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第10話 ホルモンが出る

 犬飼さんを褒めまくってでれでれの照れ顔にしてやると決意したものの、具体的にどうしたものか。俺は六時限目の授業を聞き流しながら考えを巡らせた。


 人生経験の豊富な人物にアドバイスを請いたいところだが、プライベートを話せる教師はいないし、親だと変な心配をかけてしまうかもしれない。


 ほどほど年が近くて、ほどほど距離の近い人物。


 ――ひとり、いるな……。


 頼りになるかは分からないが、ほかにめぼしい人物もいない。


 帰宅したあと、俺は姉ちゃんの部屋をノックした。


 しかし返事はない。玄関に靴はあったから、すでに大学からは帰ってきているはずだ。ではリビングか、トイレか、風呂か。そう考えて探してみてものの、やはり姿は見当たらない。


 ――居留守か?


 姉ちゃんの部屋の前にもどり、今度はドアノブを回してみた。


 あっさり開く。


「姉ちゃん?」


 部屋を覗く。シャツとジャージの姉ちゃんは、バランスボールを背もたれにして居眠りしていた。


 かたわらにはスクイーズボトルが置いてある。俺はそのストローを寝ている姉ちゃんの口にくわえさせてみた。


「ん~……?」


 最初は怪訝そうな表情をしたものの、すぐにちゅうちゅうとスポーツドリンクを吸いあげはじめた。目尻を下げて、幸せそうな表情を浮かべている。


 しかしさすがにおかしいと感じたのか、姉ちゃんは目を開けた。俺を見て、スクイーズボトルを見て――。


 さらにスポーツドリンクを吸った。


「無言で継続……!?」


 ようやくストローから口を離す。


「寝起きって喉が渇くから」

「水分失うほど長時間サボってたのかよ」

「ちょ、ちょっと休憩してただけ」

「運動時間より長いものは休憩とは言わない。もはや中断である」

「名言みたいに言わないでよ……」


 ボトルを奪いとってちゅーと吸い、ぶっきらぼうに言った。


「それで、なんか用事?」

「あ~……、ちょっと、聞きたいことが」

「なに?」

「ええと……」


 いざ聞くとなると、なんだか照れくさい。


「え、なになになに? なんか言いづらいこと?」


 と、身を乗りだしてくる。


「ほらほら、恥ずかしがらないでお姉ちゃんに言ってみい?」


 俺の姉だけあってふだんは陰気な空気をまとっているくせに、マウントをとれると見るや表情が活き活きとしやがる。


「……いや、やっぱいいわ」


 にやにやした顔がむかつく。踵を返して部屋を出ようとしたところ、手首をつかまれた。


「まあまあ落ち着いて。ほら、スポーツドリンク飲みな」

「いらんわ」

「照れちゃって。可愛い」


 俺は振りかえり、姉ちゃんの顔をまじまじと見た。


「なに?」

「いま俺のこと褒めたな」

「褒めたよ?」

「それだよ」

「ん?」

「うまい褒め方。どうすればいい」


 姉ちゃんはぴんと来たかのように目を見開いた。


「もしかして、ついに(せい)ちゃんに春が来た……?」

「そんなんじゃねえ」


 犬飼さんとの関係は本当にそんなものではない。


「とか言って顔赤くして。うい奴」


 イラッとする。


「帰る」

「ま、ま、ま。教えるから」


 と、俺を強引に振り向かせて、がっちりと肩をホールドした。


 ――力が強え……!


 子供のころから姉ちゃんに力比べで勝ったことが一度もない。さすがに俺も高校生になって、そろそろ逆転したのではと思っていたのだが、そんなことはないようだ。


 俺はライオンに追いつめられたウサギのように身をこわばらせる。


「屈んで?」


 言われるがままに、床に膝をつく。姉ちゃんは満足そうに微笑むと、俺の頭に腕を回し、胸に抱きしめた。


 俺の顔が姉ちゃんの胸にむんにょりと沈みこむ。


「お~、よしよし、可愛いわたしの弟。マイプリティブラザー。ちゅちゅちゅ~」


 猫なで声で言いながら、俺の後頭部をなでさすり、頭頂部にキスをする。


 俺は姉ちゃんの身体を押すがびくともしない。


「恥ずかしがらなくていいから、思いっきり甘えな?」


 ――窒息しそうなんだよ!!!!!!


 意識が遠くなりはじめる。俺は最後の力を振りしぼり、姉ちゃんの肩をタップした。


 ようやく解放される。俺は床に尻餅をつき、新鮮な空気を胸いっぱいに吸いこんだ。


「なんだ、苦しかったの。言ってよ」

「言えなかったんだよ……!!」

「でも、気持ちよかったでしょ? ほら、おっきい胸って安心するって言うし」

「ほんと、無駄にでかいよな」

「ええ……?」


 姉ちゃんは悲しそうに顔を歪めた。背中を丸め、念仏のようにぶつぶつ言う。


「そりゃあこれのおかげで得したことより損したことのほうが多いけど、わたしの唯一のチャームポイントを無駄って……。成ちゃん、それはほんとタブーだよ……」

「す、すまん」

「そういえばタブーってさ、逆から読んだらブタだよね。ふひっ、わたしにお似合いだね?」

「い、いや」

「あ、『ふひっ』じゃなくて『ぶひっ』か。ぶひっ」


 暗い顔で自嘲の笑みを浮かべる。


 怖い。あとウザい。


「悪かったって。それよりもっとべつの方法はないか?」

「え、駄目だった?」

「こんなのいきなり女子にできるわけないだろ」

「やっぱり女子なんだ? ふひっ」

「だから本当にそういうのじゃ――、面倒くせえな」


 いちいち反論する気も失せる。


「分かった分かった。もうちょっと穏当なやつをご所望ね?」

「ああ」

「じゃあ、相手の好きなところを伝えればいいよ」

「好きなところ?」

「それからその感想を付け足す」

「感想を……」

「ちょっとやってみたいからやってみていい?」

「なんだよその漫才の入り方みたいなの」


 姉ちゃんはこほんとせき払いした。


「成ちゃんは、口ではきついことを言ってもお姉ちゃんのこと大事にしてくれるし、そういう素直じゃないけど優しいところ、大好きだよ」

「……」


 思いのほか本気っぽい褒め言葉が来て俺は反応に困った。なんだかこそばゆくて、むずむずする。


「という感じで」

「た、たとえば、だよな」

「大好きなのは本当だけどね」

「……」

「相手を喜ばせるコツは、気持ちを素直に伝えることだから」


 顔がかあっと熱くなる。


「あ~、もう! ほんと可愛いなあ!」


 と、まるでシャンプーでもするみたいに俺の頭をわしゃわしゃと撫でまわす。


「や、やめろっ」


 俺は姉ちゃんの手から逃れて廊下に退避した。


「とにかく、思ったよりは参考になった。サンキューな」

「ほかならぬ弟の頼みですから」


 姉ちゃんはうんうんと鷹揚に頷いた。


 自分の部屋にもどり、デスクチェアに腰を下ろす。


 姉ちゃんのアドバイスは本当に参考になった。しかし、それだけでは少し物足りない気がした。


 というのも、犬飼さんの言葉を思いだしたからだ。


『誰かに身を委ねると、すごく……、不安だけど、安心するっていうか……』


 俺はいまのところ、彼女に不安しか与えられていない。安心も感じてほしいのだ。


 そして、姉ちゃんはこう言っていた。


『ほら、おっきい胸って安心するって言うし』


 俺におっきい胸はないが、解決策のヒントにはなりそうな気がした。


 ――たしか……、大きい胸に抱かれると、なんとかってホルモンが出るって聞いたことあったような……。


 俺はスマホで『巨乳 癒やし』『大きい胸 安心』『胸 ホルモン』などなど、片っ端から思いつく語句を検索した。


 ――あとで履歴を消去しないとな……。


 そしてついに答えにたどり着く。


 オキシトシン。通称、幸せホルモン。これが分泌されるとストレスが消え、多幸感を覚えるらしい。まさに犬飼さんに感じてほしい感覚だ。


 ――具体的にはどうすればいいんだ?


 たどり着いたブログの文章を読む。


『オキシトシンは幸福感をもたらす愛情ホルモンとして注目されています』


 ――ふむ。


『赤ん坊に授乳するとき、母親の脳からオキシトシンというホルモンが分泌されます』


 ――なるほど。


『つまり乳首がオキシトシン分泌のスイッチともいえるということです』


 ――う……ん?


『オキシトシンには女性をオーガズムに導く作用もあると』


 俺はブラウザのもどるボタンを押し、スマホを置いた。


 ドンと机を叩く。


 ――なにを読ませるんだよこの野郎……!


 いくらオキシトシンのためとはいえ――。


 ――犬飼さんの……、ち、ちく……をどうにかするなんてできるわけないだろ……!


 その後もオキシトシンについて調べてみたものの、基本的に肉体的接触が伴うものばかりだ。


 なるべく接触面積が少なくて済む方法は――。


 ――『撫でる』か……。


 お腹が痛いとき母親に腹をさすってもらうと、不思議と痛みがやわらぐことがある。それは撫でられることでオキシトシンが分泌されているからという説もあるらしい。


 たしかに、俺も犬飼さんに顔や首筋を拭われてすごく気持ちがよかった。


「……よし」


 ついに方針が定まった。

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