10.約束通り
「姫様」
図書館から持ってきた本を広げていたら侍女が言った。なお、内容はほとんど分からない。ただぺらぺらとめくっているだけだ。
「なあに」
「何か良からぬことを、企んでおられたりしませんよね……?」
ここ三日、エレオノーラは全く授業をサボらずに真面目に聞いている。
何せ、どこにあの色の変わるお茶の魔法を解く鍵が眠っているか分からないのだ。そう思うと今まで全く聞く気のなかった教育係の話にも身が入るというものである。
「何が言いたいのよ」
「実は駆け落ちの計画を立てていて、今はそのためのご準備をされているとか」
「失礼ね。わたしはいつも真面目よ」
とは返してみたものの、あまりの変わりようにそう言いたくなるのも分かる。
今までも何か具体的に理由があった訳では無いのだ。ただ、王宮にいると落ち着かなくてどこかにふらっと出かけたくなる。今はそれどころではないというだけ。
「そうですよね、そうですよね。失礼をいたしました」
そう言って侍女は午後のお茶を淹れるとすごすごと退室していった。
実は「駆け落ち」という言葉の意味がよく分からなかった。誰かに聞いてみようかとも思ったけれど、頭の片隅で端整な顔が「そんなことも分からないのか」とため息を吐いたので、こっそりと辞書で調べてみた。
開いてみたページにはこう書いてある。
『結婚を許されない相愛の男女が密かによその土地に逃れること』
「密かによその土地に、ねえ……」
彼女は新しく入った侍女なのだが、随分と想像力が豊かなようだ。
聞けばそういう恋愛小説を最近読んだらしい。先日は怪盗某とかいう話を読んでいて、それはエレオノーラも読んだが面白かった。今度も絶対に貸してもらおう。
また、男が笑う。今度はどちらかというと頭の真ん中の方で、片方だけ口角を上げてにやりと。
「もう、そんなんじゃないんだから!」
ぶんぶんと頭を振っても、ただ癖のある金髪が踊るだけで彼の面影は消えてはくれない。さすがは一度見たら三日は忘れられない美形である。
「絶対に、あり得ないわ!」
眉を顰めてエレオノーラは乱暴に辞書を閉じて机の隅に追いやった。
結婚を許されないということは、何か大変な事情があるのだろう。身分の差だとか家同士の諍いだとか。
けれど、それを超えてまで共に生きたいと思えるから、二人は手に手を取って駆け落ちするのだ。
もしも誰かが、自分ことをそんなにも思ってくれるとしたら。
「ちょっとうらやましいかも……」
けれど、あの人はエレオノーラと駆け落ちはしてくれないだろう。例えば泣いて頼んだとしても、
『随分と頭の悪い冗談ですね』
きっとそんな風に取り付く島もなく一蹴されるのがオチだろう。切れ長の目は冷たい光を宿して凛と輝くのだ。分からないことは数多あるが、それだけは分かる。
机の上には湯気の上がる紅茶がある。侍女が淹れてくれたそれはいつもと変わらぬ豊かな芳香を放っていたが、あまり飲む気にはなれなかった。小難しい本をめくっているうちに、お茶は静かに冷えていった。
残りあと二日となったところで、やっと本でその記述を見つけた。
特定の種類のコケから得られる紫色の色素は、液体の性質によって色を変えるという。その液体が酸性なら赤色、アルカリ性なら青色、というように。このコケ以外にも同じような性質を持つ色素は沢山あるということだった。
もしあのお茶の青が、そういう性質のものだとしたら。ギルベルトがスプーンで加えた何かが、液性を変えるような何かだとしたら。
魔法ではない。ちゃんと自分でも説明ができる。そう思った。
何を聞かれても怯まないように、しゃべることをきちんとメモを書いておこう。
あの仏頂面を真似して、エレオノーラは机に真っ白い紙を広げてペンを走らせた。
そうして、そのメモと本を携えて、同じ曜日同じ時間にあの扉を開いた。
変わらずそこに、黒髪の男がいた。けれど、エレオノーラの姿を認めると、一瞬、その緑の瞳を見開いた。
「約束通り来たわよ」
腰に手を当てて長身を見上げてみる。
「何か言うことはないのかしら?」
その時にはもう、ギルベルトは涼やかな顔に戻っていた。
「ああ、そうですね……お待ちしておりました」
そうでしょう、そうでしょう。
エレオノーラだってこの日を待ちわびた。そうでなくてはつまらない。
「それでは、ご説明していただけますか」
ギルベルトは、腕を組んで椅子に深く腰掛けた。
「望むところよ」
机の上に、本の該当のページを広げる。手にはちゃんと話すことをまとめたメモを持った。
「えっと、世界には様々な色素があります。中でも、植物に含まれる色素は、液体の性質によって色を変えることがあり、ます」
話始めると、まったく思っていたようにはいかなかった。頭の中では朗々と流れるように話せるはずだったのに、つっかえてしまう。
紙から顔を上げると、ギルベルトの目はまるで睨みつけるように眇められている。
咄嗟に、エレオノーラは俯いた。
「続けて」
冷徹な声にそう促されると、手が震えて持っていた紙を落としそうになる。ぎゅっと握りしめたら、それはエレオノーラの手の中でくしゃりと歪んだ。
きっと、間違っていたんだ。だからどんな風に叱ろうか、考えているんだ。そうに決まっている。頭の中がぐるぐるとして、言葉に詰まる度にそれが確信に変わっていくようだった。
「特に、有名な、ものが、あるコケ、類に含まれているもので、」
みるみるうちに目の前が滲んで見えなくなっていく。喉が熱くなって、結局何も話せなくなった。手の甲で拭ってみても、涙が止まらない。またばかにされるに決まっている。
「そんな風にすると、目が腫れますよ」
乱暴に顔に伸ばした手を、ぐっと掴まれた。
ためらいがちに反対の手で差し出されたのは、折り目のついたきれいなハンカチ。
「擦ると目が赤くなる。誰にも泣いたことを知られたくないなら、流れるままにして拭いた方がいい」
ハンカチには、美しく彼の名前が刺繍されていた。誰かがきっと、彼の為に作ったものだ。こんなもので、涙が拭けるような気は、到底しなかった。
呆然と顔を上げたら、長身はすっとエレオノーラの前にしゃがんだ。
「どうして、泣くんですか」
受け取れなかったハンカチで、彼は頬に流れた涙を丁寧に拭っていく。
「だって、そんなにっ、怖い顔で、ずっとわたしのことを睨んでるから」
間違えたんだと思ったの、と答えた最後の声は掠れてしまったから、ギルベルトにまで届いたかは分からない。
ただ、彼は長い前髪をかき上げて大きく溜息を吐き、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「俺のせいか」
ぼそりと呟かれたそれは、まるで自分自身に失望しているような声だった。




