44 エレーヌの涙
ラディウスはルドヴィーグ家の中庭のベンチに座ったまま考えていた。
(一体、ブルーナの病とは何なのか……)
ブルーナの病の事が知りたい。あんな風に突然倒れる事があるとすれば、外に出たがらないのがよく理解できる。だが、何か手立てはないのだろうか? 飲んでいたあの薬は適切に処方されているのだろうか? 治らないのか? 知りたい事が山のようにある。
——ブルーナを守るにはどうすれば良い?
ラディウスの頭の中には先程の、血の気がなく苦痛に苦しむブルーナの顔が思い出される。ラディウスの瞳が揺らぐ。ただそれだけで動揺している自分自身にも驚いていた。
——どう、すれば良い?……。
ブルーナを守る手立てを考えなければいけない。誰に聞くのが一番良いのか? 恐らくエルダは何も話さないだろう。自分の主人の事を彼女が話す訳がない。では誰に聞くのが良いのか? ルドヴィーグ伯爵にしても同じだろう。彼は今までブルーナを守ってきた。だから世間から切り離していたのだ……。
そう気づいた時、ラディウスは知らなかったとは言え、自分がいかにブルーナに酷な事をしていたのかと恥じた。
——初めから話してくれていたら……。
だがそれは違うと直ぐに思った。
——私はどうすれば良いのだ?
その時、ラディウスの脳裏に浮かんだのは漠然とした医師の姿だった。
——ブルーナの主治医……そうだ! ブルーナの主治医に聞けば良い。
闇の中に光が見えた気がした。家族ではないが、婚約者の姉君の事だ。教えてくれるかもしれない。そう思いながら、自分の婚約者はエレーヌなのだとまた気が付く。ラディウスは堪えるように口を引き結んだ。
ラディウスがベンチに座って考えていると、いつの間に傍に来ていたのかエルダの声がした。
「ラディウス殿下、居間にお戻りにならなかったのですか?」
その姿を確認しラディウスは所在ない気持ちになった。エルダの真っ直ぐな側仕えとしての態度はいつも嘘偽りがなく、今のラディウスには後ろめたさを感じずにはいられない。
「あぁ……少し考える時間が欲しかった」
「たった今、デュラン様が確認にいらっしゃいました」
思い出した様にラディウスは「あぁ……」と呟いた。自分はデュランに指示を出すことをすっかり忘れていた。
ラディウスの言葉を聞いてエルダは頷くと穏やかな表情で微笑んでいる。
「お嬢様の今日の発作はすぐに回復すると思いますので……後はご心配なさらないで下さい。ラディウス殿下はエレーヌ様にお会いにいかれた方がよろしいと思います」
ラディウスはエルダの言葉を聞いて、一瞬眉を寄せた。
「いつもブルーナはあのようになるのか?」
「それは……」
エルダはラディウスの真剣な表情を見て口をつぐんだ。
「申し訳ありません……余計な事を申しました」
エルダにとっては日常の事でも、ラディウスにとって目の前で起きたあの発作はショックが大きかったに違いないのだ。その事を考慮する必要があった。エルダは深々と頭を垂れた。
俯いたエルダにラディウスは懇願する。
「エルダ、頼みがある。彼女の主治医を教えてもらえないだろうか?」
エルダは不安に思いながらラディウスを見上げた。
「何をなさるおつもりですか?」
ラディウスがブルーナの主治医を知って、どうするのか見当がつかない。
「彼女に一番の医師をつけたい」
ラディウスの言葉にエルダは戸惑った。
「でも……もう、いらっしゃいますので……」
「今ついている医師が最高の医師だと言えるのか?」
ラディウスの言葉に、エルダは一瞬すがりたい気持ちになった。
ブルーナの発作を見る度にエルダはいたたまれ無くなる。もし、もっと優れた医師に見て貰えるなら……そして、ブルーナの病が治るなら、それ以上の喜びがあるだろうか?
エルダは躊躇いながらも、真っ直ぐにラディウスを見た。
「……主治医は、カルロス・アザック様です」
名を告げたエルダの顔を、ラディウスは一瞬だけ厳しい目で見た。
「カルロス・アザック?……あの老医師か?」
ラディウスは少し考えるように、唇に手をやると床に目を落とした。
「ご存知なのですか?」
「……あぁ」
そう呟くラディウスの顔は、先程までの気概が薄れたように見えていた。しばらく考えた後、ラディウスは呟くように声を発した。
「しばらく時間をくれるか?」
「あ……はい、もちろんでございます」
エルダはラディウスの表情が気になったが、ラディウスに任せれば、ブルーナの健康は良い方向に行く気がした。エルダは立ち去るラディウスの姿を見ながら、祈る様な気持ちで頭を下げた。
ラディウスはカルロス・アザック老医師に面識があった。ラディウスの知る限り、ルガリアードの国に彼以上の医師は居なかった。
腕は確かに一流だったが、彼は宮廷医師をキッパリ断った事で有名になった人物だった。宮廷に居るより、市民を数多く診たいと言うのが彼の言い分だ。確かにその気持ちは間違ってはいない。だが、あの時カルロス・アザックが宮廷にいてくれたら、大事なひとつの命が消えることはなかったのだ。
思い込みかもしれない。彼がいてもあの子は助からなかったのかもしれない。でも、ルガリアードで一番の腕を持つと言われた彼がいてくれたら、妹は死なずに済んだ。ラディウスはその想いにずっと囚われてきた。
末っ子の弟が無事産まれてからは、徐々に薄れて行った感情だった。だが、カルロスの名を聞くと忘れていた想いが湧き出てくる。
今思えば、カルロス・アザック老医師が悪いわけではない。それも十分に分かっている。だが、あの時自分は、抑えられない悔しさをカルロス老医師に向けて暴言を吐く事で解放してしまった。暴言を吐いた後のカルロス老医師の顔は忘れる事が出来なかった。寂しく宮廷を後にする老医師の後ろ姿は、生気がなかった。
ラディウスはため息をついた。今更、どんな顔をしてカルロス老医師に会えばいいというのか。
ルドヴィーグ家の玄関に差し掛かった所で、馬の蹄の音が聞こえて来た。外に出るとデュランがエレーヌを馬に乗せ、庭先をグルリと回っている最中だった。エレーヌの顔はあまり楽しそうに見えなかったが、デュランが何かと話しかけている。
その姿を見るまでラディウスの頭の中にはブルーナしかなかった。エレーヌの姿を見つめ、ラディウスは改めて自分の現状の複雑さと、エレーヌに対する申し訳ない気持ちが湧き上がってきた。
玄関先のラディウスに気が付くと、エレーヌはデュランに降ろしてくれと頼み、真っ直ぐにラディウスの元へ駆けて来た。
「お兄様、お姉様は?」
心配そうにラディウスを見上げるエレーヌは、すでに泣きそうな顔をしている。
「あぁ……」
ラディウスはただそれだけを返事しただけだったが、目の前のエレーヌはポロポロと涙を落とし始めた。
「いつもそう……どうして神様はお姉様ばかりいじめるの? 私、今日はお姉様と初めてお出かけ出来ると思って楽しみにしてたのに……どうしてお姉様ばっかり苦しい想いをしなくちゃならないの?」
色々と思う事があったのだろう。我慢していた気持ちが切れてしまい、エレーヌはしゃくり上げて泣き出した。ラディウスはエレーヌの前にしゃがみ込むと、その頭を優しく撫でた。
「エレーヌはお姉様が好きか?」
「……大好き、私、お姉さまが、大好き……」
しゃっくりで途切れ途切れになりながらも、エレーヌははっきりとそう言った。ラディウスは苦痛を感じながら微笑んだ。
「私もだ……私も君の姉上の事が好きだ……とてもね」
ラディウスは天使のような女の子の頬に流れる、嘘のない涙を見つめた。胸が痛かった。エレーヌに対する責任とブルーナに対する想い。
言い逃れのできない罪の意識は、ラディウスを自責の念にかりたてた。婚約相手を探す期限を迫られていたとは言え、何故もっと慎重に事を運ばなかったのだろう。今更ながら、自暴自棄になり、渡りに船と事を急いだのが悔やまれる。ラディウスの後悔は限りなく大きくなっていった。
——私は馬鹿者だ……。
ラディウスはそっとエレーヌの頬を流れる清らかな涙を拭いた。
「君の姉上は強い意思を持っている、だから大丈夫だ、きっと大丈夫だ」
エレーヌを宥めながら、ラディウスは自分の中の、ブルーナへの想いを鎮めようと苦労した。婚約者はエレーヌなのだと言い聞かせながら、彼はエレーヌの頭を撫で笑って見せる。
「エレーヌ、約束しよう。ブルーナの体調が良くなったら、もう一度、今度はちゃんと全てを整えてピクニックへ行こう。今日は駄目だったが、元気になれば君のお姉様も嫌だとは言わないだろうから……元気になるように私も手を尽くす……」
ラディウスの言葉にエレーヌは深く頷いた。
「お兄様とお姉様と一緒なら私それだけで嬉しいの。我儘は言わない。たくさん好きなことを我慢する。だからお兄様、お姉さまを助けて……」
エレーヌはそういい、ラディウスに抱き付いた。抱きつきながらエレーヌは小さな声をあげて泣き出した。
ラディウスは胸の痛みが大きくなるのを感じていた。だが、エレーヌの背中を優しく撫でた後、ギュッと抱き締めた。エレーヌの身体は、力を入れると壊れそうに華奢で、弱々しく、誰かが傍に着いていないと心細いほどに小さい。その身体を壊さないようにラディウスは抱きしめる。
だが、心にはブルーナがいる。ラディウスは詫びる気持ちで目を閉じた。
初夏の日差しは柔らかく二人を包み、穏やかな風が吹いた。
本当なら今頃、リスの巣に木の実を持って行っている頃だったろう。ラディウスは生涯この時を忘れる事は出来なかった。
エレーヌは純粋にお兄様とお姉さまのことが大好きです。
今日はブルーナとピクニックへ行けると思っていたのに……
その姿に、ラディウスは自責の念に駆られます。




