さようなら、日常 その3
扉が閉まる音が耳に届いた時、ようやく正気に戻る事ができた。
『――これ以上は、僕も怒るよ』
『たとえ誰であっても、この恋は邪魔させない。誰であっても――絶対に』
自分に向けられた言葉だということは理解している。
でも、今まで葉音が私に対して……いや、誰に対しても、あんなに冷酷な声を出したことはなかった。
私はそれだけのことを言ってしまったのだ。
というよりも、葉音から七里ヶ浜悟への想いが大きすぎるのかもしれない。
それほどまでに大きな愛。
彼女が多くの男性から言い寄られていることは知っているが、異性に興味を持ってこなかったことも知っている。
彼は、一体どんな魔法を使ったのだろう。
――自分にも、想いを寄せる相手がいる。
私だって、葉音と同じだ。恋することは初めてなのだ。
だから、自分の向けているものが葉音のものと同じなのか、どちらが大きくて、どちらが小さいのか、世間と比べてどうなのか、分からない。
比べることでもないのは理解しているが、気になりはする。
『――君は頑張ってるよ』
もう、言葉しか覚えていない。
人の記憶は風化してしまう。
良い出来事はそのまま、悪い思い出は美化される。
それは人間の良い機能だ。
たとえ現実逃避に似た作用が働いていたとしても、望ましいものだと私は思う。
自分の持つほとんどの記憶が、いつか輝くのだから。
しかし、声は覚えていられない。
まだ半年も経っていないのに、私に声をかけてくれた彼の声は、日に日に思い出せなくなっていく。
私にはそれが、たまらなく怖い。
このまま彼のことを忘れてしまうのではないか。
私のことを助けてくれた、血だらけの彼のことを――。
「……ふぅ」
心を落ち着かせる。
彼のことは毎日のように考えているが、今はダメだ。
伝えたいことは、再会できた時に。
葉音が七里ヶ浜悟の事を好きなのは分かった。
納得はしていないけれど、分かった。
だとしても、私には彼女を守る義務がある。
彼女が人を愛する事を邪魔する権利はないが、不幸の道を進まないように手を引くのは友達の仕事。
「彼が葉音に相応しいか――私が判断してみせる。私、頑張るから。見ていてね……」
どこかにいる彼に向けて、私は覚悟を決める。
手が届かなくなる前に手を伸ばす。彼が教えてくれたように。
・
屋上での一件を終えた後、俺たちは無言のまま階段を下りた。
東堂先輩のあの視線が、まだ背中に張り付いている気がしてならない。
とはいえ、巻島の様子も気になって、俺は自然と彼女の背中を追っていた。
だが、途中で気づいた。
巻島の向かっている先が――教室じゃない。
(……こっちは校舎の裏側……)
不穏な予感が背筋を撫でる。
俺の知っている限り、この先には特別な教室もなければ、生徒が使う施設もない。
けれど巻島はためらいなく歩き続けていた。
やがて、目の前に現れたのは――体育倉庫。
「……巻島? そこ、体育倉庫だけど……」
俺の中ではもはやトラウマの場所だ。
声をかけると、彼女はふと足を止め、くるりと振り返った。
「うん、知ってるよ」
巻島はポケットから小さな鍵を取り出して見せた。
銀色に光るその鍵は、見覚えのある形をしていた。
「鍵……まさか、それ……」
「今日、ちゃんと借りてきたんだ。先生には荷物の整理って言ってある」
そう言って、巻島は扉の錠に鍵を差し込む。
カチリ、という音が妙に大きく響いた。
「……ちょっと待て。何するつもりだよ」
俺が言うと、巻島は静かに笑って、こう答えた。
「七里ヶ浜くん、逃げないでね」
巻島は体育倉庫の扉をゆっくりと引いた。
中に入ると、ちょうど二十四時間前に閉じ込められたときと同じ、埃と木の匂いがする。
「……何のつもりだ?」
「……密会? 逢瀬? なんて言えばいいかな。僕たちだけの言葉、作っちゃう?」
巻島は振り向きながら囁くと、俺の腕を軽く引っ張った。
中に引き込むようにして、扉を閉める。鍵がかけられる。
「お、おい!? 鍵まで……」
「だって、邪魔されたくないでしょ?」
そう言って、巻島は俺のすぐ目の前に立つ。
距離が近い。鼻先がかすりそうな距離。
「……な、なぁ巻島。落ち着け。まず、これは――」
「ねぇ。七里ヶ浜くんってさ、こういうの、慣れてないよね?」
小首をかしげ、わざとらしく瞳を揺らす。
くすぐるような声。触れそうで触れない、巻島の指先。
「……お前、何がしたいんだよ……」
「え? 分からないの?」
彼女は俺の胸に手を置いて、ぐいっと寄ってくる。
鼓動がバレていないか心配になる。
自制心のHPがガリガリ削られていく。
「昨日は、なんかいろいろ中断されたから……ね。続き、しよ?」
「いや、昨日の続きって……」
「――キス、しよ」
耳元で、吐息まじりでそう言われた瞬間、俺の心拍数は限界を迎えた。
巻島の指が、俺の制服の第二ボタンをつまむ。
「……昨日みたいな雰囲気、すごく良かったなぁって思って」
「お、俺はさっき、巻島と付き合う気はないって、言ったはずだ」
「それって、涼を心配させないように言ったんでしょ?」
まっっっったく違います。
「七里ヶ浜くん……悟くんは優しいからさ、きっと僕と一緒にいると、芸能生活に支障が出るって思ってるよね」
理解を超える展開ばかりで考えてすらいなかったが、確かにそうだ。
つまり、これを理由に巻島から離れることが――。
「――だから、見つかりにくい体育倉庫が、しばらくは僕たちの特別な場所。安心してね。悟くんを養っていけるだけのお金が貯まったら、仕事をやめて二人の家を買うから」
攻撃を出す前に潰されていた。
これは相当にマズい。完全にペースを握られている。
「ま、待ってくれ。落ち着いて考えるべきじゃないか?」
「ふふ。落ち着けるわけないでしょ。好きな人と二人きりなんだよ?」
何か、どこかに付け入る隙はないのか。
「巻島……! お前、本当に俺のことが好きなのか?」
恥ずかしすぎる俺の問いに、巻島はにっこりと笑った。
「うん。大好きだよ? これまでの人生でも、これからの人生でも、一番。二番なんていないけど、それくらい好きなの。僕の全部をもらってほしいと思うくらい、大好きなの」
その笑顔があまりに真っ直ぐすぎて、嘘ひとつないことが伝わってくる。
「それに、悟くんだって、僕のことを好きになると思うよ」
「……どうして?」
「だって、言ってたじゃん。『巻島に追われる恋愛なんて、相手が羨ましいもんだな』って」
「い、いや……! それは言葉の綾というか、全男子の夢をだな――」
「全男子ってことは悟くんも入ってるよね?」
「ぐっ……」
もしかして俺って、口喧嘩弱いのか。
「あとは『なんにせよ俺は応援するよ。俺に手伝えることがあったら言ってくれ』って、言ってくれたよね? じゃあ手伝って。僕と付き合って、結婚して、毎日一緒にいて。僕に幸せにされて」
そう言って、巻島は自分の唇を俺のに重ねてくる。
視覚でも嗅覚でも聴覚でも触覚でも、全てで心が揺らされてしまう。
「――で、でも!」
後ろに壁がない事を確認して、彼女から距離を取る。
「巻島は――」
「葉音」
「ま、巻島は――」
「葉音」
「……葉音は」
んふ、と彼女が口の端を吊り上げる。
これが格闘技なら、全員が巻島の判定勝ちにしているところだろうが、少し待ってほしい。
俺にはとっておきの切り札がある。
「まき……葉音は言ったはずだ。『七里ヶ浜くんとなら、友達になれる気がする』……ってな! だから俺達は――」
「――あ、それは無理だったね。もう友達には戻れないよ」
悲報。俺の人生初の女友達、一日で消え去る。
勝てるビジョンが微塵も浮かばない。
「……さ、もう不安はないよね?」
「不安しかないん――」
「じゃあ、しよっか」
一歩。
「嬉しいなぁ。あのね、今まで僕たちの曲にキスって言葉が出てきても、なんか実感なかったんだ。でも、今ならよく分かるよ。……すっごく幸せなことなんだって」
一歩。
「あ、心配しなくても、もちろん初めてだよ。もう言ったっけ? 悟くんも初めてだと嬉しいなぁ。でも、経験済みでもいいよ。その人は死――嫌いだけど、その人と比べて僕の方が全然良いって、思ってもらえるもん」
一歩。
「悟くんはどんな子が好み? 見た目でも中身でも、好みがあるなら、僕が全部その通りにする。だからほら、触っていいんだよ?」
制服で覆われた豊かな胸が、俺の身体に触れそうになった、その瞬間――。
「――――」
扉越しに、誰かが動いていたような気がした。
「……え?」
巻島が、俺との距離を保ったまま、首だけを傾ける。
まるで「何の音?」とでも言いたげな、無垢な反応だった。
それに続くように――昼休みの終わりを告げるチャイムが聞こえてくる。
(助かった……!)
人生で一番感謝したチャイムだった。
「さ、さすがに戻らないとマズいよな? 授業始まるし、遅れて変な噂立てられたら困るだろ?」
「……今はダメかぁ。でも、もう少しだけなら――」
「ダメです!」
俺は半ば叫ぶようにそう言って、そっと巻島の肩に手を置いた。
「また、今度な。落ち着いた時に、ちゃんと話そう」
巻島は少し唇を尖らせたけれど、それ以上は何も言わなかった。
そのかわりに鍵を取り出し、名残惜しそうに扉を開けた。
俺の勝ちだ。また「今度」なんてない。
なぜなら俺は今日から、徹底的に巻島から逃げるのだから。
「次はいつにする?」
「んー? そうだなぁ。次の東京オリンピックの――」
「僕、悟くんが大好き。あなたはそんなことしないと思うけど、逃げられたりしたら――」
「今日は隆輝とラーメンだから! あと、部活がない日で!」
「わかった! 僕のために時間を作ってくれてありがとう!」
言葉の先を聞くまでもない。
最初から、俺じゃ勝てない相手だったのだ。
せめてもの抵抗として、隆輝との時間を確保させてもらう。
かくして、俺の平穏な学生生活は終わりを迎えようとしていた。
体育倉庫の外には誰の姿もなく、風だけが、ひんやりと俺たちの間を通り抜けていった。
書いていて楽しくなってきました。
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