ケーキ 前編
寒いと言う言葉が生ぬるい、これは痛みと言うべきだ。ギュッと競り上げたネックウォーマーが鼻まで覆い隠し、赤くなった顔がゆっくりと溶けていく。
風という物が、どれだけ熱を持っていくのか実感する。ただの布一枚がとても暖かい。
「もう少し、厚い物を買えば良かったかしら。」
「オシャレは我慢、というくらいだからね。この冬はデザインよりも暖かさで選んでも良いかもね。大事な大事な八千代が体に障るような事があれば、私は……」
「はい、ストップ。大丈夫よ、そこまでの寒さじゃ無いわ。」
「そうかい? まぁ、私が寒いから少し休んで行こうか。」
手を引く兄に連れられ、暖房と音楽が肌に心地よい場所へ足を踏み入れる。珈琲豆を煎る匂いと、こんがりとしたトーストの匂い、そして僅かな煙の匂い。
「やぁ、久しぶり。今、開いてるかい?」
「いつもは閉まってるみたいな言い方するなよ。おや、其方の美人さんは……」
「八千代だよ、知っているだろう?」
「あぁ。いつも話は聞いているよ、最高の妹が自慢なんだ、ってね。」
髭を整えた彫りの深い男性が、柔らかい笑みを浮かべながらカップを置いて礼をする。綺麗な所作は上品さを感じさせ、彼の纏う控えめな香水の香りも相まって落ち着いた雰囲気を作っている。
しかし、兄の態度を見るに、同年代の筈だ。まだ若いだろう、その男性に微笑みかけて頭を下げる。
「ご親切にありがとうございます、兄がお世話になっているようで。」
「これは御丁寧にどうも。美しい女性にあまり頭を下げさせるものでも無い、さっそくご注文を承りましょうか?」
「そう畏まるなよ、他に客も居ないんだ。」
「そうもいかないさ、綺麗な人を見ればいい格好をしたくなるのが男のサガだろ?」
「君には勿体ない。」
「口説いてるんじゃないんだよ、シスコン野郎。」
いつも決まった注文なのか、兄には聞くことも無く豆を選んで挽いていく。そんな彼に、兄と同じものを、と頼んでカウンターへと腰を下ろす。
煙草の臭いでも思ったが、黒張りの室内といい、セクシーなポスターといい、針の付いたダーツといい、客層は決まっていそうだ。それを裏付けるように高めの椅子は、長身な八千代でも少し高く感じる。
「ここ、お酒も嗜めるのかしら?」
「お察しの通り、夕方以降はその様に。」
「お一人で?」
「えぇ。都度、休憩は挟みますけどね。」
「だから客が集まらないんだよ、不定期に開くものだから。」
「閉めてても押し掛ける客ばかりなもんで、解決しようと思えなくてね。」
互いに楽しそうに皮肉を飛ばし合う空気に、少し覚えがあった。そう、確か……
「柊木さん?」
「おや、覚えていて貰えたとは光栄だな。会ったのは二度程だったと思ったんだけど。」
「覚えてますよ、とても印象深かったものだから。ほら、あの頃から珈琲は豆を挽いてらしたから。」
「うん? そうだったかな?」
「人の家に器具を持ってきたのは君だけだったね。」
兄は多芸である。一時、珈琲を作ることにも凝っていたので、その関係の友人が集まることがあったのだが、粉末を持ちあって混ぜている人達の中で、ゴリゴリと豆を挽いていたのが彼だ。
挽き方で風味が変わるから試したい、と言っていたのを覚えている。彼は、皆で豆を持ち寄ったりするつもりだったらしい。
「あぁ、思い出した。そういえば、あの時にも貴女は居たか。では、これで四回目の顔合わせという訳だ。」
「あれからも続けてらしたのですね。」
「はは、これしか脳が無いもので。他の事はとんと続かず、それなら仕事も日常も纏めてしまおうとね。」
「ここまで一辺倒な人も珍しいだろう? 程よく無関心なお人好しの距離感が心地よくて、フラッと立ち寄る固定客に生かされている道楽者がコイツだよ。」
「酷い言い草だな。」
言葉こそ酷いが、それは八千代の現状を考えれば信頼だった。彼女は今尚、大スターとは言えない。行き場のない焦燥感は、感じない歳でも無いのだ。
仕事は順調に増えてはいるが、それは国内の、それも文化に馴染んだ層のみ。せめて日本で知らない人は居ないとまで言わせなければ、彼女の目的は果たせない。
そんな時に、愚直に理想に浸っている彼の存在は、共に時間を過ごすだけでも良い気分転換になるだろう。
「ありがと、兄さん。」
「うん、どういたしまして。」
「え、なに、もしかして嫌われてた? 酷い事言われてお礼言われちゃってるんだけど。」
「さぁ、どうだろうね。それより、そろそろ淹れ終わった?」
覗き込んだカウンターの向こうで、ドリップから立ち上る湯気が落ち着く香りを届けてくる。
泡を潰すように一周回し入れると、サーバーから注ぎ入れたカップは二つ、カウンターの上へと招かれた。
「今日は開店の予定じゃなかったからね、自分で飲もうと思ってハンドドリップだけど。」
「サイフォンのブームは過ぎたのかい?」
「一人で飲むには手間でね。」
「挽くのは十分手間だよ。」
「これは楽しみなんだから、やらせてくれよ。」
二人が何を言っているのか、八千代にはよく分からなかったが。それでいい、それがいい。自分が居ることを許された空間で、穏やかに過ごす。強引に焦りから外す事による、リラックス法。
夢を追うにはまだ半ばだが、仕事して見れば十分に軌道に乗っている。事件や事故もなく、順風満帆と言える日々。焦りは禁物だ、常に余裕を入れておかねば、演じる自分も訪れる幸運も詰め込む隙がないではないか。
いや……事件ならあったか。もう随分と過去のようだが、ほんの数ヶ月前の一日。六の夜を超えて、最後の日没を見たあの夢のような場所。結局、目的も変化も何も分からずに、また日常へと戻っている。
(まぁ、でも……少しだけ華二宮ちゃんとの距離は近くなったかしら?)
仕事でふと出会う時、今までに無かった雑談の時間が設けられるようになった。互いにあの夜の事は語らないが、この変化はあれを現実のものだと思わせてくれる。
そんな事を考えていた時だった。カラン、と鳴った背後の音に振り向けば、驚いた顔をした男性。こちらも目を見開かざるを得ない。
「おや、ツヴァイさん。久方ぶりだね、貴方がいらっしゃるとは珍しい。」
「いや、今日は閉店だと踏んでいたのだが……先客がいらしたとは。」
「うん、閉店なら来ないで貰えます?」
なんでうちの客はこうも……とボヤきながら新しく豆を挽くマスターに、ツヴァイと呼ばれた男は紙袋を手渡した。
「受け持っていた仕事が一段落してね、差し入れです。」
「ほう? 暫くは国内にいたと思ったけど……何処かへ?」
「すまないが、珍しい豆では無い。ただの菓子類でね、よろしければお二方も。御高名な蝎宮様方に出会えて光栄だ。」
貼り付けたようなアルカイックスマイル、急に口に出す個人情報、余裕を崩さない済ました態度。相変わらず癪に障る男だ、と心の中で舌を出し、八千代も表情を読ませない社会的微笑でもって返礼する。
「あら、ありがとう。喜んで受け取るわ、三成さん?」
「……あまり関心しないイタズラだな。隠してる身の上でそう言われては。」
「貴方の言葉が無ければ、数ある役名の一つだったかもしれないのに。」
「おっと、これは失敗した。一本取られたようだ。」
大したことでもないとでも言いたげな済ました態度が、また八千代の心を乱す。人のスペースにズケズケと入るのに、まるで意に介さない態度。
人の目標へ、名声ある立場へ、そんな夢を追い続けた八千代にとって、それは非常に不愉快だ。
「さて、と。僕はこれまで通りに呼んだ方が良いかな?」
「どちらでも構いませんよ、身分を隠すのは道楽のようなものなので。」
「変わったご趣味で……ミルクは?」
「無しで。」
「いつものね。」
手書きの伝票と共に三成へと手渡したマスターは、さっそく自分の分を淹れ始める。彼に渡したのは、自分が飲むもののついでだったようで、新しく豆を挽く事は無かった。
「うん、やはり、自分で淹れてもこうはいかない。」
「そりゃ、こっちはプロですから。あぁ、そうだ。ご存知の様ですが、彼らは僕の旧友だ。そしてこちらは……気づいたらそこにいるレアな人、かな。」
「友人でいいのでは?」
「生憎と、顔を合わせた事の無い後輩を、そう呼ぶ性格でも無いんだ。珈琲の好みと背格好しか知らないのでは、ね。」
「なるほど、確かに。」
簡単に納得した三成は、本当にただ差し入れを持ってきただけのようで。目も耳も休ませてリラックスしているのを、八千代は手に取るように把握出来た。
彼の興味は目の前の珈琲と、切り分けられていくシフォンケーキにしか行っていない……意外に甘党なのだろうか。
「しかし、ケーキとは珍しい差し入れだ。」
「ここに来る途中に、大量に売られていましてね。たまには悪くないだろう、と。ほら、世間はクリスマスですからね。」
「あぁ、それで。そんじゃ、蝎宮もパーティかなんかでこっちまで出てきたのかな?」
「あぁ、兄妹水入らずの時間という訳だ。貴重なんだよ?」
「……八千代ちゃん、悪い事は言わない。君のお兄さんは、さっさと嫁でも取らせるべきだと思うよ。」
「私が言って聞いてくれるなら、そうしてるんですけどね。」
諦めと呆れを含む視線を受け、キョトンとする兄の顔。好いてくれるのは嬉しいが、やはり少し心配もすべき域なのだろうか。
「美味しいものも頂いた事だし、そろそろ私はお暇するとしよう。御三方、良いクリスマスを。」
「あぁ、今度は店を開いている時に来てくださいね。」
「確約しかねますね、人が集まる場は苦手なもので。」
「だからって閉まってる所に来ないでくれます?」
もう何人に言っているのか分からない、慣れたセリフを口に出しているようで、その表情にはとっくに諦めた、という感情が隠せていなかった。
感情を読めない微笑で軽く受け止めた三成が、返答せずにそこを出ようとする。だが、そんな彼の袖を引く者が一人。
怪訝に思い振り返ろうとする彼を引き寄せ、壁へと押し当てて逃がさない八千代が、下から睨め付けるように見上げた。
「そんなに焦らなくてもいいじゃない? つれない人ね。」
「随分と熱烈な事だ。だが今はプライベートでね、事務所を訪ねてくれるかな?」
「場所も知らないで? 貴方、あれから、わざと隠れてるでしょう。」
「さて、なんの事だか……さっぱりだ。」
汗ひとつ、瞼ひとつ動かない。だが確かにその関心を己に感じている八千代が、更に畳み掛けようとするが……ふと、彼の関心が逸れた。
後ろ、と思った時には、心当たりの声がした。
「二人は……どんな関係かな? 昼間からそんなに近づく仲かい……?」
「あ〜らら、僕は知りませんよっと……」
サンドイッチでも作ってくる、と言い残したマスターが去った後で、興味初めて三成の汗が垂れた。




