28 春の訪れ
雪が溶け出すと春はすぐにやって来る。日差しが柔らかく射し始め緩やかではあるが気温が上昇し始めると庭の植物が芽吹き出す。
ルドヴィーグ伯爵家の門から家までのエントランスにはまだ雪が残っていたが、毎朝、数人の従者が雪かきをしていた時期はもう終わる。一仕事の後の温かいお茶やスープはホッとするものだが、春は更に嬉しいものだ。
ブルーナはブランケットを肩に掛け、窓辺に立ち空を見上げた。冷たい窓辺に近付くには何かを羽織らなければまだ寒い。どんよりとした薄灰色の雲が流れ青い空が見え始めている。これからの季節、暫くは良い天気が続くはずだ。ブルーナの顔に知らず知らず笑みが浮かんだ。
やはり冷たく澱んだ冬より緑の生まれる春の方が好きだと思いながら、ブルーナはサイドテーブルの上の積み上げた本を眺めた。冬の間に読もうと積み上げた本は全て読み終えてしまっている。
「お嬢様、温かいお茶をどうぞ」
エルダがお茶をテーブルに乗せるのを待って椅子に座り、ブルーナはカップを手に取った。
「ねぇ、エルダ。後で書庫へ本を返しに行きたいの。ついでにまた借りるけれど……もう春ですもの、良いでしょう?」
懇願する思いを含めブルーナはエルダを見た。エルダは少し考える素振りを見せながらも苦笑した。
「この冬の後半は我慢していらっしゃいましたものね。この冬発作は起きませんでしたし……良いでしょう。私もお手伝いいたします」
ブルーナはホッとした笑顔を見せた。最近はとにかく退屈していたのだ。手紙を書いても出すことが出来ず、アリシアへの手紙は溜まる一方だった。日記にも書く出来事がなくなり、最近は止まったままだ。
春になればそれらが全て解消される。手紙はまとめて出せば良いし、日記に書ける何かが起こるだろう。ブルーナの気持ちは春のように穏やかだった。
体を温めるお茶を飲んでから、ブルーナはエルダと手伝いとして従者のフィデルを伴い書庫へと入った。二人とも腕には大量の本を抱えている。
冬の間、書庫は閉ざされている。冷たい取手に手を触れるとその冷たさが痛みの様に感じられた。開けると人気の無い部屋の中には重苦しい空気が漂っている。
ブルーナは肩にかけたストールの襟元を握った。底冷えの感覚はどうしようもない。
「……やはり書庫は寒いですね」
フィデルが身を縮こませて書庫に入って行った。エルダとブルーナがそれに続き、一番奥のテーブルの上に本を置くとエルダは一息ついた。
「フィデル、休憩中だったのに手伝ってくださって、ありがとうございます」
「あ……でも、これを全て書棚に並べますよね? 休憩時間はもう少しありますから、僕は終わりまで手伝いますよ」
若いフィデルは書庫内の寒さに慣れるのも早いようで、白い息を吐きながらテーブルの本を並べ始めた。だが直ぐにエルダがそれを止める。
「フィデル、大丈夫ですわ。残りは私がやりますから、貴方は休憩時間を無駄にしてはいけませんから、お戻り下さい」
エルダは優しいが断固とした口調で言った。
「……わかりました。では私は戻ります」
フィデルは少し残念そうにそう言うと書庫を出て行った。そのフィデルの後ろ姿を見ていたエルダがブルーナに視線を戻した。
「お嬢様、もう緊張を解いて良いですよ」
エルダの笑顔を見ながらブルーナは肩を竦めた。いくら家の従者であるとはいえ、エルダ以外の者にはやはり緊張を伴う。
「お嬢様、では私は二階の物から順に片付けていきますね」
エルダは本を数冊持って階段を上がって行く。ブルーナはテーブルに並べられた本の内、一階の三冊の本を抱え棚へと向かった。並べながら新しく借りる本を選別し、ブルーナは片付けた本の横に乗せた。
二階から戻ったエルダはテーブルの上に乗せられているものを見て目を丸くした。
「お嬢様、もう次を選ばれたのですか?」
「えぇ、これからは篭るわけでは無いからこの三冊で良いわ」
後は二人でまた手分けをして片付けた。
ただジッと待つことに比べ、動き始めると身体がポカポカと暖かくなって行く。空気は変わらず冷たいが身体と同じように心も浮き立つような感覚は何なのか。ブルーナは不思議に思っていた。去年までは春の日差しにホッとはしたが、今のように浮き立つ思いはなかった。
「さぁ、お嬢様、片付きましたからお部屋へ戻りましょう。長くここにいると、やはり寒いですからね」
エルダが三冊の本を持ってブルーナの後ろを歩き始めた時、出入り口に差し掛かるとブルーナが歩みを止めた。
「お嬢様?」
エルダはどうしたのかと声を掛けたが、その原因が直ぐにわかった。渡り廊下をこちらへ来るラディウスが居たのだ。ブルーナの緊張が後ろに立つエルダにも伝わって来た。
「ブルーナ、元気であったか? 冬の間は一向に会えなかったが、暖かくなれば君と会えるのだな」
ラディウスはブルーナの顔を見て朗らかに笑った。ブルーナはスカートの端を持ち膝を少し曲げるだけの略式の挨拶をすると出入り口を端へ寄った。エルダはさりげなく移動し、出入り口側のブルーナの背後に立った。
「君と話がしたかったのだ。少し時間を取れないか?」
ラディウスは白い息を吐きながらブルーナの目前に立ったままだ。ブルーナは何も言わず立っていたが、隣にいるエルダには少しブルーナが震えているように思えた。恐らく少し動いた事で体温は上昇したが軽い汗を掻いたのでは無いだろうか。そうなると一気に身体が冷えてくる。エルダは一刻も早くブルーナに熱いお茶を入れてあげたかった。
ラディウスは返事をしないブルーナの顔を見ていた。
「春になったのだ。心は浮き立たないか?」
顔を覗き込むような仕草をし、ラディウスは少し困ったように笑った。エルダは失礼を承知で寒さのあるこの場を離れた方がいいと口を開いた。
「あの……ラディウス殿下、申し訳ありません。お嬢様はこれから少し御用がございます。もしよろしければ、その後に……」
エルダがそこまで言った時、ブルーナが手でエルダを制した。
「お話とは王宮勤めの事でしょうか?」
「あぁ……そうだ」
「それは私には出来ないとお断りしたはずです」
「それは聞いた。だが、その理由を知りたい」
ブルーナは少し驚いた。何故ここまでラディウスがブルーナ如きに自ら動くのか。
「失礼を承知で。話して宜しければ……私にはラディウス殿下の真意が分かりません。この国は私のような者を必要とする程に人材が不足しているのですか?」
ラディウスは考えるように視線を落とした。だが直ぐにまたブルーナを見る。
「いや……人材は揃っている。だが、皆、何かしらの柵があるのだ。君はルドヴィーグ伯爵の娘だからルドヴィーグ伯爵に属していると言える。だが、その伯爵は誰にも属してはいない。つまりは柵を持たぬのだ。その重要性は考えれば分かるだろう? もし君が私の文官として支えてくれたら、純粋にこの国の行く末を見た上での判断が出来ると思うのだ。その存在は貴重だと思っている」
そう話すラディウスの瞳は真剣だった。ブルーナは必要とされる事のこそばゆさを一瞬感じたが、答えを覆す気はない。
「申し訳ありません。そもそも、何故私のような女性を起用しようと思うのですか? 誰にも属さない柵のない若い男性を起用した方が遥かに役に立つのではないでしょうか」
そう言い終えた時、ブルーナは少し寒さが身に染みた。思わずブルッと震える。エルダが後にピタリと付き従ってくれていたが出入り口では冷たい風に晒される。
その時、強い風が吹いた。思わず避けようとしてブルーナは蹌踉た。ラディウスは咄嗟にブルーナの手を取った。ブルーナが蹌踉るのを支えたつもりだが、彼女の氷のような手の冷たさに驚いた。
「手が……これでは君の身体も冷えているのではないか?」
この時ブルーナの方もラディウスの手の温かさに驚いていた。包み込むような温もりが凍えた身体を癒すように、じんわりと手から暖かさが伝わる。ラディウスはブルーナのもう片方の手も取り、自分の両の手で包み込んだ。ブルーナは慌てて手を引っ込めようとしたが、ラディウスは手を離してくれない。
「エルダ、君は急いでお茶の準備を……私はもう少しブルーナと話をしたいのだが……この冷たさでは次にした方が良さそうだな」
「あの……手を離してください。私はエルダと共に自室に戻りますので……」
「そうか……それが良かろう。引き止めて悪かった」
ラディウスは漸く手を離した。外気は冷たいがブルーナの手にはラディウスの温もりが残っている。ブルーナは軽く礼をするとその場を足早に離れた。
部屋に戻ってもブルーナは落ち着きなく椅子に座った。エルダがお茶の準備をする間、ラディウスに握られた自分の手を見ていた。大きな温かい手の感触が残っている。身体は凍えていたはずなのに、いつの間にかその感覚も無くなっていた。
それから一月が過ぎた。
春は確かにやって来た。雪は日陰に残るもの以外は大方溶け、草の芽が出始めた。沢山着込むと書庫内でも過ごせるようになり、暖かい日にはブルーナも書庫で過ごした。
そしてある日、ラディウスがやって来た。彼は書庫にいるブルーナの元を訪れ、何やかんやと他愛のない話をし、ブルーナの視線の届く位置にある薄い本を一冊借りて出て行った。
この時はもう文官の話など一言も出なかった。構えていた分、これには拍子抜けだった。彼が借りて行った薄い本を確認すると、ローマ時代の商人の台帳だった。
「……あんな物を借りて行かれるなんて、やはり少し変わった方だわ」
ブルーナはラディウスが何を借りたのかが気になって調べただけなのだが、ローマ商人の台帳を見ても何が楽しいのかわかりようがなかった。台帳には年と商品の名前と数字が羅列してあるだけのものだ。そこに物語はなく、数字の事実だけが書かれてあるのだ。ブルーナにはそれが理解できなかった。
だが、驚いた事に十日もせぬ内にまたラディウスが現れた。今度は十分にエレーヌとの時間も取り、最終的に書庫へやって来た。そしてローマ人の商品台帳を本棚に返したにもかかわらず、また、同じ商品台帳を借りて書庫を出て行った。
これを繰り返すうちに、いつの間にかラディウスは一週間に一度の割合でルドヴィーグ伯爵家を訪問するようになっていた。そして、相も変わらず商品台帳を借りて行く。
ブルーナにはその意味が少しも分からない。毎週来ては借りた本を返し、同じものを借りる。そんなに台帳が面白いのなら、他の商品台帳を借りれば良いのに、一番薄いその台帳がお気に入りのようだった。
——おかしな方……。
ブルーナの中で高貴な人である筈のラディウスは、変な人として認識されるようになった。
書庫へ来ると一言二言ブルーナと話し、すぐに退散する。ブルーナは徐々にラディウスに対しての緊張感を無くしていった。商品台帳を毎週借りるラディウスに構える必要がなくなったからである。
毎週訪れる事でルドヴィーグ伯爵は大変だったが、家の者達もそれに慣れ始めた。週に一度、ラディウスは訪れる。寧ろ、訪れなかった週は逆にどうしたのかと心配する始末であった。
これがラディウスの策略である事など、ブルーナは知る由もない。




