55 民衆十字軍の行く末
ブルーナが書庫へ行くと、ラディウスはいつもの席に座って本を読んでいた。
彼のいつもの席はブルーナの席の向かい側だ。一番奥の縦長の窓から光が差し、この席が一番明るく感じる。
彼の淡い茶色の髪が窓から差す太陽の光で金色に光っていた。彼の姿が光に包まれているように見えて、とても綺麗だと思う。ブルーナはしばらく立ち竦み、ただ彼の後ろ姿を見ていた。
先程の木の上から落ちた時の気持ちがフワッと蘇る。あの腕にしっかりと抱き抱えられたのだと思うと頬が熱くなった。あの時、ブルーナを見上げる彼の表情は安堵して笑っていた。髪を触れる彼の指がとても優しくて、ブルーナは思わず自分の髪に触れた。
ブルーナが見ている事に気づかず、ラディウスは本を読み続けていた。そして、たまにパラリとページをめくる音が聴こえる。一体何をそんなに夢中に読んでいるのか……。
ブルーナは胸に渦めく想いを取り払うように少し首を振った。彼は妹の婚約者だ。これ以上想いを寄せてはいけない。ピクニックの時は何でもない事のような姿勢をちゃんと見せることができていた。これを続ければ良い。
そして、彼に近づこうとしたその時、少しだけ悪戯心が湧いた。夢中になっている彼を驚かせたくなったのだ。
前に一度気がつかない間に、ラディウスがブルーナの向かいの席に座っていた事がある。ラディウスが目の前に居るのに気付いた時、何が起こったのか分からなくて驚いた。あれを真似たい。
ゆっくりとブルーナは彼に近づいて行った。足音は絨毯で消えている。思い切り驚かせるのにはどうしよう。耳元で手を叩こうか……と思った時、不意にラディウスが振り向いた。逆にブルーナが驚いてしまい、息を飲む。
「ブルーナ……驚いたな、何故声をかけない?」
ラディウスは全く驚く顔もせず、ブルーナを見ている。何故分かったのだろう……これではブルーナの行動は何の意味もない。
「驚かそうと思ったの……でも失敗しました……」
途端にラディウスは笑いだした。
「あんなに気配を消す事なく近付けば、誰でも気づくぞ」
「気配? 足音は消えてたわ」
「気配は足音とは違う」
彼は肩を震わせ笑う。ブルーナはそれを恨めしく眺めた。
「何だか、面白くないです。殿下が突然、私の前に座っていた事があるでしょう? あれをやってみたかったのに……」
「あれは君ほどの集中力があればこそ出来る事だ。私は気配に気付くように訓練されている。簡単には無理だぞ」
彼がいうのも分からなくはない。つまりラディウスは身の危険がある場合があるのだろう。それで空気を察する能力が高いのだ。
それに比べ自分はこの書庫内では安心して本に没頭している。その違いはあまりにも大きかった。
「こんなに簡単に気付くなんて、つまらないです……」
「ははっ! 君は気配を消す修行が必要だな」
ラディウスが楽しそうに笑う。ブルーナはそれだけでも良いかと気を取り直した。いつもの自分の席に着くとブルーナは正面からラディウスを見た。
「殿下、民衆十字軍の事を話して下さい。何か新たな情報があったのでしょう?」
「あぁ……」
何故だかラディウスは柔らかく笑った。その笑顔はどう言えば良いのか……ブルーナには優しさ以上の何かがあるような気がした。それが何なのか分からず、少しだけ心臓が跳ねたが……おそらく彼はこれからもっと忙しくなる。次にいつ会えるのか分からないと思うと、目が逸らせない。
「手紙にも書いたが……民衆十字軍を率いる人物は修道士であり、総勢十万人というのは嘘だった。わざと流したデマなのだそうだ」
ラディウスはエリウスから聞いた修道士ピエールの事をブルーナに話した。
目的は巡礼と新たな農地を探すためである事、先に噂を流し異教徒に大軍が来ると恐怖を与えておく事、そして、細やかな復讐が含まれているかもしれない事。
「では、彼は嘯いて五万の人数を十万だと言ったのですか?」
「そう言う事になるな……」
「作ったパンは? 相当余ったのではないですか?」
「あぁ、しばらくはセロアの街では作らずとも良いくらいにあると言う」
ブルーナは眉を潜めた。そのパンを作る小麦もただではないのだ。ひとつのパンのためにどれだけの人が関わっているのか、修道士ならばわかるはずなのに……。
「彼の考えは浅はかだわ。その民衆十字軍の大軍が東ローマからセルジュークトルコへ入ると聞いた場合、トルコでは民衆十字軍の大軍に対抗しようとするに決まっているのに。同じかそれ以上の兵を集めるでしょう……こちらは一般市民でも、彼らが集めるのは兵士。そうなるとそれこそ残虐な行為に走るわ」
「そうだな、その前に正規の十字軍の出発がある。間に合えば良いが……」
ブルーナは首を振った。
「ルガリアードでは豊富な小麦があったからできた事が、彼らの行く場所全てがそうだとは限らない。それを考えると……彼ら民衆十字軍はどうすると思う?」
「……略奪か?」
「そう、行く町や村で略奪行為を起こす。そうなると東ローマへ行き着く以前に東ローマの首都に入れない可能性も考えられるわ。皇帝がそれを許すと思えないもの」
「……確かに略奪者を首都へ入れるとは思えぬ。私なら国に入る前の郊外で、待機を命じる……」
ブルーナは「ちょっと待っていて」とラディウスに声をかけると、そのまま立ち上がった。
「どこへ行く?」
「旅行記の中にコンスタンティノープル近辺の地図があったのを思い出しました。それを見ながらの方がわかり易いでしょう?」
二階へと上がるブルーナをラディウスも追った。ブルーナは以前見つけた旅行記を思い出したのだ。さらに上の階へ行くとブルーナは棚の一部についている梯子を持った。
「それを使うのか?」
「えぇ、スライドさせると移動するので……」
そのまま中程まで移動させると、ブルーナは梯子を止めるための小さな木片を差込口に入れた。そのまま上がって行こうとするのをラディウスが止める。
「待て、何というか……見ていて危なっかしい、指示してくれたら私が取ろう」
「いつもは一人でやってるわ……」
「普段はそうなのだろうが……まぁ、私が居る時は私に頼れ」
ブルーナはラディウスの顔を数秒見ていたが梯子を譲った。『私に頼れ』という言葉が何故だか嬉しい。
「上から三段目の棚に『東の国へ』という本があるの。それに東方への行き方が描かれていた筈なの」
「分かった」
ラディウスは音もなく身軽に梯子を上がってゆくと、上から三段目の棚に難なく着いた。
「その手元から少し右の方に見当たらないかしら?」
ブルーナの声が下から聞こえる。ラディウスが指を滑らせるように背表紙を辿ると数冊右にズレた所に『東の国へ』という表題を見つけた。
「あぁ、あった……」
ラディウスはそれを棚から抜き取り梯子を降りると、ブルーナにその本を手渡した。
「そう、これです。ありがとうございます、殿下。下へ戻って東ローマとトルコの位置関係を確認しましょう」
二人はそのまま一階へと降りると、元の席へと戻った。
ブルーナの広げた本には折り畳まれた案内図が入っていた。それは一部本に貼り付けられており本から外れないようになっている。
ブルーナは東の案内図を広げた。そこには東ローマ帝国の範囲図が描かれてあった。コンスタンティノープルと対岸部分の東ローマ領、そこからのトルコと更にその東に広がるペルシャ地域と下方部にはエジプトまでの位置関係が分かり易く描かれている。
「これは三〇〇年ほど前に描かれたものです。この本が書かれた時期、東ローマは多くの領土を失っている……だからこの地図が描けたのだと思うの」
「どういう事だ?」
「混乱の最中は地図を描いても、咎める人は居なかったのではないかしら? 地図を描くなんて、大まかだとしても位置関係を知られるのは国にとっては嫌な事でしょう?」
ラディウスは「あぁ……」と頷いた。ブルーナは広げたその図のある部分を指差した。
「ここがコンスタンティノープル。ここが黒海。そしてここがボスポラス海峡で、こちらがダーダネルス海峡」
それからコンスタンティノープルの対岸の迫り出した部分を指でなぞる。
「この辺りまでが東ローマの領域だと思います……でもここの国境部分が度重なる小競り合いで、今はどうなっているのか分からない。そしてこの先がペルシャよ」
ブルーナはトルコのさらに奥に広がる地域を指差す。地図は恐らく相当に大雑把なものだろう。黒海と書いてある部分はただの丸だ。しかしこうして図を観ると、漠然と思っていた位置関係がよく理解できる。地図にはラテン語で国と町の名前、それから海や海峡の名前が書いてあった。
「この対岸のもう少し下の方に小さな文字でエルサレムと書いてあるのがわかる? この辺りがエルサレムなのだと思うと……十字軍の取るべき道が分かるわ」
ラディウスは驚いてその地図を食い入るように見ていた。
「凄いな……こんなものがよく手に入ったな」
「父がこれをどうやって手に入れたのかは知らないけれど……私なら商人を味方につける。彼らは地図がなければ自分たちで作りながら新たな海路を作るから、条件次第ではそれ以上の情報を得られるでしょう……キリストの使徒である司祭を味方につけるのも良いけれど、こちらは全て西ローマの教皇に筒抜けになる。要らない疑念を持たれるのは避けたいもの」
ラディウスはブルーナを見つめた。彼女はリングレントへ行った以外、国を出た事はない。それなのに情報をこれほどまで知っているとは……。
ルドヴィーグ伯爵が彼女に文官の仕事上の事を伝えているとは思えない。彼女はこの閉鎖された書庫の中で自由に思考を広げているのだ。
商人や傭兵は当たり前のように他国と行き来している。今回のエリウスの十字軍出兵もそれを考えての事だが……ここまで考えるブルーナにラディウスは唸った。
それを他所にブルーナは言葉を続ける。
「コンスタンティノープルから対岸へ渡るには、ボスポラスかダーダネルス、どちらかの海峡を渡らなければ行けないと思うの。そのためには、一度コンスタンティノープルへ入るしかない。少人数であれば、船でギリシャから海を渡る手もあるでしょうけれど……」
ブルーナの指がギリシャを指差す。
「でもここから先、到着するこの辺り場所は異教徒の港町よ。商人でない限り、そう簡単には入れないと思うの。ましてや五万人もの人間をギリシャから船で渡すのは不可能でしょう? どれだけの船が必要かわからないし、時間もかかる。そうなると行き方は自ずから一つに絞られるわ。ボスポラス海峡、ここを使うのが一番早いし移動距離も短くてすむ」
「このボスポラスを渡りエルサレムへ行くとなると、この辺りが一番危ういか……」
「そうよ。簡単に言えば敵方はこの辺りに軍を集結させておけば、それだけで盤石の守りを固める事ができる。他の場所へ心を注ぐ必要がないわ」
そうしてラディウスの顔を見る。
「民衆十字軍は西ローマの庇護を受けていません。富のない彼らがエルサレムに入るのは簡単な事ではないでしょう。これが何を意味するのか……殿下はご存知よね」
ラディウスはその真剣な光を宿した瞳を受けた。
「虐殺は免れぬか……」
「えぇ……恐らく……」
「……エリウスを少し早く出発させよう。それぞれの国の十字軍を率いる者たちに進言させようと思う。だが……」
ラディウスは考え込んだ。情報を十字軍全てで共有するのには時間がかかる。それに……どのくらいの騎士が動くのか分からない。富を持つ国の十字軍であれば、資金の援助は有力な貴族や商人から受けている。少なくとも彼らは食料の穀類や豆類を運びながら行く。遠征軍の列が長いのは牛や羊や豚、それから鶏を連れているからだ。が、あまり富を持たない国や遠方から参加する国なら現地調達が殆どだ。
そして、民衆十字軍はこれらの物資を持ってはいなかったと聞く。初めはあったかもしれない。でも直ぐに底をついたのだろう。ルガリアードへ辿り着いた時の彼らは、疲弊していた。半分の時点で足りない状況だと、彼らに残された道は一つしかない。
「伝えた所で……動く者は少ないかも知れぬ。軍にとっても食料がないと何もできん。五万人を養う程の食料は持たないだろう」
たとえ十字軍とは言え、各国の思惑がある。エルサレムの奪還を建前として持ってはいるが、果たしてどこまでの強制力があるのか分からない。
「……えぇ、民衆十字軍の先導者がこの事に気付いているのか、気付いていないのか……」
「噂を先に流すような者だ……期待はできぬ」
「…………」
ブルーナは黙り込んだ。恐らく、虐殺は起こってしまうだろう。それを気付いても止める事ができないのがもどかしい。
何故人は死に急ぐような事を選んでしまうのか。人の性とはあまりにも不可思議だ。
同じように黙っていたラディウスが口を開いた。
「だがこのまま放っても置けない。報せは出そうと思う……そうすれば自ずから回避してくれるかも知れない」
「……はい」
ラディウスの厳しい表情が、不意に優しい笑みに変わる。
「君の凄さが身に染みる」
「自分が役に立っているのだと思うのは……やはり嬉しいです……」
ブルーナが頬を緩めた。笑うその笑顔が好きだとラディウスは思う。そして密かな悪戯心が湧いた。
「君が欲しい、その気持ちは変わらぬぞ、ブルーナ」
しれっとテーブルに肘をつけ、優しい笑みを向けるラディウスに、ブルーナは眉間に皺を寄せて見せた。
「もう……何度言えば分かるのかしら? その言い方がまずいと言うのに……このことに関して貴方は学習能力がないのね」
そしてブルーナはプイッと視線を逸らした。ラディウスは時折見せるブルーナのその姿が可愛いと思う。まるでさっきのエレーヌと同じだ。やはり姉妹は似るのだろう。いつまで見ていても見飽きない。
——ブルーナが愛しい……
そう思いつつラディウスは思い出したように口を開いた。
「リングレントも兵は五百しか出さないようだ。知らせが来た」
「……そう、ディオニシス殿下も同じように考えたのかしら?」
「あぁ、十字軍としてはルガリアードとリングレントの混合軍として動く事にした。その方がお互いに都合が良いのでな」
「えぇ、確かにその方が大きな枠で考える事ができる。良い判断だと思うわ」
ブルーナがそこまで言った時、立ち並ぶ本棚の向こうに人影が立ったように感じ、そちらへ目を向けた。ブルーナを見つめていたラディウスも直ぐに気付き背後を見やると、そこに背の高い男がひとり立っていた。




