているから、私は後ろを見られます。
逆なら成り立ちません」
アルベルトが頷く。
そして、ほんの少しだけ柔らかく言った。
「……ありがとう」
礼を言われるのは、ミレイユにとって未だに慣れない。
軍では礼は形式で、褒めは稀だ。
だから胸の奥が小さく熱くなる。
ミレイユは逃げそうになり、逃げる代わりに一つだけ、甘さを許した。
「……こちらこそ。
あなたがいないと、私は王都で切り裂かれます」
アルベルトの目が細くなる。
「切り裂かせない」
言い切る声が低い。
低い声は、盾になる。
───
その頃、王城の奥では、第二王子が一人で窓の外を見ていた。
彼は聖女に囲まれ、貴族に囲まれ、称賛に囲まれているはずだった。
だが今、視界の中にあるのは称賛ではない。
自分が切り捨てたはずの女が、誰よりも整った形で国を支えている現実だった。
第二王子は、認めたくない感情を整理しようとした。
だが整理できない。
なぜなら、ミレイユがやっていることは「感情」ではなく「結果」だからだ。
戦争が終わった。
それだけではない。
損耗が減った。補給が整った。講和が有利に結ばれた。
そして今、戦後の補給再編まで、彼女は既に骨組みを作っている。
王子が望む“国の安定”そのものを、彼女が手順で実現している。
――なのに、自分は彼女を「冷たい」と断じた。
可愛げがないと断じた。
そして、前線で死ねという形で追放した。
第二王子はようやく理解する。
彼女は冷たいのではない。
熱に溺れないだけだ。
溺れないから、死者を減らせる。
溺れないから、国が保つ。
それは、王子が最も欲しかった資質だった。
王族に必要な資質だった。
そして、その資質を持つ女は、今、自分の隣ではなく、別の男の隣にいる。
しかもその男は、彼女を“鎖”にせず、壁として守り、彼女の構造を活かしている。
王子がやったのは逆だ。
彼女を飾りにしようとし、飾りにならないと見た瞬間、捨てた。
第二王子は、胸の奥が締め付けられるのを感じた。
締め付けられるのに、誰にも言えない。
言えば、自分の弱さが王都の刃になる。
彼は机に戻り、紙を引き寄せた。
ミレイユに宛てた手紙を書こうとして、止めた。
何を書く。謝罪か。悔恨か。未練か。
どれも遅い。遅い言葉は、届かない。
そして届いたとしても、彼女は受け取らない。受け取れば構造が壊れるからだ。
第二王子は、ペンを置き、初めて自分に問うた。
――俺は、何を失った。
地位か。面子か。
違う。
「国を守る形」を、隣に置ける未来を失ったのだ。
その結論は、痛かった。
だが痛いからこそ、真実だった。
───
公爵領の夕暮れ。
屋敷の庭園は、王都よりも空が広く見える。
同じ石畳でも、空気の匂いが違う。
ここはまだ“人が生きる場所”の匂いがする。王都は“人が削られる場所”の匂いが濃い。
ミレイユは歩きながら、今日の会議の議事録を頭の中で反芻していた。
補給倉庫の統合。外部監査。治安維持。退役兵支給。
やることは山ほどある。
だが、山ほどあるからこそ、手順が作れる。
手順が作れれば、恐怖は制御できる。
隣を歩くアルベルトが、ふいに言った。
「……お前、さっきから難しい顔をしてる」
「難しい顔ではありません。通常です」
「通常が難しい顔なんだ」
ミレイユは一拍置き、少しだけ柔らかく言った。
「では、努力します」
「努力じゃなくて……笑え」
命令口調に聞こえるが、声がどこか弱い。
壁の男が、今は少しだけ自分の内側の温度を欲しがっている。
ミレイユは立ち止まり、アルベルトの方を向いた。
夕暮れの光が、彼の輪郭を柔らかくする。
この男が壁になり、次期公爵という椅子に座る。
彼女は構造を作り、次期公爵夫人としてその構造を支える。
二人でやる。二人でなければ崩れる。
ミレイユは短く言った。
「……アルベルト」
名前で呼ぶと、彼の表情が少しだけ緩む。
その緩みは、王都のどんな儀礼よりも価値がある。
「何だ」
「笑う理由をください」
不器用な言い方だと自分でも思う。
だが、彼も不器用だ。
不器用同士なら、これで足りる。
アルベルトは一瞬言葉を失い、次に、珍しく素直な返答をした。
「俺がいる」
それだけ。
それだけなのに、ミレイユの胸の奥が温かくなる。
温かくなって、少しだけ、口元が緩む。
アルベルトがそれを見て、息を吐いた。
「……それだ。今の」
「今の、何ですか」
「お前が“夫人”じゃなくて、ミレイユでいる顔だ」
ミレイユは視線を落とし、そして短く返した。
「私は、両方です」
「そうだな。……両方でいてくれ」
その言葉に、ミレイユは頷いた。
そして、今度は逃げずに言った。
「あなたも。
次期公爵で、アルベルトでいてください」
アルベルトの手が、ミレイユの薬指に触れた。
輪の上から、軽く。
それはもう癖になっている。確かめる癖。守る癖。
「約束する」
約束。
前線での約束は、命の交換だった。
今の約束は、未来の交換だ。
ミレイユは小さく息を吐き、歩き出した。
アルベルトも並ぶ。
並び方が、戦友のそれと少し違う。伴侶のそれとも少し違う。
もっと重い。もっと現実的だ。
二人で国境を支える並び方だ。
そしてミレイユは、心の中で最後の確認をする。
第二王子が気づいたとしても、遅い。
遅い言葉は届かない。
届かないから、構造は守られる。
守られる構造の中で、彼女はようやく理解し始めていた。
処刑場に送られたはずだった自分が、生き残り、国を守り、家を支え、そして――初めて、誰かを好きになったという事実を。
それは“物語”ではなく、彼女が自分の手順で掴み取った結果だった。
次にやることは明確だ。
補給を整え、退役兵を支え、領内の治安を整え、国境が揺れない骨組みを作る。
そして、隣にいる男と一緒に、王都の刃を鈍らせ続ける。
ミレイユは、夕暮れの空を見上げ、淡々と――しかし今までより少しだけ柔らかく言った。
「始まらない構造を、作ります」
アルベルトが低い声で返す。
「君がいないと、この国の戦争は始まる」
ミレイユは首を振った。
そして、言い切る。
「始まりません。
……始まらないように、私たちが作るから」
次期公爵。次期公爵夫人。
その肩書きは重い。
だが重いからこそ、支える価値がある。
二人は並んで屋敷へ戻っていった。
王都の光ではなく、領の暮らしの灯りの方へ。
そこから、国境へ続く未来を整えるために。




