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光は泡沫に踊る  作者: 牧田紗矢乃


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光は泡沫に踊る

 ズキズキと鈍い痛みがわたしの眠りを遮る。


「……ん、あ……」


 見たこともない場所に、わたしはいた。

 どうしてこんな所にいるのだろう。疑問に思いながら記憶を辿ろうとして、わたしは全身の血が音を立てて引いていくのを感じた。


 ――思い出せない。名前も、素性も、何のためにここにいるのかも。


 激しく荒れている海と、周囲に見える岩礁、そして、鈍い頭痛からおおよそのことは推測できた。ただ、わたしは自分がどうするべきなのかが一向に分からなかった。

 わたしは、確かに記憶を失っていたのだ。――目を覚ました、その時だけは。




 何が何だかわからないまま彷徨さまよっているうちに、浅瀬へ出た。気付かぬうちに陸のすぐそばまで来てしまっていたのだ。

 わたしは、自分の位置を確認するために水面へ浮上した。


 ――目に入ったのは、白い時計台だった。


「ここ……知ってる?」


 時計台を見た瞬間、霞のかかったようだった記憶がゆっくりとよみがえってきた。そして、わたしはものの数十分ほどでほとんど全ての記憶を取り戻してしまった。

 波はまだ高い。さっき以上に潮の流れが速くなっているせいで、待ち合わせ場所はおろか家の方向へ向かうのも難しい。

 下手をすれば、他の土地へ押し流されてしまうだろう。


 岩場に腰かけて海が凪ぐのを待っているわたしに、胸に被るほどの高波が何度も激しく押し寄せた。わたしは波に引きずられないよう持ちこたえるのがやっとだった。

 この様子だと、ショウは待ち合わせ場所にもたどり着けないだろう。

 闇夜の荒れた海を見つめ続けるうち、わたしの心によこしまな気持ちが湧き上がってきた。


 ――このまま記憶を失ったことにしてしまったらどうだろう。


 記憶を失っていたと言えば、人の町へ近づいたことに対するお咎めも軽くて済むだろう。ショウだって、心配こそすれ叱りはしなかろう。

 ショウには会いたいが、それはまた別の機会でもいい。ショウとならこれからも会える。でも、人間の町に近づけるのは今だけなのだ。


 わたしは甘い誘惑に負けた。


 人間に接触したい。できることならば、相手の命を奪わない形で。異国の姫のように、泡となって消えてしまっても構わない。一度でいい。生きた人間と話をしてみたい。

 むくむくと湧き上がる欲求に、我ながら舌を巻いてしまった。こんなこと、今まで意識したこともなかったのに。

 自分が本当にそう思っているのかもわからない。荒れた海を見ていたら、ついそんな気分になってしまっただけかもしれない。


「でも、行かないで後悔するより、行って後悔した方がマシ」


 大きくうねった波の飛沫しぶきがわたしの肩を濡らした。乾き始めた身体に沁みるような磯の匂いが心地いい。

 ここにいるだけじゃ、わたしの無知は治らない。ショウに迷惑をかけないためにも、色々なものを見聞きして勉強しなきゃいけないんだ。

 立派な大義名分を盾にして、“記憶喪失”になったわたしは欲望に忠実に生きることにした。

 これは軟禁生活の反動だ、と言われても仕方ないだろう。だって、あながち間違えていないのだから。




 わたしは夜になると海岸沿の一角に身をひそめるようになった。そこで、誰かが一人でやってくるのをひたすらに待つのだ。

 人影を見つけると、水面に顔を少しだけ出してこちらへ気付いてくれと念じた。声を掛けようとしたこともあった。けれど、のどが引きつれたようになって上手く声が出せなかった。

 どこかのお姫様みたい、なんて初めのうちは笑っていられたけれど、次第にそれもできなくなってきた。


 海が穏やかになり、両親とショウが連絡を取り合ったらしい。

 わたしが行方不明になったことが、皆に知れたのだ。心配した両親やショウは、方々に捜索を依頼したらしい。昼間になると、様々な種類の魚たちがわたしの名を呼びながら海藻の間をすり抜けていく。

 平時であれば美しい魚のショーも、今のわたしには恐怖でしかなかった。


 いつばれるとも分からない。わたしに残された時間はわずかだった。




 これで駄目だったら、家に帰ろう。そう決めた日の晩だった。わたしは遠くから赤く小さな光が近づいてくるのを見つけた。


 ――炎だ。


 すぐにわかった。移動しているということは、運ぶ何かがいるということ。きっと人間に違いない。

 わたしは期待しつつ、いつもの位置に待機した。これではいつも通り無視されてしまうかもしれない。そんな不安が胸をよぎる。

 不安に駆り立てられたわたしは、普段なら絶対にしないような大胆な行動に移っていた。

 海岸ギリギリまで行くと、砂浜にあがったのだ。ざらざらとした感覚が鱗越しに伝わる。細かな粒が突き刺さるような感触は、海の中では味わうことが出来ないものだった。


 しかし、ここには長時間はいられない。鱗が乾くと剥がれ落ちてしまうからだ。

 鱗が剥がれれば、海水が酷くしみる上に完治に時間もかかる。それで辛い思いをした人魚の話を、何度も聞かされてきた。だからこそ、わたしは同じ思いをしたくはなかった。


「早く、早くっ!」


 炎の光を見つめながら、わたしは必死で祈った。あと数十メートル。わたしに気付いていてもおかしくない距離だ。

 近づいてきたのは一人の男だった。わたしは、彼に声をかけようとした。けれど、声が出せないのはいつもと同じようだった。

 彼は、わたしに気付かないままに隣を通り過ぎていく。


 ――諦めて帰るしかないのか……。


 わたしが悲嘆に暮れた時だった。小さなチャンスが舞い込んできた。

 男が、すれ違いざまに咥えていた炎をぽいと投げ捨てたのだ。それを見たわたしは思わず手を伸ばしていた。

 炎に触れたらどうなるのかなど、その時のわたしは微塵も考えていなかった。

 じゅ、と音がして、腕に鋭い痛みが走った。反射的に腕を跳ね上げる。


「痛いっ!」


 思わず声が漏れて、ハッとする。これまでであれば何も言えず、何もできずにいたのに――。

 ズキズキと痛む腕の痛みには覚えがあった。クラゲに刺されたときのアレだ。クラゲには毒がある。その毒が痛みを引き起こすのだと母様が言っていた。ということは、男の投げた炎には毒があったのか。

 わたしは姿を隠すよりも傷口から毒を吸い出すことを優先した。近くに触れるだけでもズキリと痛むが、毒は出さなければ命にかかわる。

 ちゅうちゅうと音が響くのも構わず、わたしは腕を吸い続けた。


「大丈夫ですか?」


 わたしが自分の腕に必死になっている間に、男はすぐそこに来ていたようだ。心配そうな表情は、わたしたち人魚と何ら変わりない。


 ――警戒するまでもなさそうじゃない。


 わたしは拍子抜けしながら答えた。


「何かに噛まれたみたい」


 言ってから噛まれたのか刺されたのかと改めて考えたが、それは大した問題ではなかったようだ。

 彼はわたしを抱き上げた。そして、何のためらいもなく歩き始める。わたしは抵抗しなかった。


 彼は、浅村だと名乗った。

 浅村は、ショウとは全く違うタイプの男だ。ショウの方が断然いい。なのに、浅村の腕の中は、なぜか居心地がよかった。

 わたしは浅村に自分のことを何も教えない。今のわたしは、“記憶喪失”なのだから。


 だから――泡沫のようなこの自由を、目いっぱい楽しんでやる。

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