違わないよ
柔らかいとか良い匂いだとか、まつ毛が上向いてるんだとか。
およそ誰もが考えることを通り過ぎた後、俺は突き動かされるように巻島の肩を掴み、遠ざけた。
「んっ……」
なんで色っぽい声出してるんだよ、なんていうツッコミをしている場合じゃない。
「お、お前何やってるんだ!?」
「……キスだけど」
言いながら、まるでそれが特別なことではないかのように、巻島は首を傾げた。
俺の肩に手を添えたまま、目を細めてこちらを見ている。狩人のような目だ。
「なっ……なんで……!? いや、俺ら別にそういうんじゃ――」
「うん、そうだね。付き合ってないし、告白もしてない」
あっさりと頷く。
だけど、彼女の目は一切揺れていなかった。
まっすぐで、真剣で、照れも、はぐらかしもない。
「でも、したかったからしたの。……ダメだった?」
この問いに即答できる人間がどれだけいるだろう。
俺の思考はショート寸前だった。
「ちょ、ちょっと待て! したいからって、いきなり……!」
「うん。でも、僕はずっとしたかったから。助けてくれたの、君だったって分かった瞬間から……止まらなくなっちゃったんだ」
その声音には甘さもあったが、どこか危うさもあった。
アイドル・巻島葉音の声ではない。
一人の女の子としての本音。欲望。衝動。
「……こんな風に誰かに触れたいと思ったの、初めてだったの」
巻島は、少しだけ身体を寄せる。
力はさっきよりも弱かったが、何故か、先ほどよりも抗いがたい。
「あなたが……七里ヶ浜くんが助けてくれた日から、きっと、こうしたかったんだ。今だって僕を見てくれて嬉しい。優しく触ってくれて嬉しい。もう一回……いい?」
「も、もう一回って――」
言い切る前に、再び巻島に捕まってしまう。
後ろに逃げようとすると、すぐに背中が壁にぶつかった。
「……巻島、何か誤解してるんじゃ……」
「うん、知ってる。七里ヶ浜くんが優しいのは知ってる。でも……僕は、もう好きになっちゃったから。これから好きになってもらうから、今はそれでいいよ」
いくらでも戦ってやると言いたげな巻島。
だが、俺が言いたいのはそんなことじゃないんだ。
「違うんだよ巻島、よく聞いてくれ」
「……なにかな? あぁ、七里ヶ浜くんが僕に喋りかけてくれてる。幸せ……」
「い、いや……あのな?」
「こういうの、なんていうんだっけ。灯台下暗し? 確かに、こんなに近くに好きな人がいたなんて、思っても見なかった。でもむしろ良かったとも言えるよね。これなら、これからずっと七里ヶ浜くんのことを見ていら――」
「俺は巻島を――助けてない」
その言葉に、巻島の表情がふっと凍った。
全身の空気が一瞬で抜けたように。
「……え?」
目を見開いた巻島が、こちらを見つめる。
今までとはまるで違うトーン。
体育倉庫の明かりは俺たちを変わらず照らし続けているのに、彼女の瞳からは光が消えていた。
「……でも、おでこに傷があった。それに、声だって、あの時の……!」
「確かに、巻島の恩人と特徴は一致してるのかもしれない。でも、助けたのが俺だって確証は――」
「違わないよ」
巻島が強く遮った。
声は震えていなかった。震えていたのは、きっと俺のほうだ。
「もうパズルは完成したんだよ。これからどんなに多くの人に会って、囲まれても……君だけは見分けられる」
先ほどまでの無邪気な甘さも、恋の高揚も消え――その奥には、確固たる自信があった。
だが、俺には学校外どころか、学校内で彼女と関わった記憶すらないのだ。俺であるはずがない。
「……ごまかさないでよ。僕は、七里ヶ浜くんにすべてを――」
巻島の手が、またも俺の胸元を掴む。
対する俺は壁際で逃げる余地はない。
しかし、そのとき――。
「……何してるの?」
カチャリ、と錠前が開く音とともに、低く鋭い声が届いた。
声の主を聞き間違えるわけがない。
「涼……」
巻島が反射的に身を離す。
東堂先輩が、体育倉庫の扉を細く開いて立っていた。
風とともに濡れた空気が入り込んでくる。
東堂先輩の視線が、まず巻島の頬をかすめ――そして俺の胸元に下る。
着ているはずのシャツが彼女の肩に掛かっているのを、見逃すわけがない。
整った眉が、ほんのわずかに動いた。
「――説明、する気はある?」
その声音は、これまでで一番冷たかった。
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