61 異教徒の教典
あの日以来、ラディウスは仕事も生活もやる気に満ち溢れていた。
ブルーナと気持ちが通った出来事が滞っていた心の動きの潤滑油になっている。人の心とは単純なものだ。嬉しい出来事があると仕事が捗る。
今のラディウスは、時折東の空を見ている姿が見られるものの、概ね以前の姿を取り戻していた。
考え過ぎていた事で多少考えが偏ってしまっていたかもしれない。
ラディウスの心を占めていた不安はなくなりはしないが、それに対抗する活力は確実に戻ってきている。
そしてまた、彼は時間を作っては足繁くルドヴィーグ伯爵家に通うようになっていた。冬がくる前に異教徒の教典をある程度理解をしておきたかったからである。
だが、異教徒の教典は知れば知る程謎が多く、理解できたと思った考えが、次にはわからなくなり、掴みどころがなくなる。それでもブルーナと二人、繰り返し読んでは、書かれている事についての意見を交換し、考察を繰り返した。
「このシッダールタという人物が教会でいうキリストと同じ存在だと思うのだが……やはり先を読むと、どうも違うな……」
「えぇ、キリスト教では神がこの世の全てを創り、イエス・キリストは神の子で……つまりイエスも神なのだと言えるけれど。ここに出てくるシッダールタという人物は、自ら『悟り』を開いた。神からの啓示を得たわけではなく、かと言って預言者でもない。彼は私達と同じ普通の人間だと言っているわ」
ラディウスの右手の親指が己の下唇に軽く触れた。ラディウスの集中して考えるときの癖だ。しばらく考えた後、彼は顔を上げた。
「やはりそれは違うのではないか? 彼自身が神……『悟り』を得て神になったという方が私には理解できるのだがな」
ブルーナは微笑んだ。
「神学として見ると……彼自身が神なら、キリストと同じように逐一、彼の言動や行いの全てが書かれていても良いと思うの。これは教典なのよ、神の創世記になるはずだもの。でも、そういう記述は余り見られないわ」
「それはそうだが……逸話が少しは書いてあるだろう? キリストの聖書には詳しくあるが、ここではあまり詳しくはない、その違いは確かにあるが……」
「えぇ、驚く程ほんの少しだけね……後は彼の考え方を解説していると思われるだけだわ。聖書では禁じる事項が多いけれど、このシッダールタの聖典にはその禁じる事項があまりない。何故かしら? 禁じなきゃ人は何でもやってしまうと思うのに……」
「まぁ、それが難解なのだがな……」
「やはりここでは『悟り』が全てなのよ。それが何なのかがわかれば、彼が何者なのかがわかると思うんだけど……彼は人間であり神だとは言えない、でも特別な存在であるのは間違いがない」
その経典の中には、キリストのような存在の、シッダールタという人物がいた事が初めに記されていた。その者が『悟り』を開き、真実を知ったのだとある。だが、それが何なのか詳しくは書かれていない。
『悟り』はとても素晴らしいもので、それを知ったものは全ての世の中の理を知るのだという。
そして経典には、人は何度も生まれ変わり徳を積むのだと書いてあった。『輪廻転生』というらしいが、これがまたわからない。
キリスト教の中では復活したのは神の子であるイエス・キリストだけだ。
徳を積まぬ者は生まれ変わっても何度も同じ状況に陥り、徳を積む事でそこを脱するのだという。
「徳とは良い行いのことだろうな……」
「えぇ、そう思うとこの部分は理解できるわね」
生き物は全て生まれて死ぬ。それはすべてに共通している。人が死んでいく場所は天国と地獄のいずれかだけではなく、何度も繰り返し生まれ変わる。それがどうも理解できずにいたラディウスに比べ、ブルーナはそこを理解できていた。
ラディウスはブルーナの瞳を見つめ、軽く溜息をついた。
「私にはやはり分からぬ。何度も生まれ変わるのなら、今の私もはるか昔のどこかで生きていたというのか? ではその時の記憶はどこへいった?」
「次の新しい人生を生きるために、生まれ変わる時に記憶は置いて来るのではないかしら?」
「どこに置くのだ?」
「……そうね、天界かしら? 恐らく、天界というのは天国と同じだと思うわ。神がいる場所といっても良いと思うの。でも、それぞれの魂に刻まれてもいるのだと思うわ」
「『悟り』についてもどうも分からぬ。神の啓示でなければ何なのだ?」
ブルーナは羊皮紙で綴られたラテン語の記述書をパラパラとめくった。
「一番近いのは……執着をなくす、という事だと思う。ほら、ここの部分に『執着は迷いの心を招く原因になる』と書いてあるもの」
「……それは不可能だろう……人は執着をして生きるものだ。それをなくすなどできないはずだ」
「だから、誰もができる事ではないのよ。シッダールタという人物はそれを成し遂げたけれど……」
「それはもはや人だと言えるのか?」
二人はお互いの顔を見た。シッダールタのなし得たものは、人ならば誰でもできる事なのか、そうではないのかがわからない。が、今ここで言えるのは人が誰でもできる訳ではないという事だけだ。
ラディウスは思わず唸ってしまった。捉え所のない宗教。そういうものがずっと東の国ではあるのだ。
これを教典としている者達は一体どのような生活をし、どのような考え方をしているのだろう? 自分達とは何もかもが違うのかもしれない。
そう考えていると不意に声がした。
「眉間、皺ができてるわ……」
ハッとして顔を上げると、ラディウスを見ていたブルーナがクスッと笑う。
「……茶化すなよ」
「ふふっ、ごめんなさい」
彼女は以前に比べとても自然に笑うようになった。目の前の笑うブルーナを眺めながらふと、生まれ変われば今度は間違いなくブルーナと先に出会えるのではないかと思った。
「生まれ変わるという事は、救いなのかも知れないな……」
ボソッといった一言にブルーナが反応した。真剣な表情でラディウスを見ている。
「……私もそれを思ったの。死んでしまったら、天国か地獄かではない。そう思うと救われると思うの。今現状が苦しい場合も、一生懸命生きて、少しでも徳を積む事をすれば、生まれ変わった時に次の人生では何かが変わるのではないかしら? ソクラテスの言った『ただ生きるのではなく、良く生きる』そこにも繋がるわ」
ブルーナの瞳が輝いている。今この時を楽しんでいるのが伝わる。ラディウスはその瞳を見ながら(可愛いな……)と、違う事を考えたが、同時に何かを掴んだ気がした。
「もしかすると……ギリシャやローマ神話も共通するものがあるのかも知れないな……」
「そうね、でも今はここから広げないでおきましょう。でないと、せっかく掴みかけたものが、またわからなくなってしまうもの」
「確かにそうだな」
ラディウスは教典を見つめ溜息をついた。どんなに読んだところで、今はわからない部分が多すぎる。でも、わかる部分ももちろんある。
「異教徒が言っている事も、聖書と変わりはない部分があるのだな……ただ解釈が違うと思えば良い。生まれ変わるという事は、キリストにしかなかったはずだが、この経典には誰にでも起こるとある。まぁ、もっと読み込まねば何とも言えないが……人として向かう場所は同じなのかも知れない」
「えぇ、そうね」
そう言いながらブルーナは嬉しそうにフフッと笑った。
「……何だ?」
「いいえ、こんな話をルガリアードの次期国王となるあなたとしている、それが嬉しいのよ。さすがにアリシアともこんな事は話していないもの。あなただから話せるのだと思って」
またブルーナが笑った。
最近ブルーナはラディウスのことを「殿下」と言うより「あなた」と言う事が多くなった。ブルーナ自身も自分の事を身近に感じているからだと思うとそれが嬉しい。
ブルーナの笑顔を見るラディウスの心に今日で何度目かの波が立った。
ブルーナを見つめ、どうしようもなく彼女を抱き締めたいと思う。だが、この前のようには、もうできない。
「殿下?」
「……もう少しこの教典を読み込まなければ、君と同じ境地には立てないな。もう少し時間が欲しい」
ラディウスは苦笑した。
もう直ぐ冬が来る。ここへは通えなくなる。その冬の間に、この気持ちを落ち着けなければならない。
「えぇ、私にもまだ分からない事が多いのです。でももしも、本当に生まれ変わる事ができるなら、私は健康に生まれ変わるわ。そして……」
ブルーナが言葉を止めた。ラディウスが視線を向けると一瞬瞳が合い、ブルーナは自然と視線を外し経典に視線を落とした。
だがラディウスにはブルーナの瞳の奥に何かが見えた気がした。
彼女が言わんとするところがわかるように思うのだ。もし生まれ変わったら……自分は迷いなくブルーナを探し出す。きっとそうするだろう。彼女もきっと同じことを考えているのではないだろうか。根拠はないが、今この時、心が繋がっていたように思う。
これもまた自分の思い込みでもあるのだが。
自分にはとてもではないが、この異教徒の教典に書かれてある『悟り』を得る事はできない。目の前にブルーナという愛しい存在がある。そのブルーナに執着している自分は決して悟る事はできないだろう。それだけは分かる。
「何を考えているの?」
不意にブルーナが穏やかな笑顔で声をかけてきた。今日のブルーナはよく笑う。
「いや……自分の根底にある思想を覆すのは難しいと思ってね……」
「一度染みついた思想を覆す……言葉にするのは簡単だけれど、今まで自分を築き上げて来たものを覆すなんて、余程の事がない限り簡単にはできないわ。私も無理よ」
「でも、君は理解しているだろう?」
「理解してると言えるのかしら? 解釈が間違っている可能性もあるもの。断言はできない」
それからブルーナは教典に触れた。
「でも……考えてみて……今までの自分の思想に、この考え方を融合するならできる気がしない?」
「融合?」
「そう、今まである自分の思想に付け足していくの。それならできると思うの」
ラディウスは目の前が開けるような気がして頷いた。確かにそうだ。神と言うものの捉え方がキリスト教とこの異教徒の教えでは全く違う。それなら、良い部分を融合させてなじませれば良い。
ラディウスの表情に少しだけ緩みが出た事でブルーナはホッと胸を撫で下ろした。考え込むラディウスはキリストの教えを当たり前の事として生きてきたのだ。それは自分も同じだ。だから自分が知るものの中にこの新たな考えを融合させていく。
それでいいように思う。多くの歴史書を読んでも宗教観と歴史的事実は人に沿って生まれている。それはつまり、それぞれの考え方の中に思想を入れ込んだからできた事ではないだろうか? 宗教もまた人の歴史の一部なのだと思う。
ブルーナは目の前のラディウスを見つめながら、秋の空気を感じ小さく微笑んだ。




