とある政務官の屈託:5.幸せの意味
昔、何度か王女殿下が文官の執務室を訊ねてきたことがある。
『どうされましたか? 殿下』
彼女はきょろきょろと誰かを探していた。小さな手には大事そうに、問題集を持っていた。
『今日は……いないのかしら』
その時彼女は頑なに、誰を探しているのかは口にしなかった。
『宿題教えてもらおうと思ったのに』
『宿題であれば私がお教えしますよ、殿下』
何せ相手は王女殿下である。補佐官も政務官もこぞってそう申し出たが、エレオノーラはふるふると首を横に振り、その拍子に結わえた金髪がひらりと揺れた。
その時、会議を終えたギルベルトが執務室に戻ってきた。エレオノーラはぱっと顔を輝かせて、一目散に彼に向って走っていった。
『ギル、どこにいたの? 探したのよ!』
『会議です。あと、いきなり走るのはおやめになってください。皆が心配します』
そして、ランドルフはこの無愛想な部下が王女殿下をどのように扱うかが無性に見たくなった。
『それで一体、何の用です』
ギルベルトが不機嫌そうに答えるのはいつもと変わらない。
『あのね、この問題教えて』
青い目を輝かせてエレオノーラは左手で問題集を広げてみせる。右手でくいくいと、ギルベルトの服を引っ張っている。
対して、緑の目の返事はつれない。
『ご自分できちんと考えるように俺は言ったはずですが』
『考えたわよ! でもねここの計算が分からなくて』
『どこの計算ですか?』
愛想の欠片もないのだが、自分の隣にはきちんと椅子を置いてやっていた。
遠目から見れば、微笑ましいかぎりの光景だった。あの頃はただ王女が懐いているなと思ったぐらいだったけれど、今や二人は女王と王配となったのだ。
そして、ギルベルトの行動の起点にはいつも、エレオノーラがいた。こうなると、特段の感慨も湧いてくるというものである。
「して、幸せが何かは分かったのかい?」
「そうですね……」
そこでギルベルトは言葉を切って遠くを見るように目を細めた。まるでそこに眩しい光でもあるように。
「朝目覚めて一番に、大切な人の顔が見られる、ということでしょうか」
「ほう」
おそらく昔の彼を知る者が見たら卒倒しそうなほど、やわらかな笑みまで浮かべてみせる。
「ギルベルト、一ついいことを教えてやろう」
「なんでしょうか」
「世間一般ではそれを、惚気というんだ」
ランドルフは盤を見つめて、僧正を置いた。浮かれた弟子にはいい薬になるだろう。
「……なる、ほど」
これでギルベルトは詰みである。彼はしばらく考え込んでいたが、静かに頭を下げた。「負けました」
久しぶりにいい勝負ができた。宰相位は退いたが、こちらの腕はまだ衰えていないようで我ながら安心する。
他の政務官や補佐官とも勝負をしたことあるが、今やランドルフと正々堂々戦ってくれる者は多くない。ギルベルトは色んな意味で貴重な存在だ。
「そろそろ王宮に帰り給え。君の帰りを待っている者が沢山いるだろう」
「はい」
見送りの際に、ギルベルトはこんなことを言った。
「お身体を大切になさってください」
「年寄り扱いはやめてくれよ」
「閣下」
ギルベルトは一度向き直ってランドルフを見た。
「閣下には、末永く長生きしていただきたく存じます」
言葉には労わりに満ちていたが、ランドルフはその緑の目に宿った闘志を見逃さなかった。
「負けたままでは、私も寝覚めが悪いですので」
「はははっ。だから私はもう、閣下ではないと言っているじゃないか」
「また参ります」
来た時のようにきれいに一礼して、王配殿下は馬車に乗り込んだ。
「いつでも、待っているよ」
どうせ陛下の寝顔でも眺めているくせに、と思ったけれどそれは言わないでいてやることにした。
これが、師のやさしさというものである。
【オマケ:補佐官は見た】
アーノルドは並んで座る政務官と王女を頬杖をついて眺めていた。
後ろから見れば、仲がいい兄妹と言っても通じるような感じである。
「いいよなぁ。あそこまで色男だと王女からもご指名が入るんだから」
本人はてんで自覚していないようだが、ギルベルトはすこぶる顔がいい。
羨ましいなあ、ちくしょう。
「しっ! ダメですよ、アーノルド補佐官。姫様ずーっと、一時間以上待っておられたんですから。扉が開く度に振り返ってて。もうその健気さたるや……」
隣に座るユリウスが小声で言う。こいつはさっきの会議に出ていなかったので、王女が訪ねて来たところから一部始終を見ていたのだろう。
「なるほどねぇ」
「しかもあのギルベルト政務官が自ら隣に誰かを座らせるなんて天変地異ものですよ。これは温かく見守らないと」
「へいへい。モテる男は大変ですねぇ……」
にしてもいくら美形とはいえあんなにも「近づくな」オーラ全開の人間の隣に、王女殿下もよく座れたものだ、と思ったところでアーノルドは驚くべきものを目にした。
「見ろ! ギルベルトが姫様の頭を撫でてるぞ! あの冷徹根暗政務官殿にそんな機能が備わっていたとは……これはおれの目がおかしくなったのか、ユリウス」
切れ長の緑の目はいくらか穏やかになって王女を見つめている。
これは、一体なんだ。
「いえ、私にも同じものが見えています、アーノルド補佐官。集団幻覚の可能性は否定できませんが、にしても、なでなでしてもらって嬉しそうですね、姫様」
ユリウスはそこで感慨深そうに目を細めた。
「これはでも、ひょっとしたら、ひょっとするかもしれませんね」
「おい、ユリウス。殿下はまだ十歳だろ……そんな年には」
「アーノルド補佐官、十歳はいずれ十一歳になります」
「……それはそうだな」
そこで政務官の制服を着た背中がこちらを向いた。
「アーノルド補佐官、ユリウス補佐官。ご依頼した書類の期限は明日ですが、大丈夫ですか」
ギルベルトはちらりと振り返って、アーノルドとユリウスに尋ねた。
まるでその背中にも目があるのかと思えるほどだった。自分達を見る目には一切の容赦がない。王女に向けられていたのとはえらい違いだ。
「まさかとは思いますが、まだ手をつけていないというようなことは、ありませんよね?」
しまった、さっきから一行も仕事が進んでいなかった。何せ天変地異と幻覚が一気に押し寄せたのだ。勘弁していただきたい。
「「今すぐ取り掛からせていただきます!!」」
野良犬が番犬になるまでの過程について。
政務官・補佐官の皆さんはギルベルトの結婚が決まった時に、泣きながらケーキを食べてお祝いしたそうです。
お読みいただきありがとうございました。
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