66 ブルーナの衝撃
それからまた二日が経ち、ラディウスがまた訪れる知らせを受けた時、ブルーナはエルダに笑顔を向けた。
ここの所ラディウスは約束通り頻繁にルドヴィーグ家を訪れている。彼はあの教典の第一章を冬に入る前に終わらせたいと本当に思っているのだ。そう思うとブルーナも自然と力が入った。
「殿下が見えたら、今日も途中でお茶を頂こうかと思うの……良いかしら?」
「えぇ、良いですよ。ここの所、外はまた一段と寒くなってきましたから、身体を温める時間は多い方が良いですからね」
「そうよね。じゃあ、お茶の準備をお願いするわ。少し書庫で話をしてから、こちらへお誘いするわね」
「分かりました。今日はフィアがレーズンの入ったクッキーをたくさん焼いたらしいですよ。お茶の時にお持ちしますね」
「えぇ、お願い」
笑顔のブルーナは窓の外を眺めた。いつものラディウスの訪問がある時の、何事も変わりのない朝。秋の空気に冬が混じり始めていたが、雪はまだ降ってはいない。でも、その日の朝は地面に霜が降りていた。
「今日は寒いわね。でも、不思議だわ……身体は楽なの」
「良かったです。書庫に籠るのは程々になさるのがいいと思いますが、体調が良いのが一番ですから」
ラディウスの訪問を待つ時間が少し楽しく思えている。
「魔法って、本当にあるのかもしれないわね……」
「魔法ですか? 突然どうしたのです?」
「そう、御伽話では良くあるでしょう? 魔法は魔女とか不思議な力を持つ人が使うものだけど……本当は全ての人の内面にはそういう力があるのかもしれないと思うの」
「まぁ……私の中にもあるのでしょうか?」
「えぇ、エルダの中にも、私の中にもきっとその種があるのよ」
突然言い出したブルーナの言葉をエルダは暖かく受け入れた。もし本当に魔法があるとすれば、きっとブルーナの力の方が大きいに違いない。その力は想像力のある人に多く宿る、なんとなくそういう気がしている。
エルダは笑った。
「では、私はお嬢様の身体を温める魔法を使いましょう。ほら、このお茶をお飲みくださいな」
「もう、エルダったら、私は真剣なのよ」
「はいはい、さあ、少しだけでも身体を温めてください」
ブルーナは少し剥れて見せてから、エルダの差し出すカップを素直に受け取った。そしてゆっくりとハーブティーを口に運ぶ。柔らかい香りと心地よい味わいのハーブティーは最近のお気に入りになっている。
「このハーブを頂くようになってから、体の調子がいいような気がするの。エルダのおかげね。ありがとう」
「いいえ」
エルダは微笑んだ。
本当は自分ではなくラディウスのおかげだ。言わないでくれという彼の言葉を受け、エルダはまだハーブティーのお茶の事はブルーナには知らせていない。でもいつか、どれだけラディウスがブルーナの事を想っていたのか話さなければならない時が来る。きっとその時は、誰かの想いが必要になるだろう。
「お茶の時のお菓子が他にないか、見てきますね」
エルダはそう言い残してブルーナの部屋を出た。廊下は冷たい空気に満ちている。足早に台所へ向かいながら、エルダは「どうか、お嬢様の未来が明るくありますように……」と願わずにはいられなかった。
昨日、ブルーナは寝る前に思っていた事がある。異教徒の教典に書かれていた事と、キリスト教の聖書。この二つに共通するもの事と全く相反するもの事の差は何だろう。そして寝落ちる直前にふと思ったのだ。
——答えは全て自分の中にあるのではないか……。
漠然としすぎていたものの、その思いは今朝起きてからも自分の中に消えずにあった。
自分の未来を作るのも、選ぶのも、自分なのだ。自然の摂理を受け入れて、自分の中で物事を決める。神様は人間のお手本になるだけで、人の運命に手を貸してくれる訳ではない。全てはそれぞれが自分で選ぶのだ。
それを示したのが異教徒の教典なのではないだろうか? 何故だか今日はそう思えてならなかった。キリスト教の中に異教徒の考え方を融合させると言うのは、キリスト教社会からすれば、言ってしまえば曲論だ。
でも、ブルーナ自身が救われるような気がするのもまた事実。自分次第である事をソクラテスは分かっていた。だから良く生きようとしたのだろう。
自分でも不思議な程、今日は頭が冴えている。何かを得たような不思議な気持ちでブルーナはハーブティーを飲んだ。
ラディウスが来たら、今日思った事を話そう。彼はこの事に対してどう答えるだろう。聞くのが楽しみになるようで、ブルーナは少し笑った。
それから程なくして、ブルーナは書庫へ向かおうと部屋を出た。さすがに廊下が寒いと感じたが、膝掛けはちゃんと持っている。書庫へ向かう廊下を進んでいると、どこかで侍従たちの声がした。
——廊下でのお喋りは父上が好まないのに……。
そう思うが自分が注意する事もない。ブルーナは先を急いだ。
だが、聞こえてきた彼らの声に何か嫌な響きを感じ、ブルーナは足を止めた。小さな声ではあるものの、人のいない廊下では必要以上に声が響いて聞こえている。
「婚約破棄をなさるなんて、思い切った事をなさる……」
「公開していないとはいえ、やはり傷が付くだろうに」
ブルーナは身を竦めた。
——婚約破棄?……何の事?……
「エレーヌ様がおかわいそうだが、こればかりは仕方がない事だ」
「もう話すのはやめた方がいい。この事は口にはしてはならないと言われているだろう?」
「そうなんだがね。余りにもおかわいそうで……」
「もう口にするのはなしだ。ほら先にこれを運んでしまわなくては……」
「あぁ、そうだったな」
もっと聞こうと一歩足を踏み出したが、侍従達の声はそこから遠くなり聞こえなくなった。
ブルーナは心の温度が消えていくような気がした。しばらくその場で立ち竦んだまま、今聞いたことの真意を考えようとする。が、急に脳の機能が停止したようで上手くいかず、そのままノロノロと書庫に向けて歩き出した。
——今のは何の話だったの?
一体彼らは何の話をしていたのか。エレーヌがかわいそうだとはどういう事なのか。
——婚約破棄? 誰の?……
彼らの話から考えられる事を根拠がないのに誤解をしてはならないと、意識的に別な事を考えようと試みるが、先ほどまでとは違い、やはり頭が上手く回らなくなっている。
ブルーナはどうにか書庫に入るといつもの自分の席へ向かった。
テーブルに押し入っている椅子がやけに重く感じる。それでもどうにか座る分のスペースを開けると、ブルーナは力が抜けたように腰掛けた。
考えなくてはならない。もし彼らが言う『婚約破棄』がエレーヌの事なのだとすると、相手はラディウスだ。なぜラディウスが婚約破棄をしたのか。
——……私のせい、だ……
ブルーナは身体の温度が一気に下がり、自分の心に冷たい風が吹いた気がした。
* * * * *
「ブルーナが倒れた?!」
知らせが来た時、ラディウスはルドヴィーグ家の館にもう少しで到着する所だった。伯爵の従者がピエール・アザック医師を呼びに行く途中でラディウス一行と出会ったのだ。
「デュラン、急ぐぞ!」
「はっ!」
ラディウスは側近のデュランと共にルドヴィーグ家へ急いだ。急いだ所で自分には何もできる訳ではなかったが、ブルーナの傍に少しでも長く居たいと思ったのだ。
——うかつだった……。
ここの所、体調が良い事を聞いていたせいで、本当の体調がどうなのかをピエール医師に聞いていなかった自分が悔やまれる。計画的に体力をつけるようにしていたつもりだったが、上手くいっていなかったのかもしれない。
館についてラディウスはブルーナの部屋へ急いだ。玄関ホールを抜け、先へ行こうとした所でルドヴィーグ伯爵が待っていた。
「伯爵! ブルーナの様子は?」
「……殿下、少しお話をいたしませんか?」
ラディウスがブルーナの容態を聞いたにも関わらず、伯爵は客間の扉を開けた。ラディウスに緊張が走る。
——まさか、容態はあまり良くないのか?
それ以上考えたくなかった。ルドヴィーグ伯爵が何を言おうとしているのか……それを今は聞きたく無い。
「話は……ブルーナの顔を見てからにしてもらえないか? 少しでも早く彼女に会いたいのだ」
「殿下……」
ラディウス自身、自分の感情を押し殺したつもりだった。でも、苛立ちはどうしても出てしまう。自分はブルーナの事になるとこれ程に感情が制御できなくなる。
「今、ブルーナは苦しんでいます。従者達の婚約破棄の噂を耳にしたと……」
「何故だ! あれ程、冬に入るまではブルーナに伝えるのを待ってくれと言ったでは無いか!」
ラディウスの語気が強くなる。だが、ルドヴィーグ伯爵は自分を抑えていた。ここで言い争っても、起きてしまった事を覆す事はできない。
「その点では、私の落ち度ですが……今日お会いするのは辞めておいた方が良いでしょう。殿下、どうかお願いです。娘には……」
ルドヴィーグ伯爵の声は少しだけ震えていた。怒りの矛先がラディウスに向いているのか、己に向いているのか、はたまた従者に向いているのかは分からない。でも、ラディウスにしてもここで引くわけにはいかなかった。もし今日でブルーナと会うのが最後になるのなら、罵られたとしても、どうしても一目会いたい。
「伯爵、ピエール医師が現れるまで待たせてもらいたい。私は彼と話がしたいのだ」
少しの間黙り込んでいたラディウスは、伯爵にそう言うと「書庫で待たせてもらう」と言い残し客間を出て行った。
伯爵はラディウスと同じような心の痛みを経験しているだけに、彼の行動に対して強く否定する事ができなかった。
ルドヴィーグ伯爵は椅子に腰を下ろし、深く息を吐く。
父としてのこれ以上ブルーナを惑わせないで欲しいという気持ちと、若いときに恋をして病弱なレティシアを求めた自分の心、そのどちらも理解ができるがためにラディウスにどう言葉をかけて良いのかがわからない。
自分はレティシアを失っても後悔したくなかった。彼女との短い期間の結婚は幸せで溢れていた。それを知っている。
——そう、私はその気持ちを知っているのだ……殿下がブルーナを求める気持ちもよくわかる。だが……。
自分はレティシアとの出来事を後悔はしていない。今でもきっと同じようにするだろう。ラディウスも同じ気持ちなのだと思う。でもブルーナの命を優先したい親心がある。
——レティシア、君ならば、今この時、殿下に何と声をかける? もしも君なら……
今、苦しんでいる娘を思えば答えは出ているようにも思う。でも、それで良いのか?
ルドヴィーグ伯爵は椅子に深く座り、頭を抱えるようにして考え込んだ。
ブルーナにとっても婚約破棄の衝撃は大きなものでした。
姉として妹にどうわびれば良いのか、ラディウスとはもう会えないのか?
余りの重圧に倒れてしまったブルーナ。
彼女の想いは……




