54 余韻
食事の場所へ戻るとフィアが並べたレンガの上に載せられた鍋をかき回していた。
料理はもう出来上がっているようで美味しそうな匂いが辺りに漂っている。
「遅くなってすまない」
ラディウスが待っていた従者たちに声をかけた。
「さぁ、殿下はこちらへお座り下さい。ブルーナお嬢様はこちら、エレーヌお嬢様はこちらですよ」
大きな敷物の上に給仕をし易いように間を開け、クッションが置かれている。
準備が整った時、フィアが平たい土鍋の中で肉を焼き始めた。辺りに肉の焼ける良い匂いが漂い始めると、皆待ちきれないように石のコンロへ集まって来た。敷物の上にはすでに煮野菜や果物、パンや様々なお菓子、たくさんの食べ物が並んでいる。それに加えてソースの瓶やジャムの瓶、そして食器やスプーンなど様々なものが並べてあった。
「これは良いな。ここまで揃っている外での食事は私も初めてだ」
ラディウスも目を細め勧められた場所に腰を下ろす。従者達は立ったままでブルーナとエレーヌが続いて座ったが、ラディウスはみんなにも座るように声をかけた。
「どうせなら共に食べないか? こんなに気持ちの良い天気なのだ。この時間を、皆で分かち合うのが良いと思う」
ブルーナは嬉しかった。ラディウスの心根が見えた気がした。いつもは従者達は主人の後に食事を取る。だが今日は皆で共に取るのが楽しいと判断したのだ。
「では、それぞれ座りましょうか?」
先陣を切ってデュランがラディウスの隣に座った。その反対側にはエレーヌがおり、その横にエレーヌの侍女のソフィーが座る。コリンとフィアは給仕するからと立ったままで、彼らの座るスペースを少し開け、デュランの横に間を開けてエルダが座った。エルダの横はもちろんブルーナで……ラディウスはブルーナのほぼ正面に座る事になった。
リングレントでの晩餐会で対面して食べて以来、ブルーナはラディウスと食事を共にしたことはない。ちらりと正面を見ると、ラディウスはフィアの焼く肉を楽しそうに待っていた。その様子にブルーナは少し笑った。たまにラディウスは少年のようになる。取り繕う必要がない時、それが垣間見れるようだ。
ブルーナは自分の中でラディウスは友人なのだと必要以上に思うようにしていた。彼とは友人なのだから何でも話せるのだ。友人だから先ほどの婚約者の事も、木から落ちる時に抱きしめられた事も、全て冗談で済まされるのだ。深く考える必要もない事だ。
そして思う、エレーヌの婚約者としての自覚を先に何とかしなくてはならない。
ブルーナは溜息をついた。
——やはりちゃんとエレーヌには説明した方がいい……将来の旦那様を婚約者というのだと……。
エルダからお茶を貰うとブルーナは一口飲んだ。ピクニックの醍醐味は外での食事だ。おいしい食事を外で頂くと、気持ちも開放的になる。
焼けた肉はフィアが薄くスライスし、切ったパンの上に葉野菜とソースとをのせ、まずはラディウスへ渡した。彼はそれを口に運ぶと驚いたように目を見張る。
「これは美味い。驚いたな……このソースが肉と野菜をまとめている。フィア、見事な味だ」
ラディウスの反応にみんなホッと胸を撫で下ろし、次々と手渡されるオープンサンドに舌鼓を打った。煮込みスープが碗に盛られる頃には、ブルーナはもうお腹がいっぱいになっていた。
「ブルーナ、食が進まぬのか?」
スープを口にする回数が減ると、すかさずラディウスが声をかけてきた。見られているとは知らずにブルーナは少し驚いたが、ラディウスの視線は真っ直ぐにこちらを向いている。
「沢山食べましたから、もう入りません」
「……ここに甘い瓜がある。リングレントから入ったものだが、食べてみないか?」
ラディウスが小ぶりの甘い瓜を手に取った。
「初めてみる果物です。美味しいのですか?」
「あぁ、間違いなくな。余りに美味くて城から少々拝借して来た」
「そんな事をして良いのですか? 料理人は困っているのではありません?」
「大量にあったのだから構わぬだろう。どうだ? 食べるだろう?」
ラディウスは笑う。
「では……少しだけ」
途端にラディウスは破顔した。
エルダに剥いてもらった甘い瓜は瑞々しく甘い香りがしてとても美味しかった。一切れだけ食べるつもりが、余りの瑞々しさと美味しさに二切れも食べてしまう。口いっぱいに広がる濃厚な甘さは初めて食べる幸せな味だ。
ブルーナとラディウスはゆっくりと過ぎてゆく午後のひと時を、従者の者たちと分かち合い思い切り楽しんだ。
その後も少し遊び、エレーヌが遊び疲れて居眠りを始めた頃、一行は館へ戻ることにした。
途中気遣うようにラディウスがブルーナの側へ寄った。
「……今日は疲れているだろう? 例の十字軍の話は次にしよう」
彼は優しくそう言うが、世界が動き始めている今、ラディウスがここへくるのも前のように簡単でないだろう……。そう思ったブルーナは首を振った。
「いいえ、早く話だけでも先に聞きたいですから。書庫で待っていて下さいませんか? 少し休憩をして向かいます……休憩を挟まないとエルダが許してくれません」
ブルーナはチラリとエルダに目線を向け困ったように笑った。
ラディウスはブルーナのその言葉が嬉しかった。密かな約束を交わすような気配に胸が踊る自分が居る。
そして何より、さっき共に木の枝から落ちたあれからブルーナがもっと近くなったように感じるのだ。彼女の壁が完全に消えてしまったような気がする。
ブルーナから待っていて欲しいと言う言葉を聞いた事はこれまでにはない。ラディウスは顔が綻びそうになるのをようやく抑え頷いた。
「分かった……少し休憩をとって書庫に来てくれ、先に行って待っている」
「はい……」
実際には何の事ない民衆十字軍についての話なのだが、それすらもラディウスは嬉しかった。ブルーナと二人だけの時間を持つのは、ここの書庫でしか出来ないのだから。
館へ戻るとブルーナは一度自室へと下がった。早く書庫へ行きたい気持ちはあるが、エルダがそれを許さない。部屋に入るとエルダが少し冷ましたハーブのお茶を入れてくれた。今日は長く歩いた。長椅子に座り、ゆっくりとお茶を飲み、少し体を休める。
「お嬢様、少しゆっくりとされて下さいね。今日は思いの外、歩き回りましたから」
「えぇ、今日のお茶も美味しいわ」
何の事ないようにブルーナは微笑んだ。エルダはその笑顔に胸を撫で下ろしている。
ブルーナは窓の外へ視線を向けた。夏の日差しは少し強いがピクニックは楽しかった。
初めて木の枝へと上がり、間近でリスを見たあの出来事は忘れられそうにない。思い出しただけで笑いたくなる。そしてラディウスの腕に抱かれ高い枝から落ちた……あの一瞬を思うと、落ち着こうにも落ち着けない何かが胸を突いてくる。
——殿下は優しいから……友人である私を気遣ってくれたのよ。
突然エレーヌの『お姉様も婚約者ね』という言葉を思い出した。思わず眉間に皺がよった。エレーヌの言葉の誤解を早めに解かなければ、変な事になりかねない。そして首を振る。これ以上ラディウスの事は考えない方が良い。市民十字軍の事に気持ちを移すのだ。
気が付くとエルダが部屋から居なくなっていた。フィアの手伝いに向かったのだろう。ブルーナはカップの中のハーブティーを飲み干すと立ち上がり、書庫へと向かった。




