10話
「なんだか、夢の中にいるような気分よ」
鏡を見ながら、シャーロットはつぶやく。独り言だとわかっているのか、メアリーは静かに傍らに控えている。
レオナルドと再会して以降、大聖堂で彼に頻繁に会うようになった。一度会えれば幸運だと思っていたシャーロットは度重なる奇跡に感謝していた。
彼は教会の知り合いに会いに来ているらしく、礼拝を一緒に行うことはなかったが、顔を合わせると談笑に付き合ってくれた。話せば話すほど、シャーロットはレオナルドに惹かれていく。
だが、この恋が叶うことはないとわかっていた。貴族である以上、いつかはお互い別の相手と結婚する。束の間の幸福な時間なのだと言い聞かせるシャーロットに、ある日、レオナルドは告げた。
「今度の週末、王都の公園へ行かないか?」
大聖堂で偶然会って話すのなら友人の範囲でおさまるが、ふたりで出かけるのは婚約者も同然だ。レオナルドがそれを知らないはずはない。
そして、彼は我を通すために周りに迷惑をかけるのを良しとしない人間だ。ポーレット家の人々も、今回の彼の行動に賛成しているということになる。
突然のことに何も言えずにいるシャーロットに、レオナルドは不安そうに顔を曇らせる。シャーロットは慌てて口を開いた。
「も、もちろん、行かせていただきます……!」
「……そうか。では、楽しみにしている」
嬉しそうに顔を綻ばせたレオナルドを思い出し、シャーロットの胸が高鳴った。鏡に映った顔も真っ赤になっている。
パタパタと扇子で頬を冷やしていると、侍女がレオナルドの訪問を告げた。
期待と不安で心臓が破裂しそうなシャーロットの緊張は、レオナルドの顔を見て若干解けた。
「レオナルド様……その……」
「言うな。……自分でも、わかっているから」
レオナルドは恥ずかしそうに笑った。その顔はシャーロットに負けず劣らず赤く、強張っている。
今回のデートに至った時点で、互いの気持ちはわかっている。それが面映ゆく、けれど嬉しい。
レオナルドが連れてきてくれたのは公園の湖だった。
「大聖堂は人が多いし、君と出会った場所だから、ここがいいと思ってな」
片膝をつき、レオナルドがシャーロットに手を差し出す。
「シャーロット・グレイス。俺は君を愛している。どうか、俺と結婚してくれませんか?」
シャーロットの目頭が熱くなり、視界が滲んだ。震える手で彼の手に己の手を重ねる。
「はい。私も、あなたをお慕いしております」
嬉しかった。幸せだった。レオナルドとの未来は希望に満ち溢れていた。
なのに、僅かな不安が芽生えたのは何故だろう。
『シャーロット、恋に溺れてはいけないわ』
悲壮に満ちた母の声が響く。
『相手を想えば想うほど、傷つくのはあなたよ。愛は永遠ではないの。愛されなくなれば、きっと相手への愛は憎しみに変わるわ。……私のように』
両親が恋愛結婚だったと知ったのはこの時だ。かつては、シャーロットとレオナルドのように仲睦まじかったのだと聞かされた。
『あなたは若い頃の私にそっくりなんだから』
確信に満ちた言葉がシャーロットを蝕む。
自分は母に似ている。だから、もしレオナルドに嫌われてしまったら――
「……ット! シャーロット!」
誰かが名前を呼んでいる。沈んでいた意識が徐々に明瞭になり、シャーロットがぼんやりと目を開くと、誰かが顔を覗き込んでいる。
「レオナルド様……?」
掠れた声だったが、レオナルドには届いたらしい。彼はシャーロットが目覚めたことに気づき、声を和らげた。
「起こしてすまない。うなされていたが……大丈夫か?」
「ええ……。問題ありませ……えっ!?」
レオナルドの腕の中にいることに気がつき、シャーロットは慌てて体を起こそうとした。だが、レオナルドに静止される。
「このままで。倒れたばかりだし、馬車の中だ」
「あ……そ、そうですね。……あの、私、一体……?」
「大聖堂から帰ろうとした時に、突然倒れたんだ。おそらく、疲労のせいだろう。……今日は、いろいろあったからな」
意識を失ったシャーロットを馬車に乗せ、グレイス家に向かっているらしい。シャーロットの向かいにはメアリーが座っていて、心配そうに主を見ていた。
シャーロットはまだ混乱の中にいたが、下手に動くとふたりにさらに迷惑をかけてしまうからと、レオナルドの腕の中でじっとすることを選んだ。
何度か深呼吸をして落ち着いてくると、良くも悪くも冷静に物事を見れるようになった。
シャーロットの体を支えるレオナルドの腕。裾からわずかに見える肌に、びっしりと鳥肌が立っている。
反射的に体を離しそうになるのを、シャーロットはぐっと抑えた。心に受けた衝撃は大きく、じわじわと痛みが広がっていくが、平静を装う。
「レオナルド様」
「なんだ?」
「ありがとうございます」
「……ああ」
その声に以前はあった熱がなくとも、抱きしめる腕に不自然に力がはいっていようとも、シャーロットは目を伏せて、レオナルドの腕の中にいた。
涼やかな風がカーテンを揺らす。夜空に煌々と輝く月明かりを浴びながら、シャーロットはぼんやりとしていた。
帰ってからすぐに就寝したせいか、一度目が覚めてしまうと眠ろうにも眠れず、かといって本や刺繍で時間を潰す気にもなれない。
軽く扉が叩かれ応えると、メアリーが入室してきた。その手にはティーセットが載ったお盆がある。
「ハーブティはいかがですか? 温かいものをお飲みになれば、よくお眠りになれますよ」
シャーロットが起きた気配を察して持ってきてくれたのだろう。
メアリーはお盆をサイドテーブルに置くと、手早くランプをつける。
「ありがとう。遅い時間に悪いわね」
「いえ。いつもならお茶を飲まれている頃ですから」
「まだそんな時間なの。……早くに眠ると、時間感覚が可笑しくなってしまうわね」
メアリーが淹れてくれたハーブティを飲みながら、シャーロットは雑談に興じる。鼻をくすぐる香りが心を癒やし、喉を通る温かなお茶が体を落ち着かせた。
「あんなことがあったから眠れないと思ったのに、気がついたら眠っていたわ」
グレイス家についた時の事を思い出し、シャーロットの頬がほんのり熱を帯びる。
自分で歩いて戻ろうとしたところをレオナルドに止められ、彼に抱えられてベットに運ばれたのだ。すれ違う使用人たちの見守るような視線が恥ずかしくていたたまれなかった。
「そうですね……。お嬢様にはいろいろなことがありました」
メアリーの返答に違和感を覚える。シャーロットたちのあの姿を誰よりも喜びそうなのに、メアリーは至極冷静だ。
シャーロットはメアリーの顔を窺い、息を呑んだ。
「メアリー……あなた、泣いて……?」
メアリーは静かに泣いていた。彼女の榛色の瞳から次々と涙が溢れ、頬を伝っていく。
人前では礼儀正しい侍女であり、シャーロットとふたりきりの時は感情豊かな少し年上の女性だったメアリーが泣くのを見るのは初めてだった。
「申し訳、ございません、お嬢様……」
「いいのよ。あなたにもたくさん負担をかけてしまったわね。もう今日は休んで」
「いいえ、そうではなく……っ」
メアリーは嗚咽をこらえ、シャーロットを見つめる。
「お嬢様がおつらい思いをしていたのに、私は気づかないどころか、呑気なことばかり言ってしまいました」
「……知って、いるの? 私とレオナルド様に起きたこと」
「はい。お嬢様が倒れられた後、馬車の中でポーレット様からお聞きしました。……おふたりの状況を中途半端に知っているだけだと不安だろうし、お嬢様を支えるために知っていてほしいと」
図書館で日記を調べていた時に、メアリーが傍に控えているのにも関わらず、呪いのことなどを話してしまっていたことに今更ながら気がついた。そこまで頭が回っていなかったのだ。
レオナルドは婚約解消の可能性も出ていることも伝えていたらしく、シャーロットが結婚を楽しみにしていたことをよく知っているメアリーは、突然の悲劇に唇をわななかせた。
「どうしてお嬢様たちがこんな目に……」
「……これも導きかもしれないわ。出来ることをやっていくしかないの。レオナルド様もおつらい中、懸命に解決策を探してくださってる。……私が傍にいるのも苦しいでしょうに、今日みたいに一緒にいてくださって……」
ぽたり、と涙が膝の上で握りしめた手に落ちる。
「お嬢様……」
メアリーがシャーロットの手を包む。子供の頃、お茶会で悲しい思いをしたシャーロットを彼女はよくこうして慰めてくれた。震えるシャーロットの手を優しく握り、彼女が吐露する気持ちに耳を傾けてくれた。
「私……レオナルド様に嫌われて、とても悲しいの。苦しくて仕方ないの」
仇を見るような冷淡な瞳に、嫌悪の混じる尖った声。そして、汚らわしいものに触れたかのような拒絶反応。そのどれもがシャーロットの心を無惨に切り裂いた。
「でも、でもね……それでも好きなの」
むごい心変わりをレオナルドは必死で隠そうとした。これまでと変わらない態度でシャーロットに接しようとしてくれた。事実、ほとんどの人間は彼の変化に気がつかなかった。
レオナルドの心の機微に聡かったシャーロットだけがそれを察した。もし鈍ければこれほど傷つくこともなかっただろうが、彼が心底憎い相手にすら優しく誠実であることも知らなかっただろう。
シャーロットは涙を拭った。どうあっても、レオナルドを愛することは止められないと改めて実感する。
「くよくよしていられないわ。レオナルド様も私も長く苦しむのはごめんだもの」
「ええ、なんとしてでも、呪いを解きましょう! 私も、全力でご協力いたします……!」
「ありがとう、メアリー。あなたにそう言ってもらえて心強いわ」
シャーロットは微笑んだ。気持ちは軽くなっており、今日はぐっすり眠れそうだと思った。




