覚悟
泣き濡れるイリーシャの嗚咽を遮ったのは、寝室のドアをノックする音だった。
イリーシャは深く息を吸い込み、呼吸を整える。マリアンヌから手渡されたハンカチで顔を綺麗に拭うと、彼女に向かって頷きかけた。
イリーシャの無言の「大丈夫」に、マリアンヌがドアの外に声をかける。
「どなた?」
「ヨハンだ。イリーシャ嬢は平気かな?」
マリアンヌが表情を明るくする。イリーシャは何度か咳払いをし、丁重に促した。
「私はもう平気です。どうぞお入りください」
ギィ、と音を立ててドアが開けられる。ヨハンが顔を覗かせた。
「ああ、だいぶ体調も良くなったようだね。ここに来たときは真っ青だったから心配したよ」
「ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ございません」
椅子から立ち上がって頭を下げようとするのを、ヨハンが押しとどめた。
「いや、いい。大したことじゃないさ。ところで、この先のことを話しに来たんだけど、マリアンヌからはどこまで聞いた?」
「ジーンが私と離縁したと」
「うん、それが全てだね」
ヨハンが自分で椅子を引いて、腰を下ろす。イリーシャとマリアンヌに視線を巡らせた。
「それで、イリーシャ嬢はこれからどうしたい? さすがに僕の妾にするのはちょっと難しいけれど、他の貴族の元に嫁ぐのであればもっとまともな人材を用意するよ。結婚はうんざりだというなら、僕からユージンに話して、クロッセル公爵家から十分な慰謝料を貰うようにするし」
妾、と聞いてマリアンヌの眉がピクっと反応した。おそるおそる、といったふうにイリーシャを横目に見る。イリーシャは苦笑して、はっきり横にかぶりを振った。
イリーシャが考えているのは一つだけ。
背筋を正し、膝に手を置き、ヨハンとマリアンヌに向き直った。
「あの、もしご存知であれば教えていただきたいのですが」
「なんだい? 何でも聞いてくれ」
「聖女はどのように解呪を行うのですか? 何か特別な訓練が必要なのでしょうか」
先ほど、マリアンヌがカモミールティーに魔力を込めた、と聞いたときに思い付いたのだ。大聖女の娘らしいイリーシャであれば、ユージンの呪いを解くことができないか、と。
イリーシャの問いかけに、マリアンヌのかんばせがほの赤く染まる。両手で頬を押さえ、「まあまあまあ!」とはしゃいだ声をあげた。
「ユージンさまの呪いを解いて差し上げたいのですね! 愛ですわ!」
いえ愛ではないです、という言葉をぐっと飲み込み、イリーシャは微笑んだ。
はしゃぐマリアンヌとは対照的に、ヨハンは難しい顔をして腕を組んでいた。小声でブツブツ呟く。
「……まあ、イリーシャ嬢ならできるかもしれないが。というか、まだ呪いが解けていないことが驚きなんだが」
「殿下?」
「いや、解呪の方法はある。マリアンヌに聞いてくれると助かるな」
「マリアンヌさま?」
「ええ、お任せください!」
マリアンヌがドレスに飾られた胸元を、小さな拳でトンと叩いてみせた。目を輝かせ、イリーシャの腕を掴む。
「女同士でお話ししましょう! あ、殿下は出ていってください」
「はいはい」
苦笑するヨハンを寝室から追い出し、マリアンヌは意気込んで言った。夢見る乙女の瞳をうっとり細める。
「呪いを解くのに必要なのは、古来より真実の愛と決まっております」
「はあ……」
イリーシャは曖昧に頷いた。確かに、そういうお伽噺はたくさんある。しかし、誰がそれを真実の愛と判定するのだろう? 基準を明確にしておいて欲しい。なるべくそちらへ寄せていくので。
「というのは冗談でして」
「あ、そうなんですか。ですよね。聖女がいちいち相手を愛していたら身が保ちませんものね」
「解呪の基本は、魔力を相手に受け渡すことです。相手に触れるだけでも魔力は渡せますが、効率が悪すぎます。そこで、もっと深い接触が必要になります」
「つまり?」
「身体を交わすのです」
「……ああ、そういう!?」
イリーシャは目を丸くした。神秘的な魔術の儀式が必要なのかと思っていたら、ずいぶん即物的な答えで驚いた。だが確かに、触れればいいというのであれば、これ以上ない方法である。
マリアンヌの瞳が蠱惑的に細められる。すっと身を寄せ、耳朶に唇が触れそうなほどの距離で囁いた。
「……を、……して」
「えっ、そんなことまで!?」
「……が、……に」
「あわわ」
しばらくの間、みっちり解呪方法を聞いたイリーシャは、へろへろになりながらマリアンヌに頭を下げた。
「あの、もうよく理解できましたから!」
「あら、もうよろしいんですの?」
そう言って小首を傾げるさまは、どこまでも無垢な愛らしい少女といった風情だ。先ほどまでその唇が濡れていたことは、イリーシャしか知らない。
「マリアンヌさま、本当に詳しくご存知ですね……」
「あら、魔力を持つ人間として当然ですわ。知識は身を守るものですのよ。解呪してくれ、なんて頼まれて、何も知らずに頷いてしまうわけにはいかないのですからね」
「あ……」
イリーシャは自分の考え足らずを恥じた。その通りだ。イリーシャがぼんやり過ごしていても危ない目に遭わなかったのは、幸運だったのと、そのように守ってくれた人がいたからに違いない。
イリーシャはふと思う。ユージンが幼い頃、呪いを解くために、何人かの聖女が呼ばれたという。そのとき彼は、自分がどのように扱われるのか理解していたのだろうか。
……いや、考えても詮無いことだ。
イリーシャは一つ瞬き、思考を切り替えた。マリアンヌを振り向く。
「ありがとうございます。きっと上手くやってみせます」
「お気になさらず。イリーシャさまとユージンさまなら、絶対に大丈夫ですわ!」
マリアンヌが、むん、と拳を握ってみせる。そこに外からドアを叩く音が響いた。ついで、「ヨハンだ。そろそろ話は終わったかな?」と声がする。
「どうぞ」と答えると、ヨハンが部屋に足を踏み入れた。少しそわそわしながら、二人を眺める。
「それで……話を聞いて、イリーシャ嬢はそれでも解呪したいと考えているかい?」
イリーシャは迷いなく首肯した。マリアンヌに閨房の授業よりすごいことを教わっている間も、止めるという選択肢が頭に浮かんだことはなかった。別に彼女は、愛を交わしにいくわけではないのだ。
「はい。可能であれば」
ヨハンがかすかに瞳をすがめた。何かを押しはかるように、イリーシャから目を背けない。イリーシャも視線を逸らさなかった。
しばらくの睨み合いのあと、ヨハンがため息をついた。
「戻ったら、ユージンはもう二度と君を手放さないよ。今度こそ本当に逃げられなくなる。死ぬまで囚われる。それでも本当に行くのか? 君に、その覚悟はあるか?」
イリーシャは胸に手を当てた。目を閉じる。脳裏に今までのことが浮かんでは消えた。自分の感情に振り回されて、多くの人に迷惑をかけてしまった。後悔は数えきれないほどあり、口惜しさに呻きたくなる。
——それでも。
イリーシャは目を開ける。角灯の火を受けて、大きな瞳が黄金に輝く。
「……はい、私はもう決めました。もう迷いません」
その言葉は、部屋によく響いた。マリアンヌが励ますようににこっと笑い、ヨハンが厳しい表情をゆるめる。
「そうか。なら僕から言えることは何もない。クロッセル公爵邸まで馬車を仕立てよう」




