さようなら、日常 その2
「――なんで先輩に指図されなきゃいけないんですか?」
教室の空気が固まった。
「…………は?」
東堂先輩の眉がぴくりと動く。
その声は先ほどよりも一段低く、静かに、しかし確実に怒気を増していた。
周囲の視線がじわじわと俺たちに――俺に集まってくるのが分かる。
喧嘩が始まるのなら見逃すまいというやつらの目だ。
「別に俺、巻島に迷惑かけたわけじゃないですよね? ただ挨拶されて、返しただけで」
できるだけ淡々と、感情を乗せずに言葉を並べる。
が、先輩の目はますます鋭くなる。言い訳をするなとでも言いたげに。
「葉音は優しいから、誰にでも。だから、勘違いする人が出てくるの。そういうの、困るのよ」
確かに、巻島は誰にでも優しい。
とはいえ、それは芸能活動に支障が出ないようにだろう。
本性では何を考えているか、分かったもんじゃない。
「だったら、本人が困ってるって言えばいいんじゃないですか? それとも、ブランディングしてるから無理なんですか?」
今度は、確かに空気が動いた。
風のようなざわめき。
「そもそも、俺が巻島の方を見てたからって、巻島を見てたとは限らない。それとも、先輩は俺の視線を読めるんですか? なら読んでみてくださいよ」
誰かが「うわ……」と小さく声を漏らしたのが聞こえた。
ダサいのは分かってる。引かれてるのも分かってる。
だが、俺は止まらない。止まれない。
「俺が先輩を見てると思ってますか? 先輩の背後にある時計を見てるんです。あと一分もしないうちにホームルームのチャイムが鳴る。できるだけこの無益な時間を伸ばして、先輩が遅刻すればいいと思って」
実際には俺は巻島を見ていたし、東堂先輩と目を合わせるのは怖いから時計を見ている。
東堂先輩は、言葉を失ったように俺を見つめていた。
怒っているというより、呆れているようにも見えた。
あるいは――驚いている。
彼女の中で、俺の立場はただのモブだったのだろう。
自分に楯突くほどの存在とは思っていなかった。
それが突然、言い返してきた。
しかも、言葉のナイフを研いで。
「……ずいぶん、生意気なのね、下級生のくせに」
「そっちが上級生らしくしてくれるなら、こっちも敬意は払いますよ」
にべもなく返すと、先輩は鼻で笑った。
だがその目は笑っていない。完全に冷えていた。
きっと、今ので完全に敵として認識された。
それが分かっていて、俺はなお口を閉ざさなかった。
人を助けるのと同じくらい、俺が大切にしていること。
自己肯定感を他人に左右されないということだ。
個性というものは、自分以外の人間がいなければ確立されない。
自分しかいないのであれば「個」でなく「全」である。
そして、自己肯定感は他人に左右される傾向にある。
何気なく言われた「馬鹿だね」という言葉も、先生からの「あなたは中途半端ね」という宣告も。
脳内では冗談だと理解していても、「自分は馬鹿なのか」「俺は中途半端なのか」と思い込んでしまうのだ。
果ては、エスカレーターを並んでいる時に横入りされることも。
これも、無意識のうちに自分の人間としてのランクを下げることに繋がる。
俺には、それが許せない。
何も考えていない人間の行動で、どうして自分の未来が狭められてしまうのか。
言ったもん勝ちなんて不公平だ。
だから俺は、正当な理由なく自分に牙を剥いてくる奴には、絶対に抗うと決めていた。
たとえそれで、自分の立場が危うくなったとしてもだ。
俺は、この女が嫌いだ。
情けないが嫉妬も入っているだろう。
それでも、俺はこいつと戦わなくてはならない。
――その時、教室にチャイムの音が鳴り響いた。
甲高く、無機質な電子音。
その音は、今にも崩れかけていた空気を、無理やり繋ぎ合わせようとしているように響いた。
「はーい、ホームルーム始まりますよー!」
担任の声が入り口から飛んできて、空気が少しだけほぐれる。
周囲の生徒たちが一斉に視線を逸らし、椅子に腰を下ろす音がバラバラに重なっていく。
その中で、まだ俺と東堂先輩だけが向かい合っていた。
そこに、巻島がすっと割って入った。
「ねえ、二人とも。……朝から怖い顔しないで?」
彼女の声は驚くほど柔らかく、けれど確かに届く。
さっきまでと変わらない笑顔。
だけど、その瞳だけがわずかに曇っていた。
俺と東堂先輩の間に立ち、緊張を吸い取るように、ふわっと笑う。
「七里ヶ浜くん、涼がキツイこと言っちゃってごめんね?」
「……いや、俺も喧嘩腰で悪かったよ」
「涼も、朝からごめんね? 気にしなくて大丈夫だから」
巻島はそう言って、東堂先輩の袖を小さく引いた。
もういいよ、とでも言うように。
東堂先輩は数秒沈黙し、こちらに何か言いたげな目を向けてから、踵を返す。
「……葉音がそう言うなら、何も言わないわ」
それだけを言い残し、自分の教室へ戻っていった。
背中には、まだ冷たい怒気が残っている。
横を見ると、巻島がそっと笑っていた。
どこか、申し訳なさそうな、でもどこか嬉しそうな表情で。
「……君、強いんだね」
そう言ってから、何もなかったように自分の席に戻っていった。振り返ることもなく。
静かになった教室で、俺は一つ息を吐いた。
(……これからは、二人に関わるのはタブーだ)
東堂先輩にとって、俺なんて格下も格下。
忘れていたが、彼女の家は太いらしい。
東京を牛耳る二代財閥「東堂」と「西堂」。
彼女は前者の跡取りだという。
(秒殺どころか瞬殺だよ。とんでもない奴の喧嘩買っちまった……)
信念が揺らぐほどのスケールの差。
生身の人間が宇宙を守る巨人に戦いを挑むようなもの。
(まぁ、これから関わらなきゃいいだけだからな。巻島がいる時には意地でも視線を向けないようにしよう)
そう思っていたのだが、昼休み。
俺の決意はいとも簡単に打ち砕かれてしまうのだった。
しかも――思いもしなかった方向から。
悟の性格がキツイですが、生半可な性格ではこの後に待ち受ける地獄のヤンデレラッシュに耐え切ることは不可能。
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