49 余話——民衆十字軍を率いる者
その日は月のない夜だった。
日暮れを過ぎ、直ぐに門の上や前には松明が焚かれた。遠くからでもこちらが分かるようにしたのだ。そうすれば迷う事なく民衆十字軍はこちらを目指すだろう。
「敢えて食料を渡し、休ませるとは……考えましたな。エリウス様」
その揺らぐ炎の下で遠くを見詰めているエリウスに向かってリグスが同じ方向を向きながら声をかけた。
「戦う方法はいくらでもある。その中で一番有効と思われるものを使うまでだ」
「勉強になります。我らはエリウス様がいらっしゃる前は、北門を開けないつもりでおりました」
「……それでは不満しか残らぬ。不満は暴動を引き寄せる」
「はい、ごもっともです」
エリウスは情けない顔をしているリグスを笑った。
「事によっては先導者のみしっかりと休ませても良いかもしれぬ。その他の民衆は野営だな……」
「十万人を入れることの出来る街はありませんからね。そこは大丈夫でしょう。彼らだってここまで歩いたんです。慣れていると思いますよ」
時刻はまだ早いと思われたが、すでに門は閉じられている。
「エリウス様! 松明が見えます!」
不意に門の上の塔で見ていた兵士の声が頭上から降りてきた。その声にエリウスは西に続く道に目をやると、遠くの方に微かな火がチラチラと見え始め、それは徐々に長くなっていく。間違いない。ずっとその後も続いている人々の行列だ。
「来たな……」
エリウスは口元を引き上げた。いよいよだ。湧き上がるような興奮がエリウスの中に起こる。彼はその心地に身を委ねた。
「みな配置につけ!」
彼の凛とした声が辺りに響く。部下も街の自衛団も各自所定の位置にいた。五十人近くは門の外へ並び、松明の灯りは徐々にこちらへと近付いている。後二十分もすれば到着するだろう。
松明の灯りは目前に迫り始めた。先頭をいくロバに乗る人物が見える。彼らは門の前に来ると止まった。後からは際限なく人々の列が続き、先頭の彼らを囲うように立ち止まる。その輪は見る見るうちに広がりそこら一帯が人で埋め尽くされ始めた。
ロバに乗っていた男が降り、皆より一歩前へ出た。その男が声を発するより先にエリウスの声が響いた。
「私はルガリアードの第二王子、エリウスである!」
エリウスは朗朗と声をあげた。
「民衆十字軍の全ての民に問う! 諸君らの目的はエルサレムの奪還なのか?!」
先導者の男は門の上にいるエリウスを見上げている。
「我々の目的は巡礼でございます! どうかこの者達にお恵を与えてはいただけないでしょうか?!」
「巡礼だと?……」
エリウスは呟いた。民衆十字軍が各々の武器を手に正規の十字軍より先に出たと聞いたあれは嘘か? 眼下に見える人々は疲弊した表情を浮かべている。だが、誰も怒号などの声を上げない。これだけの人間がいると言うのに、静まり返る様は何とも言えない薄気味悪い気配がした。
彼らを安心させるのが先だと思ったエリウスは、声を張り上げた。
「諸君らには、パンと水の準備がある! それを受け取り、今日はこの近くで野営されたし!」
「おぉ! 皆聞いたか?! ルガリアードの王子様は我々民衆の味方である!」
先導者がそう声を張り上げた途端、民衆の歓喜の声がとうねりとなった。今まで静かだったのが嘘のように、遠くの山々まで飲み込むような、民衆の声が地面を割る勢いで辺りに響き渡る。
民衆十字軍は軍隊ではない。見える範囲に戦いを予測する者は見当たらない。エリウスはその真意を確かめたかった。
「先導者の者と少し話がしたい。呼んでもらえるか?」
エリウスは側近のセグルスに声を掛けた。セルグスはすぐに動いた。
「今から門を開く! 諸君らはその場での待機を命ずる! 諸君らは敬虔なキリストの使徒である! 奪い合いによる暴動は神が許さぬ! 心して待機せよ!」
エリウスはそう言うと門を開くよう指示を出した。大きな木と鉄で出来た門は軋む音を立てながら内側へ開く。だが、その場にいる民衆はそのまま動かなかった。エリウスの言葉の効果は確実にあった。神の使徒である事が彼らを留まらせているのだ。
エリウスはもしもの場合のために、神の存在を持ち出す事を決めていた。ここまでの疲弊した道のりの中、彼らの心を揺り動かすものは神しかない。その意味でエリウスは神を信じている。
門の中にはパンを積んだ荷馬車がいくつも並んでいた。一台目がゆっくりと門の外へ出てゆく、途端に腹を空かせた民衆の目がギラついた。
「今からパンを配る! 十分な量を用意した! 受け取るのは一人ひとつとする! 大人も子供も全て一つづつだ! 諸君らの後方にはまだ市民は続いている! 彼らの分を奪う真似はしてはならぬ! 我らは蛮族ではない! 諸君らはキリストの名の下に集まった民衆十字軍である!」
エリウスの演説は民衆十字軍の市民たちの心を揺り動かした。
ゴオオオオオオオオォーーーー
という地響きのような民衆の声が空に響き渡る。彼らは目の前に並ぶ荷馬車の上の大量のパンに釘付けになりながらも、自制心で飛び出すのを抑えていた。
「パンを受け取った者は先へ進まれよ! 水の瓶が並んでいる! そこで水を貰い広い場所で夜営の準備を!」
兵士達が各々声をかけて回る。動き出した民衆は次々にパンを貰うと、渡した兵士達が彼らの手の甲にインクで印をつけた。べったりと付いたそれは布で拭った位では落ちない。それで二重に取る者を防いだ。進んだ先には瓶の水を自分の碗に貰い、野営できる場所を探して先へ進む。
その様子を見ながら、エリウスはリグスに声をかけた。
「リグス、定期的に神が見ている事をここから演説しろ。後ろに並ぶ者には聞こえてはおらぬだろう。定期的に神の使徒である事を強調すれば、自制心が働く。任せても良いか?」
「はっ! 承知しました!」
リグスは胸に手を当てた。
エリウスは頷くと街側を見下ろした。階段を上がってくるセルグスが見える。階段の上がり口には先導者の男がいた。彼らはこちらを見ている。
「セルグス! 私がそちらへ行く!」
セルグスはその場に立ち止まると、エリウスが降りてくるのを待ち、護衛するように先に立った。
先導者の男は年齢不詳の痩せた小柄な男だ。髪と髭は伸び放題で、修道士の格好をしてはいるが、服は薄汚れ足元は裸足だ。北フランスからここまでの距離を、素足のままで歩いて来たというのだろうか?
「これはエリウス王子。私は修道士のピエールと申します。フランスの北部の街アミアンにて司教までを務め、今は一介の修道士をしております」
ピエールと名乗る男は柔らかく微笑みながらも、何かを内に秘めているような得体の知れない雰囲気を持っていた。これだけの民衆をここまで率いて来た男だ。それ相応の人物ではあるのだろう。
「ここは部下に任せ、私は其方と少し話がしたい」
「おぉ、何なりとお話しできる事はお話しいたしましょう」
愛想笑いを浮かべるピエール修道士を、エリウスは宿場の酒場へと連れて行った。そこで美味い料理を食べさせる。豆と肉の煮込み料理とパン、それからワインを出すとピエール修道士は目を輝かせた。
「こんなことまでしていただき、何とお礼を言って良いやら……」
「まぁ良い、先ずは食べよ」
エリウスは自分の分はワインだけを頼んだ。ピエール修道士はよほど腹を空かせていたようで、ガツガツと出された料理を食べ始めた。その様子をエリウスはしばらく眺めていたが、徐に声をかけた。
「先ほど、其方は民衆十字軍は巡礼だと言っていたな……武器は持たぬのか?」
「戦いなど、とんでもない。私はエルサレムへの巡礼として人を募ったのですよ」
「ではなぜ民衆十字軍と云われている?」
「あー……それは……」
食べ終えた木の器を横に置き、ピエール修道士はワインの入ったコップを手にし、ゴクリと飲み干した。
「集まる者達は、皆、貧しい農民です。ここの所、各領内で人の数が倍に増え、農地を耕したくてもその土地がなく、彼らは新しい土地を求めて国を出たのです」
「では、女子供もいると言うのは?」
「はい、家族で住む場所を離れ、付いて来た者達もいます。十字軍がエルサレムを奪還できたら、その周辺の土地に住もうと考えているのです。そして民衆十字軍と名乗っておれば、そう簡単に手出しは出来ないだろうと思いましてね」
「ほう……」
エリウスは興味深げに身を乗り出した。一方では何を馬鹿な事を言っているのかと一喝したい気持ちがある。しかし、現状、国を出た者達を帰すのに納得させる理由がない。ここはひとつ、話に乗ったように装い、内情を知る方が早い。
「エルサレムに入る前に異教徒の国に入るのだ。そこは戦場になる。ついて来ている民衆は戦場である事は承知しているのか?」
「承知の上でしょう。このまま各々が自分の国に留まったところで、土地の問題は何も解決しないのですから。それにこれも聖戦なのです。奪われた土地を取り返す。立派な行いと言えるでしょう」
ピエール修道士はもう一度ワインを口に含んだ。エリウスは違和感を覚えていた。確かにウルバヌス二世はエルサレムの奪還は聖戦だと豪語した。だが果たしてそれは本当なのか? 口実に過ぎないものをここまでのめり込む彼等を動かしたのは貧しさだ。これは正しいと言えるのか?
「私とて同じです。実は私は前にもエルサレムの巡礼を行使した事があります。しかし、その時に、異教徒共に大変な屈辱を受け、エルサレムに到達することすらできなかったのですよ。やっとウルバヌス教皇が腰をあげてくださった! これに乗じる以外、エルサレムの巡礼は叶いますまい。私は神の使徒であり、神を信じている。このきっかけは神によってもたらされたものなのです」
彼の瞳は恍惚とした光を湛え、エリウスを見ていた。ともすれば狂人にも見えるその瞳には、エリウスにはわからない何かが見えているのかも知れない。
エリウスは後ろにつくセルグスを見遣った。セルグスは宿の主人に声をかけ、もう一本ワインを持って来た。
「さぁ、道中ワインにありつくことはなかっただろう。もう少し飲むと良い」
「あぁ、これはありがとうございます」
ピエール修道士は杯を前へ押し出した。エリウスは笑顔でそれにワインを注ぐ。美味そうにワインを飲む修道士は実に満足げだ。
「民衆の人数は十万人と聞いているが、本当か?」
「……それについては少し多めに伝えております」
「ほう……何故だ?」
「まぁ早い話、噂は我々より先に東ローマを抜けエルサレムに達するでしょう。実際はもう少し少数ですが、十万人ものキリスト教徒が向かってくると聞いた異教徒達の中には、逃げ出す者もいるのではないかと思うのです。そうなれば、戦わずして聖地を取り戻す事ができる。私はそのように考えました。嘘は使いようなのですよ」
「…………」
エリウスは何も言わず、ただ笑った。司祭までやった人間の言葉とは思えない。だが酔った彼の口は滑らかだ。つい本心が出てしまったのだろう。
エリウスには彼と話しながら感じる違和感の原因が、わかったような気がした。話す雰囲気は穏やかだが、やる事が稚拙なのだ。彼の話からは異教徒に恨みを持っており、その腹いせで行動したとしか思えない。だが彼はそれが自分の使命だと思い込んでいる。
エリウスは心の中で溜息をついた。実にタチが悪い。
だがわかった事もある。彼らは戦う気は無いのだ。戦うための集団ではなく大群で押し寄せ、場所を奪おうと思っている。これではみすみす殺してくれと言ってるも同じだ。
「騎士をつけようとは思わなかったのか?」
「あぁ、いいえ、騎士はいるのです。東ローマで落ち合うことになっているのですが、同じ北フランス出身のゴーティエ・サンザヴォワール侯が賛同してくださり、別な経路を通り落ち合う事になっております」
「ゴーティエ・サンザヴォワール侯……」
「はい、私は民衆を、サンザヴォワール侯は騎士を募り落ち合うのですよ。流石に騎士なしで異教徒の国には入れませんのでね」
エリウスは「考えてはいるのだな……」と言いながらワインを差し出す。ピエールは嬉しそうに杯を出した。
「その騎士達はこの街道を通らぬのか?」
「はい、彼らはもう少し北の方のハンガリーやブルガリアを通り東ローマへ入ることになるでしょう。先に出たのでもうしばらくすると着いてしまうかもしれないですが……土地を探す時にも彼らは役に立ちましょう」
「……そうか」
ピエール修道士は相当腹が空いていたと見えて、それからもパンと豆の煮込みをお代わりし、実によく食べた。
「もう少しワインをどうだ?」
エリウスはワインの瓶を傾けたが、ピエールはもう飲めないとそれを断った。
「さすがにもう飲めません。ルガリアードの第二王子にここまでしていただき、賛同を得たことは忘れません。私は皆の元へ戻りたいのですが……よろしいでしょうか?」
「其方のために宿も取ってはあるが……」
「いいえ、それには及びません。皆と同じように地べたで寝ますよ。私達は志を同じくするもの同士、共に行動をするのです」
実に穏やかに彼は笑い、席を立った。
「今日は誠にありがとうございました。パンと水も何とお礼を言って良いのか……そうそう、配ってあるパンと水については私もいただいても宜しいのでしょうか?」
「あぁ、もちろん、受け取って行くが良い。我々も十字軍として八月に出発し、其方らを追いかける。無事でおられることを願っている」
「ありがとうございます」
ピエール修道士は深々と頭を下げると、門へと急いだ。その後ろ姿を見ながら、エリウスは呟いた。
「彼は皆と同じと言いつつ、自分だけが温かな料理を食べる事には何も言及しなかったな……」
「…………」
後ろに立つセルグスは苦笑していた。
何とも言えない空気がある。希望だけを胸に進む民衆十字軍のこの先はどうなるのか……エリウスは一抹の不安を持ちつつ、宿泊先へと戻った。
民衆十字軍の民衆は大人も子供もその日夜中までパンを貰うために次々と並び、水を得て、眠りについた。彼らは延々と続く道を次の日にまた、東ローマ帝国へ向けて出発する。
エリウスは宿泊していた市長の家に戻り、ラディウスに向けて報告書を書いた。それはその日のうちに王都のリナレス城へ向けて運ばれていった。
市民十字軍とも呼ばれた彼らを、ここでは民衆十字軍で統一しました。
民衆十字軍を率いた『隠者ピエール』については様々な逸話があります。
彼は最後まで生き残った事は共通していますが、後の彼については様々な憶測があります。




