ハーモニカ 後編
浮上する感覚。段々と慣れてきた。薄れていく現実感に、彼女の輪郭がボヤけ、消える。夢から覚める時、こんなものだろうか。
彼女の性格から考えれば当然とでも言うべきか、あっという間に孤立した彼女のことを、事ある毎に那凪に押し付けられていった。最初に断らなかった為に、クラス全体でそういった雰囲気になっていたからだろう。
だが、彼女がまだ無事なのも那凪の影響とも言えた。何気に顔が広い彼が、良くしている人間。あそび道具にするには少しリスキーだ。つまり、途中で降りればクラスが荒れる。一度タガが外れればターゲットは何処に移るか分からない。
「取り繕ってくれるのが一番なんだけどねぇ……」
「雨夜さんの事かい?」
「ほっときゃ良いじゃん。」
「リスクの方が大きいかな。」
次の作曲の為、いいメロディでも出来ないかと感性のままにギターと戯れる轟斗が、お節介めとなじってくる。どの面下げて、と返す那凪は紙面とにらめっこだ。
二人を見守る響弥の手元には、いつものハーモニカ。丁寧に磨かれているそれに、ふと人が映り込む。
「こんな所に居やがった。」
「雨夜さん? 君から来るなんて珍しいね。」
「ここ、立ち入り禁止じゃなかったのかよ。」
「鍵の管理が雑なのが悪くない?」
見上げる青空、ささやかな秋風、屋上とは少し特別な場所だ。
「まぁ、それはアタシには関係ねぇわ。それより、その、なんだ。今暇だろ?」
「暇に見える?」
「見え……いや、そういや作詞家君だったか。」
手元の紙束を見て納得したような彼女に、轟斗が驚いた視線を向けた。
「え、なに? 那凪んが自分の話したの?」
「あ? んだよ急に。」
「いや、珍しい事もあんのね、って……」
「失礼な……僕を何だと思ってるのさ。」
それくらい今までも……いや、無かったか? 意図的に避けてもいないし出そうとも思っていないので、パッと思い出せない。
そんな事より、早く続きを書き上げねば。ペンを回しながら、再び紙面と向き合う那凪の耳を、強引に捻り上げる存在が一人。
「イタタタタ!」
「な! に! シカトしてんだよ!」
「暇か聞かれたから違うって言ったじゃないか!」
「それは……! そう、だけどよ。」
「なにさ、もう……」
痛む耳を擦りながら、ようやく奏葉と向き直れば、彼女の目が僅かに赤い事に気づく。ヤバい、と二人を見やれば、轟斗は気づいていないようだったが響弥の視線が冷たい。
ちょいちょいと手招きされ、耳を貸す。何となく、この手のタイプは響弥の周りに多い気がする。対応も知っている筈だ。
「あのね、那凪くんはそんなに経験無いかもだけど、女の子って皆が甘え上手さんじゃ無いから。男子より不器用でプライドみたいなのある子居るよ。」
「今ヒシヒシと感じてたトコ……」
「彼女の場合は、頼ったりお願いする事に不慣れな感じだから、こっちから聞き出して上げる方が手っ取り早いと思うよ?」
「だよねぇ……苦手分野だ。」
来るもの拒まず去るもの追わず。那凪のスタイルだと、自分から頼み込んで来ない人物と関わることはあまりない。轟斗の友人、として顔を知っているくらいである。
とりあえず、用件くらいは聞かないと始まらない。だが、素直に言ってくれるとも思えない。とりあえず、この人見知りを二人から離すか、と動く事にする。
「煮詰まってたし、今日は切り上げるよ。なんか食べてく?」
「いや、手持ちねぇし。」
「なら適当に歩こうか。」
チャかそうとする轟斗は響弥が抑えてくれているので、今のうちに退散する。
最後の授業が終わり、部活へと繰り出す面々とは逆に歩いていけば、昇降口。下駄箱に入っていた手紙を懐に仕舞い、下足へと履き替える。
「おい、読まなくて良いのかよ。」
「こういうのは翌日返すタイプなの、軽はずみに返事したくないし。」
「今日待ってたらどーすんだ?」
「僕のスタンス、もう結構広まってるから無いと思うよ。」
「嫌味な奴……」
「なんとでも。」
この時間に帰宅していくのは数名であり、その中に那凪が混ざるのは珍しい。少し視線を感じながら出ていく二人を、屋上から友人達が眺めていた。
また、浮いていく。今度は明確に意識が薄れていく。そろそろ、この夢遊の終わりも近いのか。
結局、あの時の頼み事はなんだったのか……等と考えるまでもない。彼女が頼って来てくれたのは、あの一回だけだった、故に嫌でも記憶に残っている。それからもあったとしても、覚えていそうだが。
放課後の時間を共に潰して欲しい……それだけの事だった。何故かは聞かなかったが、聞く必要も無かった。人混みや乗り物を避けるのが元からなら、夏休みに駅まで着いてきたりしなかっただろうから。
サボり魔三人組と共にいるという事は、自然とする事も無くなる訳で。元々興味もあったのか、響弥がバンドに誘えば、意外なほどにすんなりと参加してくれた。
一人で時間を過ごす事の多かったからだろうか、彼女の「自分の感覚」とでも言おうか、それは非常に優れており、演奏に周囲の雑音に引かれないリズムを持っていた……それを一定にするのは、少し訓練が必要だったが。
やんちゃもしていた轟斗には及ばずとも、他二人を軽く置き去りにする程度に体力のあった彼女が、鬱憤が晴れるとドラムに落ち着くまでに時間がかからなかったのも覚えている。
同じ高校を目指すようになるのに、そう時間もかからなかった。学費をどうするかと悩んだ時期もあったらしいが、家族と話をして認めて貰えた、と嬉しそうにしていたのを覚えている。彼女が家族という言葉を使うようになったのは、そこからだ、という事も。
その時にアンタらのおかげだな、と言われた時。その視線に轟斗や響弥が混ざっていた時に感じた物。それを嫉妬だと知った時、彼女への想いを自覚したのも覚えている。
忘れようとしたのに、随分と優秀な我が脳みそに苛立ちさえ感じる。この夢は全て過ぎた過去であり、戻らない時間だ。人生の砂時計は逆転せず、こぼれ落ちた砂は指の隙間がお気に入りだ。手元に残るものなど、一つもない。
……いや、まだ僕には残っている。響弥がくれた熱が、彼から継いだ夢が。作曲の癖とでも言おうか、何となく彼の曲は聞けば分かった。それが僕の中にも、確かに残っている。これだけは、手放せない、手放す訳にはいかない。
もう、記憶の中のメンバーとのセッションは止めにする。響弥の始めた曲を、想いを、自分の音楽として作っていくと。そう決めたばかりなのだ。
「まだ……やり残した……事が……」
浮いていく、今までよりも遥かに高くへ。何かに巻かれ、釣り上げられて行くように。
あぁ、助かった。これから先の時間は、高校に合格し、四人で喜びあってからの二年は、楽しく辛い時間だったから。
そして、二年後の雨の日は……最悪の瞬間だったから。辿り着く事が無い事に安堵しながら、視界が白く染まっていく気がする。
「……朝だ。」
「あ、なーくん起きた?」
「うん、おは……なんで居るの?」
記憶を探る。怠さを感じながらもじっとして居られず、街を歩いていて。いよいよオカシイぞと気づいて引き返し、熱を測れば40.3°C。
まだ悪化する体調に我慢が効かなくなり、自宅で倒れたのは覚えている……あぁ、鍵をかけていない。
「びっくりしたよ〜、泊まりに来たらなーくん倒れてるんだもん。」
「今度はどうしたのさ。」
「いや、うちの話よりなーくんの体調でしょ。ほんっと痩せ我慢さんなんだから。いつから?」
「隠してないって。えっと……あの後か。」
あの一日。七日間を感じたあの日から、少し怠くはあった。三日も放置して過ごしていたら、こうなった訳だが。
「あ、そうだ。バ先……」
「連絡入れといたよ〜。あと、感染とかは無かったから安心して良いって。」
「え、僕は何日寝てたの?」
「さぁ? うちが来て二日目。うちの前はよっちゃんが一日居たって。」
最低でも三日か、とスマホを起動……電源が切れている。傍に座る彼女の携帯を見せてもらえば、今日の日付が分かるというものだ。
「うわ、五日経ってる……」
「良く生きてたね、なーくん……」
「あははは……とりあえず、ありがとね。今度お礼するよ。」
「いいよ、いつもお世話になってるのうちらだし。あ、でも欲しいバッグあったんだった。」
「それは自分で買いなよ。」
「え〜、ケチ!」
そう言う彼女は笑っているので、冗談だったのだろう。というか、どちらかと言えば彼女の愛情表現は貢ぐタイプである。今回も、他の予定を押して看病してくれたのだろう……いや、元々泊まる気だったんだったか?
そんな事より、五日も寝ていればシフトがごちゃごちゃだろう。少しでも早く
「はいストーップ。」
「うげ!」
「あ、ごめん。」
起き上がりかけた那凪の裾が掴まれ、気道を塞ぎながらベッドへ押し倒す。
「病人さんは休みましょ〜。うちでも分かるくらい顔色酷いからね〜。」
「食べてないからだよ、もう元気だって、ほら。」
「そんなノロノロ腕回されても……なーくんが誤魔化すの下手くそなのか、誤魔化せないくらいダメになっちゃってるんだからね、それ?」
「アハハハ……面目ない。」
幼なじみであれば「カッコつけてネェで弱音くらい見せれば良いんだよヒョロ男」とでも言うのだろうか。誤魔化せないと分かった以上、無理に元気に振る舞う必要も無い。適当に療養しよう。
「ところで、一つだけ聞いていい?」
「ん? なに?」
「着替えさせてくれたのはありがたいんだけど、下は?」
「よっちゃんが履かせて無かったから、そういう睡眠スタイルなのかなって。」
「んな訳が無いじゃん?」
「えへ? お粥つくってきまーす!」
翌日には引いた熱も、経過観察と押し倒されてもう一日を寝て過ごし。栄養士資格を勉強中の彼女のお粥が功を奏したのか、怠かった身体もすっかり元通りとなった。
流石に今回は礼をすると言ったが、ツケといた無銭宿泊の代わりと押し切られてしまった。暫くは頭が上がりそうにない。
バイト先に出れば、初日から鬼のような忙しさ、また倒れてやろうかと思う勢いだった。クタクタになって自宅の玄関に倒れ込んだ時は、デジャブさえ感じた。
「そういえば……走馬灯かと思ったけど、結局死ななかったな。何度も何度もあの夢から浮いて……まるで鎖に引かれるみたいだったよねぇ?」
その問いかけに答える者は、当然無い。だが、呆れたような少女の吐息が聞こえる気がした。
「そういう、契約だったから……なんて、少しロマンチスト過ぎるかな。」
小さな金属製のハーモニカを取り上げて、息を吹き込む。懐かしい音を、奏でていく。
明日から。明日からは今を生きるから。今日までは過去に浸りたいような、そんな気分だった。




