10 アリシアの来訪
アリシアがやって来るまでの二日間はあっという間に過ぎた。料理人のフィアはお菓子と軽食と飲み物を準備し、エルダはピクニックで使用する敷物や台の準備をする。
だがアリシアが訪れる日の朝、目が覚めて直ぐにブルーナは窓の外の光景に肩を落とした。外は雨が降っていたのだ。雨だとピクニックはできない。せっかくの準備が全て台無しになってしまう。
こうなるとアリシアは来ないかもしれない。ブルーナは恨めしく厚い雲を眺めた。
暫くぼんやりと窓の外を眺めていたブルーナは、部屋の扉がノックされ我に返った。
「ブルーナお嬢様、お目覚めでしたか?」
入って来たエルダの表情も心なしか曇っている。エルダは窓辺に立つブルーナに少し驚いたが、ブルーナが振り向くと微笑んだ。
「お水は飲まれましたか?」
「……いいえ、まだよ」
「では、お水を先に飲んで下さい」
エルダはいつものように水差しの水をカップに注いだ。それを受け取りブルーナはゆっくりと水を飲み干す。
「……エルダ、雨になってしまったわ」
ブルーナが窓に目をやり呟くと、エルダは同じ様に窓の外に視線を向けた。
「そうですね……雨ですね……」
エルダの声には残念な思いが篭っている。エルダはそれまで、ブルーナがあれ程何かを精力的に動いてやる姿を見た事はなかった。
全てはアリシアを迎えるために準備をしていた。今まで友と呼べる人は居なかったから、やった事がないのは当たり前だが、それでもブルーナの働きは称賛に値するものだと思っている。
エルダからお茶会には何をするのかを聞くと、書庫に入り色々と過去の事を調べ、準備をして来た。お客様を迎える主人としての働きは当日にはもっと発揮されただろうに……。
「残念だけれど、仕方がないわね……」
ブルーナはカップを持ったまま呟く。
——仕方がない……それはよくわかっている。でも……
その時、ブルーナの部屋に再びノックの音が響いた。
「誰でしょうか?……」
エルダ以外ブルーナの部屋を訪れる者は殆どいない。エルダは扉を開けた。
「あの、これを……」
そこに立っていたのはハンスの下に付いている若い従者のフィデルだった。フィデルは料理人のフィアの甥で、よく働く若者だ。
エルダが差し出された紙を受け取ると、フィデルはホッとした様に少し笑った。
「パルスト辺境伯のご令嬢からの手紙です。たった今届きました」
彼はそう言うと丁寧に礼をして去って行った。エルダは沈んだ顔になった。今日は雨だから断りの手紙だろうと想像が付く。手紙はきれいなクリーム色の紙でできていた。エルダは少しだけ微笑んでブルーナにその手紙を渡す。
ブルーナ自身も手紙の内容は分かったのだろう。手紙を受け取った後、それを暫く見つめ、封を解いた。そして手紙の内容を読んだ時、ブルーナの顔が輝き始めた。
「アリシアは、雨でもいらしてくださると言って来たわ。折角なのだから、書庫を見てみたいと……エルダ! 今日のお茶会は中止ではないのよ!」
嬉しそうに笑うブルーナにエルダも笑って答えた。ブルーナの努力が無駄にならない事が心から嬉しい。
「良かったですね。では急いで着替えましょう。それからお茶はこちらのお嬢様の部屋でいただける様に致しましょうか?」
「えぇ、お願いするわ」
ブルーナは信頼の意を込めてエルダを見る。エルダは深く頷き、二人は準備を始めた。
ルドヴィーグ伯爵家の屋敷は街の中心から少し外れた、静かな場所にある。周りには緑も多く行き交う馬車は街の中よりずっと少ない。屋敷から少し行くと小さな湖があり、更に行くと広い野原と小さな農地があった。
その日の午後にならない時間帯に、雨の中一台の立派な馬車がルドヴィーグ伯爵家の門を入って行った。馬車にはパルスト辺境伯の家紋が付いている。ルドヴィーグ伯爵家の従者達は客人を迎えるのに玄関へ並び立った。
雨はまだ降っていた。玄関にピタリと止まった馬車から、パルスト家の従者がマントを付けたまま降り馬車の扉を開けると、同じようにマントをつけたアリシアの姿があった。
「アリシア様、どうぞお降り下さい」
従者の手に掴まりながらアリシアは降り、直ぐに屋敷に入る。続いてアリシアの侍女のルティアが降りて来た。二人は屋敷に入るとマントを脱いだ。
「アリシア嬢、よくおいで下さった。私がブルーナの父のアルフレッド・ジョアン・ド・ルドヴィーグです」
「お招き頂きまして、ありがとうございます。私はアリシア・フィリス・ドゥール・パルストです。父はパルスト辺境伯ですわ」
「えぇ、よく存じております。こちらは妻のリリアナ、そしてブルーナの妹のエレーヌです」
ルドヴィーグ伯爵は到着したアリシアに自分を含め家族を紹介した。エレーヌはリリアナの横で侍女に抱かれたままニコニコと笑っていた。
「お姉ちゃまのお友達?」
エレーヌは拙い言葉でアリシアに質問をし、手を伸ばした。
「そうよ、よろしくねエレーヌ」
アリシアがその手を取りニッコリと微笑むと、エレーヌはアリシアに抱いてもらおうと身を乗り出した。
「エレーヌお嬢様、いけませんよ」
エレーヌを抱いていた侍女が慌てて距離を取ると、エレーヌは不満そうに侍女の顔をペシペシと叩いた。
「お姉ちゃまの所へ一緒に行きたいの」
「いけません」
流石のリリアナもこれには口を出した。
「エレーヌ、アリシア様はブルーナ様のお友達なのですよ。あなたのお友達では無いの。行くことはなりません」
途端にエレーヌは悲しそうな表情になった。アリシアはそれを少し不憫に思った。
「良いのですよ。私はエレーヌ様と一緒でも構いませんわ」
アリシアはそう言ったが、リリアナは首を振った。
「いいえ、いけないのです。この子にはまだしつけが出来ておりませんので……」
「そうですか……」
そう言われてしまえばそれ以上の強要も出来ない。アリシアは素直に引いた。そして、周りを見回すとブルーナの姿がないのに気付く。
「ブルーナ様はどちらに?」
その時、一番奥に居たエルダが前へ進み出た。
「アリシア様、よくおいで下さいました。ブルーナ様は奥でお待ちです」
「まぁ、エルダ、ご機嫌よう。あなたにまたお会い出来て嬉しいわ。ブルーナは奥にいるのね。このまま伺っても良いのかしら?」
「えぇ、勿論でございます。ご案内致します」
エルダはその場に居る者達に礼をするとアリシアを案内するために先に歩き出した。アリシアとルティアは、素直にそれに従い付いて行く。長い廊下を抜け、角を曲がり、暫く行くと中庭が見える場所に出た。外は雨だったが、天気が良ければこの中庭は居心地の良いものだったろう。そのままそこを過ぎ、一つの扉の前でエルダは止まった。
「こちらがブルーナお嬢様のお部屋でございます」
エルダは扉をコンコンコンと三回ノックした。すると中から声がし、扉が開くとそこにブルーナが居た。
「ブルーナ! 会いたかったわ!」
アリシアは急いで中に入るとブルーナに近付きそのまま抱き締めた。ブルーナは流石に驚いたが、嬉しそうにアリシアを抱きしめ返す。
「アリシア、会えるのを楽しみに待っていたわ」
「私もよ。今日は雨だったけれど、どうしても会いたくて来てしまったわ。だって楽しみにしてたんですもの。雨だからと中止にするのは嫌だったの」
アリシアは身体を離すとブルーナの顔を覗き込み満面の笑みを見せた。
「あなたが来てくれて私はとてもとても嬉しいの……アリシアにこの気持ちが分かるかしら?」
「同じですもの、分かるに決まっているでしょう?」
二人は再会を喜びあった。
「ねぇ、早速だけれど、書庫を見せて頂けないかしら? 書庫はあなたを作ったと言っても良い場所でしょう? とても興味があるのよ」
アリシアは目を輝かせた。
「あら、お茶は良いの?」
「お茶は後でも良いわ。見せてくださる?」
「仕方ないわね。では書庫に行きましょう」
ブルーナは仕方ないと言いながら嬉しそうに笑った。そしてアリシアを書庫に案内するべく部屋を出る。長い廊下を来た方向と反対側へ向かうと、廊下の先に大きく重厚な建物が見えた。それは母屋である屋敷より大きく見える。ブルーナは渡り廊下で繋がったその場所へ向かった。
「あの建物が全て書庫になっているの」
「建物が全てですって?……どれほどの書物が納められているの?」
アリシアはその建物の大きさに圧倒され、そこに納められている書物の量を考えると気が遠くなる思いがした。
「城にある書物は殆ど同じものがあるというわ。もしもの時にはここから持ち出すことが出来るようにしているらしいの」
「あぁ……ブルーナの家系は代々、文官の出だと聞いているわ」
「そう、うちの家系は文官だから宮殿の書物の破損や持ち出しによる紛失などに備えているのよ」
先を歩いていたエルダが書庫の建物の大きな扉をゆっくりと開けた。
中は空気が篭っていて、雨の湿気が混ざった独特の匂いがしている。だが嫌な匂いではない。
中へ入るとアリシアは驚いた。広い建物の中は本棚が並び、一部は吹き抜けになっている。その吹き抜けの下に立ち上階を見ると各階にぐるりと壁伝いに本が見えた。
「アリシア、こちらよ」
先に入ったブルーナは更に奥へと進んでいく。縦長の窓が飛び飛びにあるが今日の雨のせいで書庫内は薄暗い。床には絨毯が敷かれ歩く音を消している。
「灯を取って参ります」
書庫内の暗さが気になったのか、エルダは急いで書庫を出て行った。ブルーナはエルダが出て行くのを気にせずに先へ行く。アリシアはそのブルーナの後ろ姿を追った。
ブルーナの進む先には少し広く開けた場所があり、壁は全て本で埋まっているが、大きなテーブルが三台置いてあった。その一つにブルーナは近付き、一番奥に立った。
「ここがいつもの私の場所よ。ここで本を読むの」
アリシアはブルーナの横に並ぶと一番奥のその場所から辺りを眺めた。
「ブルーナ……ルドヴィーグ伯爵家の書庫が、これほどのものだとは思わなかったわ」
アリシアは感嘆し、書籍の詰まった本棚を見上げ小さく息を吐いた。
「これほどの書庫があるなら、貴女が本の虫になる理由も分かるわね」
ブルーナは笑った。
「それでね、私は今日、貴女に本を貸してあげようと思ったの。それで、適当なものを探したんだけど……」
ブルーナはそう言いながら一冊の本を棚から出した。
「これ、読んでみて。きっと貴女なら面白く思うんじゃないかと……」
皮表紙の本には『植物誌』と書かれてあった。そして表紙の下に著者名が書かれてある。そこには『テオプラストス』と書かれていた。
「まぁ! 植物誌?!」
「そう、貴女はカエルが可愛いと言っていたでしょう? だからきっとアリストテレスの『動物誌』は読んだ事があるのではないかと思ったの。だから、今度はテオプラストスの『植物誌』はどうかしら?」
「まぁ! ありがとう! ブルーナ。『植物誌』はまだ読んでいなかったわ。この本、お借りしても良いの?」
「勿論よ。貴女にお貸しするために選んだのよ」
目を輝かせるアリシアを見てブルーナは満足げに笑う。自分が選んだ本を喜んでくれるアリシアが嬉しい。
エルダが灯を持って来たところで二人はテーブルに付き、灯りの下で本を広げた。
テオプラストスはアリストテレスの弟子だ。彼は師匠に倣い、独自の感性で植物を観察し記録して行った。その記録がそこには書かれてある。細かに観察した彼の眼は、きっと何にも勝るものだったのだろう。挿絵の施された記録には美しい植物の様子も描かれていた。
「……素敵だわ。この本は、図鑑の要素もあるのね」
「えぇ、きっとテオプラストス自身も詳細な植物の図を描いたと思うけれど、書き写す段階で絵師の力も借りたのではないかと思うの。見ただけで植物の特徴がわかるもの」
「テオプラストスは紀元前四〇〇年から紀元前三〇〇年の頃の人だったわね。ここまで詳細に観察するなんて……」
「この本、いくら見ていても見飽きないでしょう?」
「えぇ、本当に……」
二人は暫く『植物誌』を夢中になって読んだ。エルダとルティアはこの二人に付き合わされたがやる事がなく、仕方がないのでお茶会の準備をする事にした。
「アリシア嬢様、お茶会の準備をして参りますので、適当な頃においでくださいませね」
ルティアが声をかけたがアリシアは生返事だ。それはブルーナも同じで、エルダは微笑みながらルティアに行きましょうと身振りで示し、侍女二人は書庫を出て行った。
その日、本に夢中になった二人がお茶会をしたのはそれから二時間後の事だった。痺れを切らしたルティアが呼びに行き、漸く二人はお腹が空いていることに気付いたのである。
雨の中のアリシアの訪問は、初めの予定とは違ったとはいえ、概ね成功に終わった。
その事に誰よりもホッとしたのはエルダだったかもしれない。




