第17話 『敵国、静かに崩壊中』
敵は、倒れない。けれど、痩せていく。
それは戦場で最も嫌な形の変化だった。派手な崩壊ではない。旗が折れて雪崩れるような退却でもない。
ただ、動きが鈍る。声が荒れる。夜の火が減る。馬の嘶きが消える。負傷者の運び方が雑になる。補給車列が来ない。来ても軽い。
小さな徴候が積み重なり、ある日、敵は「勝てない」のではなく「続けられない」に変わる。
ミレイユはその変化を、数字と報告の上に並べた。
斥候の記録。捕虜の供述。敵営の火の数。夜の見張り交代の間隔。矢の撃ち返しの回数。
そして、最も分かりやすい指標――馬の飼料。
「敵が馬を引き下げています」
ルーカスが朝の報告を置いた。紙の端が汚れている。走り回って集めた情報だ。
「引き下げ?」
「騎兵が減りました。哨戒に馬を出さない。歩哨の数も落ちています」
ミレイユは頷いた。
「……飼料が足りない。あるいは、馬を守る余力がない」
馬は戦力であり、補給そのものでもある。馬が動けないと荷車が死ぬ。荷車が死ぬと兵が痩せる。兵が痩せると盾が上がらない。
「敵の火は?」
「昨夜も少ない。炊事の煙が薄い。煮炊きが減っているのか、燃料がないのか」
「燃料がないなら、森に取りに来ます」
「来ています。伐採に出た小隊を見つけました。人数が少ない。護衛も薄い」
ミレイユは地図の端に、小さく印をつけた。
敵の疲弊が“外に漏れた”場所だ。漏れた場所は、狙える場所でもある。
そこへ、指揮所の扉が開いた。アルベルトが入ってくる。外套の襟を立て、顔の疲れは隠せないのに、足取りは崩れない。
彼の背後には、いつものように護衛が控えている。ミレイユの護衛も同じだ。距離三歩。外側警戒。昨日作った表が、既に砦の空気になりつつある。
アルベルトは報告紙を一瞥し、短く言った。
「敵が落ちてきたか」
「落ちています。ただし、崩壊ではありません。疲弊です」
「疲弊は、厄介だ」
「はい。最後が一番危険です。追い詰められた敵は、勝ちに来ない。破壊に来ます」
アルベルトが目を細める。
「こちらの補給か」
「それか、砦の火種です。内部攪乱もあり得ます」
ルーカスが続けた。
「昨日、捕まえた斥候が供述しました。敵は食糧が減り、兵の逃亡が出ていると」
アルベルトが顎で示す。
「供述は信用できるのか」
「完全には。ですが、現場の徴候と整合します。火が少ない。騎兵が減る。伐採隊が薄い。――一致しています」
ミレイユは紙束を揃え、結論を置いた。
「敵は、戦争を続ける体力が落ちています。ここからは、“勝つ”より、“終わらせる”準備です」
アルベルトが一拍置いた。
「終わらせる、か。講和か」
「講和の前に、相手が“席に座りたい”状態になる必要があります。相手の退路を潰しすぎると、席に座りません。死ぬまで暴れます」
ルーカスが頷く。
「出口を作る、と」
「出口を作ります。出口は“弱さ”に見せてはいけない。出口は“合理”として見せる」
アルベルトの口元が僅かに歪む。
「お前は、敵にも手順を押し付ける気か」
「押し付けません。選ばせます。選択肢を並べるだけです」
その言い方は冷たい。だが、戦争を止めるのに必要な温度でもある。
アルベルトは地図の上に手を置き、低く言った。
「次の一手は」
ミレイユは印を付けた地点を指した。
「敵の伐採隊を狙います。殺し尽くしません。捕虜を取り、物資を押さえ、敵に“森が使えない”と理解させます。
燃料が減れば炊事が減り、病が増えます。病が増えれば士気が落ち、逃亡が増えます。
それで敵は、補給線を復旧するか、撤退するか、交渉するかを迫られます」
アルベルトが眉を上げる。
「病まで計算に入れるのか」
「戦争は病で終わります。剣で終わるより多い」
ルーカスが小声で付け足す。
「衛生班からも報告が上がっています。敵側の河下で、死体処理が雑になっていると」
アルベルトの顔が硬くなる。
死体処理が雑になるのは、余裕がない証拠だ。余裕がない軍は、崩れるのではなく腐る。腐る軍は、最後に疫を撒き散らす。
「よし。……だが、こちらの衛生も締めろ。自分の首を絞めるな」
「はい。こちらは水源の管理を強化します。排泄場所の固定。灰の処理。飲み水は必ず煮沸。手順を徹底します」
アルベルトが一瞬だけ、ミレイユの方を見た。
「便所の護衛もな」
ミレイユは息を吐いた。
「……それは衛生と別です」
「別じゃない。暗がりは危険だ」
「警戒レベルが過剰です」
ルーカスが咳払いで笑いを殺した。
アルベルトは何も言わず、ただ「行くぞ」と短く命じた。
───
伐採隊の襲撃は、昼過ぎに行われた。
夜襲は最も効く。だが、敵の疲弊が顕在化している今は、昼の方が「見せる」効果がある。
昼に殴られると、敵は“どこでも危険”だと思う。
どこでも危険だと思うと、外へ出られない。外へ出られないと、燃料が減る。
ミレイユは作戦を短く組んだ。
弓兵二十。槍兵二十。盾持ち十。捕縛役十。計六十。
目的は二つ。伐採物資の奪取と、捕虜の確保。
殺すのは必要最小限。逃げ道は一本残す。逃げ道を残せば、敵は散って逃げる。散れば、こちらが追わずに済む。
森の縁に近づくと、木を叩く音が聞こえた。斧の音だ。
斧は規則正しい。規則正しい音は、油断の音でもある。
斥候が手で合図する。
敵は三十前後。護衛は十。残りは伐採役。
護衛が薄い。薄い護衛は、疲弊の証拠だ。
第二隊長が囁く。
「参謀殿、やりやすいですが……罠では」
ミレイユは首を横に振った。
「罠なら、もっと見せます。今の敵は見せられない。見せる余力がない」
敵は罠を仕掛けられないほど痩せている。
それは危険でもあるが、終わりの兆しでもある。
合図が落ちた。
弓が鳴る。
矢は護衛に向ける。伐採役に向けない。伐採役は逃げる。逃げれば目的が達成される。
護衛が倒れれば、伐採役は散る。散れば木材が残る。残ればこちらが奪える。
最初の矢が盾を叩き、次が肩に刺さった。護衛が呻き、盾が傾く。
傾いた盾の隙間から、別の矢が喉に入る。
血が噴き、男が膝をついた。膝をついた男を、後ろの者が支えようとして前に出る。前に出たところへ矢が刺さる。
敵は反撃しようとしたが、動きが遅い。盾の上げ方が鈍い。矢を番える手が震える。
震えるのは恐怖だけではない。空腹と疲労だ。
槍兵が前に出る。盾持ちが壁になる。
壁ができると、伐採役が悲鳴を上げて散った。斧を投げ捨て、木材を置いて、森の奥へ逃げる。
逃げる背中を追わない。追うと森の中で迷う。迷えば死ぬ。
捕縛役が護衛のうち動ける者へ向かう。
剣を落とした男の腕を捻り、縄を掛ける。抵抗する者には短い打撃。頭を割らない。生きた捕虜が必要だ。
敵の指揮らしき男が叫んだ。
「退け! 退け! 燃やせ!」
燃やせ、というのは、自分たちの伐採物資を燃やす命令だ。奪われるくらいなら燃やす。
その発想が出るのは、余裕がない証拠だ。
ミレイユは短く命じた。
「火を出させない。矢を集中」
弓兵が指揮役へ矢を叩き込む。
一矢が腿に刺さり、男が倒れる。倒れたところへ二矢目が腕に入る。腕が折れ、剣が落ちる。
叫びが止まり、敵の動きがさらに鈍る。
数分で終わった。
護衛は半数以上が倒れ、残りは逃げた。捕虜は三。
伐採物資は山のように残った。薪束、板材、縄、釘、粗い油。
油があるのは大きい。油は火を生む。火は食を生む。食は士気を生む。
第二隊長が荒い息で言った。
「……敵、弱いですね」
ミレイユは淡々と返した。
「弱いのではありません。削れているだけです。削れた敵は、最後に暴れます」
「追撃は」
「しません。撤収します。物資を持ち帰る」
物資を背負わせ、荷をまとめ、捕虜を縛る。
撤収は戦闘より難しい。撤収の手順が崩れると、勝ちが負けに変わる。
帰路の途中、捕虜の一人が息を切らしながら呟いた。
「……なぜ、殺さない」
ミレイユは歩きながら答えた。
「生きて帰って、あなたの上官に伝えてください。森は使えない。補給は続かない。
あなたたちの戦争は、もう“続けられない”と」
捕虜が笑った。笑いというより、乾いた咳のような音だった。
「……講和を望んでいるのか」
「望んでいます。あなたたちが席に座るなら」
捕虜の目が揺れた。
席に座る、という表現が彼の頭にないのだろう。
彼の軍は、最後まで立って死ぬしかないと思い込んでいる。
思い込みを崩すには、刃より言葉の方が効くことがある。
ただし、言葉だけでは崩れない。言葉を支える現実が必要だ。
現実――補給が消え、火が消え、馬が死に、兵が痩せる現実。
砦へ戻る頃には、日が傾いていた。
兵たちが物資を見てざわめく。薪束を見る目が違う。薪は暖かさであり、煮炊きであり、病を抑える薬でもある。
医療班の年配の男が、薪束に触れて言った。
「……これで煮沸が続く」
ミレイユは頷いた。
「続けましょう。衛生が崩れた方が負けます」
───
夜、捕虜の取り調べは短く行われた。
ミレイユは長く喋らせない。疲弊した兵は、長く喋ると嘘が増える。嘘を混ぜて生き延びようとする。
短い質問で、短い答え。答えの矛盾は、別の捕虜で照合する。
捕虜は言った。
食糧は減った。塩がない。酒もない。
病が増えた。水が悪い。煮沸する薪がない。
上官が焦っている。焦って怒鳴る。怒鳴ると兵が逃げる。
逃げた兵は戻らない。
戻らない兵を補う新兵が来ない。
補給車列が来ない。来ても襲われる。
森へ出れば襲われる。
夜は寒い。火がない。
馬が倒れる。倒れた馬を食う。食うと腹を壊す。
一つ一つはよくある話だ。
だが全てが同時に揃う時、軍は“戦えない”のではなく“続けられない”になる。
アルベルトが捕虜を見下ろし、低い声で問うた。
「お前の国の将は、まだ戦うと言っているのか」
捕虜は唇を噛み、絞り出した。
「……戦うと言う。撤退を言う者は、臆病者として殴られる」
「殴って、兵が増えるのか」
捕虜が笑い、すぐ咳き込んだ。
「……増えない。だから、殴るだけだ」
アルベルトの目が冷えた。
前線の指揮官は、殴ってでも線を保つしかない時がある。だが、その殴りが自分の軍を殺すことも知っている。
敵の将は、今、軍を殺している。自分の手で。
ミレイユは結論を置いた。
「敵は内部で折れ始めています。折れた軍は、外へ刃を向けます。こちらの補給と、こちらの民へ。
だから、出口を作る必要があります」
アルベルトが短く言った。
「出口を作れば、逃げるか」
「逃げます。逃げるなら追いません。追うと、こちらが病に巻き込まれます。
追わずに境界を締め、補給線を守り、交渉に誘導します」
「交渉に誘導、か」
アルベルトは少し黙ってから、言った。
「お前のやり方は、剣の勝ち方じゃないな」
「剣で勝つと、死者が増えます」
「死者を減らす勝ち方、か」
その言葉の後、アルベルトがミレイユを見た。
いつもの鋭さが少しだけ薄い。代わりに、確かめるような色がある。
「……お前は、怖くないのか。敵が腐り始めた時の戦場は」
ミレイユは一拍置いた。
怖い。怖いのは当然だ。怖いから手順を作る。
それはいつも通りの答えだ。
「……怖いです。だから、手順を増やします。
恐怖に対して、過剰警戒ではなく、適正な警戒を」
アルベルトの口元が僅かに動いた。
「俺は過剰でいい」
「団長のそれは、別枠です」
「別枠にするな」
「別枠にしないと、砦が動かなくなります」
押し合いの会話が、ここ数日で妙に馴染んできている。
馴染んでいるのは危険だ。慣れは油断を生む。
だが同時に、馴染んでいるのは信頼が増えた証拠でもある。
ルーカスが咳払いをして話題を戻した。
「参謀殿。捕虜の供述に、もう一つありました。敵の上層が、講和の可能性を探っていると」
ミレイユの目が僅かに細くなる。
「……誰が」
「名前は出しませんでした。ただ、“使者が動くかもしれない”と」
アルベルトが椅子にもたれ、短く言った。
「来るなら、どこに」
ミレイユは地図の境界線を指した。
「国境の中立地帯。川の浅瀬。両軍が見える場所がいい。
ただし、敵が弱いほど、使者は危険です。刺客が混ざる」
アルベルトが即答した。
「俺が出る」
「団長が出ると、敵が緊張します。緊張すると交渉が硬くなる。
出るなら、形式の人間を立ててください。私は後ろで線を締めます」
アルベルトが眉を寄せる。
「お前は出ないのか」
「出ません。私は象徴になりかけています。象徴が前に出ると、相手は“奪う”を考えます」
「奪わせない」
「奪われないために、出ないのが合理です」
アルベルトは黙った。黙り方が重い。
反論ではなく、飲み込もうとしている黙りだ。
最後に、低い声が落ちた。
「……分かった。出るな。俺が決める」
ミレイユは頷いた。
命令で止められるなら、それが一番安全だ。自分で止めるより、ずっと。
───
その夜、砦の外の闇はいつもより濃かった。
敵営の火がさらに減っている。
火が減るのは、燃料がないからだ。燃料がないのは、森が使えないからだ。森が使えないのは、今日の襲撃が効いたからだ。
効いた手応えはある。
だが手応えは同時に、敵を追い詰める手応えでもある。
ミレイユは見張り台の下で立ち止まり、遠い闇を見た。
闇の中に、見えない疲弊が沈んでいる。
沈んだ疲弊は、いずれ底を打つ。底を打つ瞬間に、人は狂う。
背後から足音がした。距離三歩。護衛だ。
「寒いですね」
護衛の若い騎士が、遠慮がちに言った。
こういう雑談が出るのは、砦が少しだけ息をし始めた証拠だ。
ミレイユは短く返す。
「寒いほど、火が必要です。火が必要ほど、薪が必要です。薪が必要なほど、敵は苦しい」
騎士が困ったように笑い、黙った。
彼も分かっているのだ。彼女はそういう返ししかできない。
部屋に戻ると、リネが湯を用意していた。薪の匂いがする。今日奪った薪が、もう生活に回っている。
「お嬢様、今日は……薪が増えました。皆さんが喜んでいます」
「……煮沸を徹底できます」
「はい。病の者が減ると、お医者様が言っていました」
病が減る。
その言葉が、戦場でどれほど価値があるか、リネはまだ完全には分からない。
だが、彼女の目が少し明るい。それだけで十分だ。
ミレイユは記録帳を開き、今日の作戦を短く書いた。
(敵疲弊:火減少、騎兵減少、伐採隊薄、病増)
(作戦:伐採隊襲撃。目的=燃料遮断+捕虜確保+物資奪取)
(結果:捕虜3、薪・板材・油確保。敵の外行動がさらに制限される見込み)
(次:敵の“出口”設計。交渉の席へ誘導。内部攪乱と破壊行動への警戒強化)
書き終えて蝋燭を消す直前、ミレイユは一行だけ、余白に残した。
——敵が弱るほど、こちらは強くならなくていい。こちらは“崩れない”だけでいい。
闇の中で、砦の遠い足音が続く。交代の足音。規則正しい足音。
規則正しい足音は、まだ秩序が生きている証拠だ。
そしてその秩序の端に、ひとつだけ余計なものがある。
アルベルトの“過剰”だ。
過剰は、理屈で切れる。
だが、彼の過剰は、恐怖と意志が混ざっていて、切りにくい。
ミレイユはそれを今夜は切らない。
切らない方が、砦が動く。
砦が動く方が、皆が生きる。
――そう結論づけて、目を閉じた。
遠い闇の向こうで、敵がどれだけ痩せても。
最後に暴れるとしても。
こちらが崩れない限り、終わりは近づく。




