諦めるよ
駅の二階に続く階段を駆け上がる。
構内放送がどこか遠くに響いていた。
まだ帰宅ラッシュの時間ではなく、人通りはまばら。
だからなのか、俺の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。
ガラス張りの連絡橋は夕焼けに照らされ、ゆるやかに色を変えていく。
オレンジと紫が混ざった空が、やがて全てを染め上げていく気さえした。
歩きながら、ひとつ、またひとつとベンチを確認していく。
(……いないか)
焦りが胸を締めつける。
諦めかけた、その時だった。
連絡橋の一番端。壁際のベンチに小さな影が座っていた。
「……葉音!」
思わず声が出た。
その声に反応して、影がゆっくりと顔を上げる。
間違いない、巻島だ。
春物の白いカーディガンを羽織る彼女の肩はわずかに震えていて、頬はほんのり赤い。
「大丈夫か!?」
「……悟くん……? どうしてここに……?」
近づくと、巻島がかすかに口を開いた。
少しぼんやりとした目。熱があるのかもしれない。
「どうしてって、連絡が無かったから――」
その言葉に、巻島の大きな目が、さらに見開かれる。
「えっ……うそ。ご、ごめんね悟くん。ちょっと、疲れちゃって……五分だけ休むつもりだったの……」
言葉の途中でふらりと身体が傾く。
俺は慌てて手を伸ばし、彼女の肩を支えた。
「ごめんね……嫌いにならないで。ちゃんと、すぐに立つから……」
「そんなので嫌いにならない。大丈夫だから、病院に行こう」
巻島は俺の制服の胸元を握る。
「ううん……やだ。悟くんに会うって決めてたの……やっと、会えたのに……」
言葉が詰まる。
喉の奥が乾燥でひりついて、うまく声が出なかった。
「それじゃあ、少しだけここで休もう。それでも良くならなかったら、病院に連れてくから」
伝えると、巻島は俺の顔をじっと見る。
何かを伝えたいのか、その目は潤んでいた。
「……悟くん、一緒にいてくれる?」
「あぁ、もちろん。手も握っててやる……嫌じゃなければ」
「……嫌なわけ、ないよ」
ベンチに腰を下ろし、俺は彼女の手を握ったまま、静かに時間を過ごす。
巻島は大丈夫だろうか。
心臓の鼓動が、自分のじゃないみたいに落ち着かない。
だけど、その手のぬくもりが少しずつ戻ってくるのを感じて、俺も少しだけ安心した。
「……だいぶ、落ち着いてきたみたいだな」
巻島は、こくりと小さく頷いた。
「うん……もう大丈夫。本当にありがとう。多分、疲れが出てるんだと思う」
その声は先程よりしっかりしていて、顔色も目に見えて良くなっていた。
「ほんとはね……こんな姿、見られたくなかったの」
巻島がぽつりとつぶやいた。
「どうして?」
「だって……悟くんに嫌われたくないから」
彼女の目は伏せられているが、声には飾り気がなかった。
「仕事の合間にだって連絡できたはずなのに。僕の一番は悟くんなのに、ぜんぜん証明できなかった。悟くんが僕に振り向いてくれるように、頑張ろうって……」
「葉音……」
巻島の言葉は止まらない。
堰を切ったように溢れ出しているようだ。
「悟くんが、どんな風に僕を見てるか……ずっと気になってた。いっぱい僕のことを考えてくれれば、好きになるかもって。だから、見えないところでも手は抜かない。学校で会えない間も、ちゃんと覚えていてほしくて……」
「……それで、倒れるまで無理してたのか?」
少し皮肉っぽくなってしまった声に、巻島がくすりと笑う。
「……うん。悟くんが見ててくれてるって思えるだけで、走れたんだよ。今日も、最後まで」
その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなる。
「……でも、ぜんぜん上手くいかないや。僕が誰かを幸せにするなんて、無理だったのかな」
そっと巻島が俺から手を離した。
そして、諦めたような顔で口を開く。
「もし……もし僕がここにいなかったら……悟くんは……どうしてた?」
どうしてた。
きっと、この問いは彼女の心に届くものだ。
巻島が見つからなかったら、俺はどうしてた?
きっかけはどうあれ、自分のことを知ろうとしてくれた女の子。
彼女の容姿が優れているとか、アイドルだとか、そんな事は関係ない。
仮に巻島が普通の女の子だったとしても、俺を振り向かせるために全力だったはず。
俺は彼女のアプローチに対してどう思った?
東堂先輩が代わりに探すと言って安堵したか?
ここに巻島がいなかったら。いなかったら――。
「……諦めるよ」
「そう……だよね」
巻島は自嘲気味に笑って、俯いた。
だが、俺の心は動かない。
既に言うべき事は決まっている。
「諦めて――街中探し続けるよ」
静かな声だった。自分でも驚くほど、揺るがなかった。
巻島が、ふと顔を上げる。
「……え?」
彼女の目が、こちらを真っ直ぐに見た。
信じられないという表情。揺れる瞳。
その中に、希望のようなものが小さく灯っていくのが分かる。
「俺はできる事なら、スマートに生きたいんだ。考えたことは当たって、汗もかかなくて。でも、それで巻島のピンチに駆け付けられないなら――どれだけ転んだって、傷ついたって、助けに行くよ」
彼女が俺を見てくれていたと、気づいてしまったから。
理由なんて、それ以外に要らなかった。
巻島は小さく息を飲み、目を瞬かせた。
「……本当に?」
ひと粒。彼女は涙を流す。
「ずっと、怖かった……。こんなに好きになったら、嫌われた時、立ち直れないって……思ってたのに……」
大粒の涙が、途切れなく落ちていく。
けれど、泣き顔の巻島は、どこか嬉しそうでもあった。
「安心してくれ。前にも言ったけど俺、鍛えてるんだ。絶対に見つけて見せるよ」
そのまま俺は、巻島の細い肩を優しく抱き寄せた。
カーディガン越しに、彼女の体温がじんわりと伝わってくる。
「……ご褒美は、これでもいいか?」
顔を埋めたままの巻島が、小さく答える。
「……足りないかも。キュンとする言葉とか、かけて……?」
「なんだよそれ……」
少年漫画の決め台詞くらいしか思いつかないんだが、どうすればいいんだ……?
とりあえず、脳をフル回転させて言葉を紡ぎ出す。
「ええと……葉音は頑張ってるよ」
ありきたりが過ぎるが、言いながら頭を撫でてやると、巻島は「んへへ……」とご満悦そうだった。
そのまま、しばらく黙って抱き合っていた。
通り過ぎる人も、まさかこれが巻島葉音だとは思わないだろう。
……だが、ふと前方に気配を感じて、俺はゆっくりと顔を上げた。
連絡橋の柱の陰。そこに立っていたのは――。
(……東堂先輩?)
これはナイスタイミングだ。
巻島の体調は良くなってきているから、病院に行く必要はないかもしれない。
だとしても、早めに家に帰って休んだほうがいい。
先輩なら巻島の家を知っているだろうし、連れて帰ってもらおう。
そう考える俺に対して、東堂先輩は驚いたようにこちらを見ていた。
それは単なる「驚き」ではなく、もっと複雑な、苦しさとも困惑とも取れる表情だった。
俺が巻島を抱きしめている姿に、言葉もなく、一歩だけ下がる。
手を挙げて呼びかけようとすると、彼女はハッとしたように視線を逸らし、逃げるように連絡橋の端へと足を向けた。
「――!」
一瞬、追いかけようか迷った。
けれど、腕の中の巻島が弱く「ん……」と身じろぎをする。
今はこっちだ。
東堂先輩の背中が小さくなっていくのを、俺は見送るしかなかった。
巻島の額に手を当てると、やはり、少しだけ熱があるように感じる。
「送ってくよ。さすがに、どこか行ける体調じゃないだろ?」
「ありがとう……今日はお言葉に甘えさせてもらうね」
そう言う巻島に、俺は肩を貸すでも手を引くでもなく、しゃがみこんだ。
「乗りな!」
「えっ……でも……」
「任せろよ。お姫様抱っこでもいいぞ?」
「……そうしようかな?」
「やっぱりおんぶでお願いします」
断られるかと思ったらバリバリ乗り気だった。
巻島が勢いよく背中にしがみついてくる。
華奢な身体は軽くて、ある種の精神的ダメージにさえ目を瞑れば、難なく歩くことができる。
しばらくして、背中越しの声が耳元で響いた。
「……ねぇ悟くん。重くない?」
「重くないよ。ランドセルくらいだな」
「ちょっと反応に困るね、それ。でも、こうやっておぶってもらうの、初めて。僕の初めて、悟くんがもらってくれたね」
その言葉のほうが反応に困るんだが。
俺は何も言わずにタクシー乗り場へと歩を進める。
駅前のタクシー乗り場が見えてきた頃には、空は暗くなっていた。
運良く、一台のタクシーがちょうど空いている。
運転手がこちらに気づき、窓を開けて声をかけてくる。
「乗りますか?」
「あ、はい。お願いします」
巻島をそっと下ろすと、彼女は少し恥ずかしそうに頬を赤くし、俺の腕につかまったまま小さく会釈する。
後部座席のドアが開けられ、巻島を中に促すと、彼女は小さな声で「ありがとう」と言って座席に身を沈めた。
そのまま、俺も隣に乗り込む。
「目的地をお願いします」
巻島がスマホで地図を見せながら、運転手に自宅の場所を告げる。
車が静かに発進する。車内は、ほどよく冷えた空気と、エンジンの静かな振動だけが響いていた。
隣を見ると、巻島は目を閉じていた。
けれど、俺の袖を握る指先には、ほんのわずかに力がこもっている。
タクシーは、ゆっくりと夜の街を進んでいった。
このまま何事もなく終わるといいですね。
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