昼休みと運命 その3
道具一式を受け取り、巻島と二人、台車を押しながら校舎裏手の体育倉庫へと向かう。
あいにくの土砂降りのせいで外からのコースは使えず、遠回りするルートをとる羽目になった。
俺が前を押し、巻島が横について軽く支えてくれている。
それだけのことなのに、妙に気を遣ってしまう自分がいた。
……いや、違うな。気を遣っているというより、見られてる意識だ。
自分の立ち位置、視線の高さ、歩幅。
巻島とどう距離を取って、どのくらい黙るべきか。
些細なことで、あとから変な意味に取られたりしないか。
そんなことばかりが頭をよぎる。
どこか、足元の視界が薄暗く感じられたのは天気のせいだけじゃない。
やがて、体育倉庫にたどり着く。
壁際に設置された扉の前で、巻島がポケットから鍵を取り出し、無言で差し込んだ。
カチリと古びた錠前が外れ、扉が開いた。
中は想像以上に薄暗く、ひんやりとしていた。
鉄製の棚が並び、跳び箱やマット、ボールの入ったカゴがずらりと並んでいる。
「思ったより、広いね……」
巻島がぽつりとつぶやきながら、中に一歩足を踏み入れる。
その足音が、がらんとした空間に響いた。
「奥の棚、空けておくから、そこに詰めていこうか」
「ああ、頼む」
俺は台車を中に引き入れ、巻島の指示に従って荷物を運び始める。
物音以外は、何も聞こえない。
外では今も雨が滝のように降り続いているはずなのに、この倉庫の中は、妙に世界から切り離されたような静けさに包まれていた。
ひと通り荷物を棚に詰め終えたころには、ほんのりと額に汗が滲んでいた。
「よし……こんなもんか」
最後の一箱を押し込んで、俺は小さく息を吐く。
狭い空間に詰め込まれた空気は思った以上に重たく、じめっと肌にまとわりついた。
「おつかれさま、七里ヶ浜くん」
巻島が微笑んだ。倉庫の中に射す光は乏しく、彼女の白い肌と青みがかった髪が、やたらと際立って見えた。
「意外と重かったな、これ。先生の代わりにやって良かった」
「ね。体力には自信あるつもりだけど、ちょっと腕が疲れたかも」
そう言って巻島は肩を回す。
何気ない仕草のはずなのに、やけに様になっている。
「……そっちは平気?」
ふいに、巻島が俺の手元を見て尋ねてきた。
「え?」
「さっき、ちょっと手がぶつかったでしょ? 七里ヶ浜くん、そっと庇ってくれたみたいだったから……」
「ああ……大丈夫。反射的に動いただけだし」
そう答えた俺の声を聞いて、巻島はほんの少しだけ目を細める。
「優しいんだね」
「普通だよ。それより、早く戻らないと。巻島の彼氏に悪いからな」
「えっ?」
当たり前の事を言ったのだが、彼女は首を傾げている。
「あれ、違ったかな。前にクラスの奴が、巻島に彼氏だか許嫁だかがいるって言ってた気がするんだけど」
彼女は少しばかり考えていたが、やがて「あぁ!」と何かに気付いたようだった。
「彼氏じゃないよ。僕が一方的に好いてる人がいるんだ」
「へぇ……巻島に追われる恋愛なんて、相手が羨ましいもんだな」
「そ、そうかな……?」
自分の想い人が褒められたことに喜んでいるのだろう。相当に愛が深いな。
巻島は気をよくしたのか、今までよりも軽快に口を開く。
「でも、まだ追うどころか背中も見えないんだよね」
これは……恋愛相談の入り口か?
めちゃくちゃなチャンスだ。
恋愛相談というのは――経験のない俺の憶測ではあるが――ある程度、心を開いている相手にしかできない。
つまり巻島は今、俺を味方だと認定しようとしてくれているのだろう。
ここで俺が的確なアドバイスをすれば、そして巻島の恋が成就すれば、俺の高校生活は安泰。
巻島に好意を伝えられて落ちない男などいないだろう。
勝率99%の賭けをしているのと同じだ。
俺は、できるだけ内心の興奮を悟られないように低い声を出す。
「背中も見えない……それほど人気な相手ってことか」
トップアイドルでも追いつけない。
すなわち有名俳優やミュージシャンということだ。
「あ、いや……僕が好きなのは多分、普通の人なんだよね」
全然違った。やっぱり非モテの推測はアテにならん。
「普通の人なのに背中も見えないのか。遠距離とか?」
「……まぁ、それに近いかな? 実は、その人がどんな顔なのか、名前すら分からないんだよね」
「なるほどな」
ネット恋愛か。いいじゃないか、今風で。
「まぁ、なんにせよ俺は応援するよ。俺に手伝えることがあったら言ってくれ」
ないのは分かっているが、これも友好アピールだ。
巻島は嬉しそうにしてくれている。
「……ありがとう。僕、男の子の友達っていなかったんだよね」
だろうな。容姿もそうだし、隣に番犬がいるしな。
「でも、七里ヶ浜くんとなら、友達になれる気がする」
「ほどほどで頼むよ」
「ははっ、なにそれ? でも、ありがと――」
――ガチャリと鈍い音が響いた。
何かが外で動いていた。
学生ではない。大人が安堵しているような独り言。
扉の鍵が閉じられる音。
そして、静かになった。
「……今のって、まさか」
扉に近づくが、びくともしない。
「閉められた……?」
そう呟くと、少し背中がひやりとした。
ここは体育倉庫、校舎の裏。
昼休みとはいえ、こんな場所を人が通ることは少ない。
「でも……巻島、鍵持ってたよな?」
「あ……うん、うん。持ってるよ」
巻島は制服のポケットに手を入れ、少し慌てた様子で探り始めた。
ブレザーのポケット。右、左、内側の――。
「……あれ?」
彼女の声が、ほんのわずか震えた。
さっきまでの軽やかなトーンとは違う、不安を含んだ響き。
「ない。ポケットに入れてたはずなんだけど……」
「落としたか?」
「うん、たぶん……」
巻島はすぐに扉の足元、倉庫の入り口周辺をしゃがみ込んで探し始めた。
俺も照明の明かりを頼りに、近くの床をざっと目で追う。
「……ない、かも」
巻島は顔を上げ、唇を噛んだ。
彼女にしては珍しい、焦りの表情だった。
「入る時か……?」
俺の脳裏に、一つの仮説が浮かぶ。
扉の前、鍵を開けたときに鍵がポケットから滑り落ちた。
そして、俺たちが話しているタイミングで、誰かが鍵が外に落ちているのを見つけて施錠してしまった。
「……たぶん通りがかった先生とかが、俺たちが入ってるって知らずに……」
「ごめんね、七里ヶ浜くん。……そうだ、涼に電話かければ――」
「それだ。俺も――」
スマホを取り出して確認すると、電波はギリギリ立っているものの、倉庫内の構造か、メッセージの送信すら不安定だ。
巻島も同じようにスマホ画面をタップしているが――。
「……ダメそう。電波の表示はあるのに、通話が繋がらない」
沈黙が落ちる。
マズイな。もうすぐ昼休みが終わりそうだ。
あまり帰りが遅いと――授業に遅れることがあれば、巻島に変な噂が立ちかねない。
彼女もそれを危惧しているのか、明らかに冷静さを失いかけている。
「ちょっと待って、外に誰かいないか確認する」
巻島が小窓に手をかける。
巻島は何の迷いもなく身を乗り出し、窓を開けた。
――そして、滝のような雨が吹き込んだ。
「わっ……!」
想像以上だった。小窓から突き込む雨と風。
ほんの数秒、それだけで巻島の前髪と制服の肩が完全に濡れた。
「巻島! 無理すんな、閉めて!」
「あ、うん……っ!」
彼女は慌てて小窓を閉じたが、時すでに遅し。
濡れた髪が頬に張りつき、肩のあたりはしっかりと水を吸っている。
俺は一度、深く息を吐いた。
この状況、どう見ても最悪だ。
閉じ込められ、助けも来ず、巻島はずぶ濡れ。
このまま放っておけば彼女が風邪をひくどころか、俺が悪者扱いされるのは目に見えている。
俺はためらいなく、制服のシャツを脱ごうとする。
「ちょ、ちょっと、どうしたの!?」
巻島が困ったように笑って袖を押さえようとしたが、それよりも早く、俺は濡れた肩にシャツを掛けた。
「ブレザーは教室に置いてきちゃったからな。乾いたやつ、今これしかないんだよ」
「でも、七里ヶ浜くんが風邪引いちゃうよ……?」
「中にTシャツ着てるから平気だよ。それに、俺が風邪を引く方が何かと都合がいいだろ?」
「そ、そんなこと……」
巻島は少しの間、何かを言いたげにしていたが、やがて静かに肩にかけられたシャツを握った。
その指先が、わずかに震えているのが見えた。
「……ありがと」
声はか細かったが、確かに届いた。
「それに見てくれ。実は俺、結構鍛えてるんだよ」
冗談まじりに言いながら、肩を回してみせる。
制服のシャツを脱いで、下に着ていたTシャツ一枚になったことで、俺の腕や首元、肩口に浮かぶいくつもの傷痕がはっきりと露わになっていた。
火傷の跡。切り傷。擦過痕。
新しいものから色褪せた古いものまで、いくつも。
巻島は言葉を失っていた。
「……っ」
彼女の瞳が一瞬、見開かれた。
ただの冗談のつもりだった。
だが、彼女は明らかに違う反応をしていた。
視線が、俺の肩口から胸元、そして腕の内側へとゆっくり動いていく。
「その傷……どうしたの?」
「ん? ああ……まぁ、いろいろあって」
「いろいろって……そんな、冗談で済むような数じゃないよ」
巻島の声は震えていた。恐れているわけじゃない。
むしろ、何かを確かめようとしている。
彼女の指が、そっと俺の腕に伸びる。
けれど触れる直前で止まり、彼女は口を開いた。
「……ねえ、お願いがあるんだけど」
「ん?」
「おでこ、見せてもらってもいい?」
唐突な言葉に思考が止まる。
「……俺の、額?」
「うん。ちょっとだけでいいの。前髪、少し上げてくれるだけでいいから……」
巻島の声は真剣だった。
その目も、冗談を言っているときのものじゃない。
小さく震えているのは指先だけで、瞳の奥は強く、何かを探していた。
「……変なお願いでごめん。でも、もしかしたらって思って」
その言葉の重みに、俺は言葉を返せなくなった。
「……わかったよ」
俺はそっと手を伸ばし、前髪を上げた。
額の生え際近くには、目立たないが、確かに傷が残っている。
今年がまだ始まったばかりの頃にできた傷らしい。
巻島は、それを見た瞬間、僅かに息を飲んだ。
そして――目元が強く揺れた。
彼女の唇が、ほんの小さく動く。
「やっぱり……」
「やっぱり?」
おうむ返ししてしまうが、返事はなかった。
その代わりと言わんばかりに、巻島の瞳から、ふっと光が抜けた。
「七里ヶ浜くん……!」
呼ばれた、と思った次の瞬間。
足音も予兆もなく、巻島の身体が俺に飛び込んできた。
「うおっ――!?」
反応する暇もなく、背中がマットの上に沈む。
巻島の手が俺の胸元を掴み、押し倒す形になっていた。
さっきまで震えていた指先が、今はまったく震えていない。
むしろ、強い。必死に何かを押し殺しているような力。
「ありがとう……っ、ごめんね……!」
「ま、巻島? おい、どうした……!」
近い。表情が、距離が、息が。
さっきまでの柔らかい笑顔とはまるで違う。
眉は引きつり、目は大きく見開かれ、呼吸は乱れている。
「ずっと……探してたの……っ」
錯乱に近い、熱と焦りが混ざった声。
「ずっと、ずっと、探して……やっと……っ」
「探してたって、誰を――」
「君だよ!」
倉庫の中に、その叫びは鋭く響いた。
「君なの……っ! あの日、僕を助けてくれたの……君だったんだ……!」
押し倒す手に、さらに力がこもる。
巻島は俺の胸に額を押しつけ、震える声で続けた。
「ずっと、ずっと、探してたの……見つからなくて……でも今、傷を見て、額を見て……全部、全部繋がった……!」
「ま、巻島……!」
「逃げないで……お願い……行かないで……!」
巻島は今にも泣き出しそうだった。
だが、その瞳には涙以上の何か――狂気に近い強い焦燥が宿っている。
彼女が何を言いたいのか、いまだに俺には分かっていない。
しかし、このままではマズいことは確か。
「巻島、やめ――」
彼女を押し除けようとした俺の言葉は、身体は、石のように固まってしまう。
なぜなら巻島が――涙で艶めく唇を、俺のそれに重ねてきたからだ。
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