scene7
――7――
怖いものから逃げて、怯える幼子のようだった。
アスファルトにしがみつくように座り込むツナギ。彼女――いいや、彼は、声も上げずに涙を流し、色の映さない瞳を彷徨わせていた。私は、そんなツナギの正面に回り込んで、見下ろすように立つ。
「ツナギ」
「失望、したよね。はは、私のこと、軽蔑――」
ああ、もう。
ため息。肩を震わすツナギ。こういう言い方は乱暴だろう。けれど一つ、どうしても、言わなければならないことがある。
だから私は、項垂れるツナギの頬を両側からがしっと掴んで、上を向かせた。
「うぇっ!?」
「わたしはツナギが女の子だからともだちになったんじゃない。ツナギが男の子だから、ともだちをやめたくなったりもしない」
「で、でも、ずっと騙してたのに!」
気負うだろう。心苦しいだろう。
でも、親しいからなんの秘密もないなんて、そんなことはあるわけない。少なくとも、悲しみに揺れる“友達”の怯える瞳に秘められた嘘を、咎めるつもりなんかない。
「だからどうした! わたしは、ツナギのともだちだよ。ツナギがイヤだって言ったって、やめてなんかあげないんだから!」
ツナギが何か言う前に、彼の頭を抱きしめる。さらさらと流れる黒髪。ごく自然に作られているけれど、直接触れたらわかってしまう。これは、たぶん、かぶり物だ。ツナギ自身がこうしてきたとも思えない。なら、いったい、ツナギの周囲に居る誰かはいったいいくつの嘘と暴力を、彼に浴びせてきたのだろう。
暗い、暗い、暗い感情が、胸の奥からにじみ出てくる。この感情は、久しく忘れていた。ぬるま湯のように温かな環境が、前世の記憶から湧き出る感情の源泉を封じ込めていた。
この感情の名は――
『だ―! あ―、―う!』
――“憎悪”だ。
ツナギは身じろぎするが、残念ながら私の方が有利な姿勢だ。放してなんか、やらない。
「ツナギがわたしのともだちだってみとめるまで、放さないから」
「……は、はは。それ、脅しだよ、つぐみ……いいの?」
「もちろん」
小さく頷く感覚が、抱きしめた頭から伝わってくる。まだなにも解決はしていないけれど……うん。大丈夫。戦える。振り上げた手から怯えて逃げることよりも、牙を剥いて戦う方がずっと“得意”だ。
桐王鶫は、いつだってそうやって生きてきた。草を食み、泥を啜り、屈辱を糧に生きてきた。だから、今更、この程度の逆境で――私の心を折れると思うな。
『聞こえたぞー。迎えに行くから待っていてね、は、ははははははっ!』
とはいえ、どうしたものか。そう首をひねっていると、私から身体を離し、不安げに見上げるツナギと目が合う。そういえば、ツナギのチョーカーについているのは音の鳴らない鈴か。私が、ツナギを守ってくれるようにあげた――いや、待って。本当に? 御門さんが、本当に、私に験担ぎ程度のものを、なくす度にくれたりするだろうか。
「ちょっとごめんね」
「へ?」
「いたくはしないから」
チョーカーに指をひっかけて、ぐいっと引き寄せる。
「あわわわわ、なななな」
「やっぱり」
「だだだだ、だめだよ、つぐみ!」
「あ、ごめんね?」
やっぱり痛かったかな。そう思って指を離す。でもやっぱり、ビンゴだ。何かのチップのようなモノが、非常に見えづらいところに張り付いていた。ならきっともう、助けが来ていることだろう。
であるのなら、やりようはある。ようは、時間を稼げば良い。私の持てる“全部”で、あのド外道に思い知らせてやればいい。
「ね、ツナギ。それってカツラ?」
「え?! あ、そっか。抱きしめたらわかるよね……うん、そうだよ」
「なら、おねがいがあるんだけれど――良いかな?」
「え?」
鬼ごっこの時間は終わりだ。
もう、逃げてばかりでなんか、いてやらない。私は、近づいてくる足音に、そう、決意する。
天真爛漫な女の子。
いつだって人なつっこく、元気で、そして壊された女の子。
彼女は今も入院して、心を癒やしているという。彼女の恨みは、恐怖は、憎悪は、いかほどのモノだろうか。
意識が切り替わる。カチリと押し込まれたスイッチが、特大級の導火線に火をつけた。
さぁ、反撃の時間だ。
――/――
「ふ、ははは、子猫ちゃんはどこかなぁ」
鵜垣はそう、重い扉を開く。チカチカと光る電灯。彼の“戦利品”がため込まれたコレクションルームだ。実のところ、彼はツナギには毛ほどの興味もなかった。女児のような男児を味わってみたいという感覚が彼にないということではない。ただ単純に、鵜垣はツナギの背後に潜む“闇”を知っていたからだ。
追い詰めるだけ追い詰めるし、彼の目の前でつぐみを陵辱する快楽も味わう気であったが、彼を傷つけてしまうと“背後”が怖い。鵜垣に捨てるモノなどないが、死にたくもなかった。だから、ツナギは警察に引き渡さず、彼の背後に送り込む気でいた。
(なに、向こうも同じ穴の狢だ。ツナギの口止めくらいはしてくれるだろう)
今日、この日に至るまでの資金援助。その代わりの“仕事”もこなしてきたのだから。鵜垣はそう、コレクションルームを歩きながら考えてほくそ笑む。
追っ手がかかっても問題ない。複数の事件に手を回して置いてある。検問だらけでまともに進むことはできないだろう。鵜垣は、それができるだけの信頼を築き上げてきた警官だった。さすがに、自分が犯人だと発覚はしていないだろう。GPSがない以上、相手も手探りだ。検問を抜けて、金持ち特有の伝手を使っても到着は明日の朝がせいぜい。車で眠ってから一時間程度しか経っていないことを悟らせないために、携帯電話だけでなく時計の類いも奪っている。
鵜垣は、正義の立場から俯瞰して、悪を成すことに長けていた。
「ここかなぁ?」
気配とは真逆の方向を覗き込む。こうやって徐々に追い詰める楽しみを、鵜垣は今日までずっと我慢してきた。現場に残す体液すら、悠斗羅のものになるように調整してきたのは、長く、多く、楽しむためだった。
でも、今回は思うように事が運ばなかったため、正体が発覚してしまうやり方しかとれなかった。それを残念だと、鵜垣は思わない。なにせ、顔を見られても良いのだから。今回は、喋ることすらできなくなるまで、遊べるのだから。
「そこかぁ! は、ははは、は?」
室内。隅に佇む影。諦めたのか、と、鵜垣は踏み出す。
「そうやって、こどもたちを傷つけてきたんだね」
「はは。ああ、そうだよ。まさか説得しようなんて――」
「思わないよ」
声が沈む。影はふらりと前のめりに倒れ――電灯が、割れた。
「ッ石でも投げたか? おいおい、足下が見えないと危ないよ」
割れた蛍光灯は一つ。切れかけの蛍光灯が一つ。ずいぶんと薄暗くはなったが、子供二人を見逃すほどでもない。鵜垣は笑みを崩さず、影に声をかける。
「ほら、おじさんといいことをしよう。とても楽しいことだよ」
一歩、一歩、一歩。
近づいて――一瞬、電気が消える。
「まったく、小細工を」
瞬きほどの間。直ぐに光る電気。
だというのに、隅にいた少女の姿はない。
「は? どこへ……」
電気が消える。
明滅/光が灯る。繰り返す光と闇の先で――ぼんやりと浮かび上がる、黒髪の少女の姿。
「な、に?」
「どうしたの? あそんでくれるんでしょ? ――おじさん」
黄色いレインコート。
流した黒髪。溌剌とした声。楽しげに笑う姿。
「っそんな演技で」
明滅。
「どっちを見てるの?」
「ッ」
明滅。
まるで、瞬間移動でもしているかのように、右に左に出現する少女の姿。
「こっちだよ」
「こっちこっち」
「あははは」
「どっちを見てるの?」
「ほら、あそぼうよ!」
光が消えて、またつく度に位置が変わる。そしてその姿は、見間違えるはずのないものだ。三日月のように笑みを浮かべ、反響する声で、鵜垣を呼び慕う――姪の、姿。
「誰だ、誰だ誰だ誰だ!」
「あおばだよ」
背後。
「うわぁああああああッ!!」
鵜垣は振り払うように手を動かす。けれど、明滅する電気に気を取られ、距離感を掴むことすらできない。
病院で、ベッドの上で、いつも虚ろな瞳を空に向ける姪の姿。もしも彼女に魂が入っていないのだとすれば、なるほど、怨念は鵜垣に向くことだろう。
「嘘だ、見られていないはずだ。慎重にやってきた! 誰にも、おまえにだって!」
見間違えるはずがない。
執着し、挙げ句の果てに壊した姪の姿。呼び方も、姿形もなにもかも、鵜垣の記憶のままだった。
「私は完璧に――」
だから。
“それ”に気がついたのは、偶然だった。
「――は」
電気のスイッチの側で、タイミングを見計らうように蹲る“金髪の少年”。雑音の中で聞こえる、滑るような音。警察官の必修として、武道の経験がある鵜垣は、極限の中のひらめきで、その正体に思い至る。古流武術に見られる、体重移動と膝の曲げ伸ばしを制御することによって扱える“縮地”という技術。
「大人、を、馬鹿にしたら、痛い目を見ると親から教えてもらえなかったみたいだなぁ!」
鵜垣は雑にベルトに突っ込んでいた拳銃を引き抜く。悠斗羅を射殺するために保持していた弾丸を使うことに、最早、ためらいもなかった。
「安心しろ。きっと君は、死体でも美――」
突き出された拳銃。引き金が引き絞られ――る、前に、黒い何かが鵜垣の手首に叩きつけられる。
「――がっ!? なに」
それが黒樫の短杖であることに当たりをつけたときには、もう、遅かった。
「つぐみ様を傷つけた罪。地獄で悔やめ、外道」
「ひっ」
鵜垣の胴に、砲弾のような蹴りがたたき込まれる。肋骨の折れる音。拳銃がどこかへ吹き飛び、くの字に折れる身体。倒れ伏すことだけはすまいと、大きく後ろに下がった鵜垣は――己の股座に突き刺さる黒いブーツを、どこか人ごとのように眺めていた。
「ギッ、ぐ、ぎゃああああああああああああああッ!」
「耳障りです。口を閉じろ」
「げぎッ」
火花を散らすような痛みが、鵜垣を襲う。けれど、悲鳴も長くは続かない。下から突き上げられた膝が、鵜垣の顎を砕いたために。
「息をするという不遜、法廷までは許しましょう。ですがこれ以上、つぐみ様を見ることは許しません」
遠のく意識。味わわせてきた痛みが、味わわされているという屈辱。そのすべてを消化仕切る前に、こめかみにたたき込まれた肘が、鵜垣の意識を強烈な痛みと共に刈り取った。
「ごッ、お、ぶ」
音を立てて倒れる鵜垣。凄惨な交通事故にでも遭ったかのような光景を前に佇む小春の前に、おずおずと、レインコートと黒いカツラを被ったつぐみが歩み寄る。
「よかった、こはるさん、来てくれたんだね。けがはありませんか?」
「つぐみ様――つぐみ様、ああ、つぐみ様……ッ」
小春は膝をつき、つぐみの頬に手を触れる。その温かさが、つぐみが生きていることを教えてくれた。
「こはるさん?」
「良かった。私は、わたし、うぁ、私は、涙を流す資格なんて、あなたの前に立つ資格なんてないのにッ――」
「――でも、たすけてくれたよ。こはるさん。だいじょうぶ、だいじょうぶだから。わたしは、ここにいるよ」
つぐみはそう、行き場のない手を彷徨わせる小春の、細く硬い手を掴む。それから、ツナギにそうしたように、小春の頭を抱きしめた。
「しかくがないなんて言わないで。わたしは、こはるさんがこはるさんだから、いっしょにいたいんだよ。逃がしてなんて、あげないんだから」
抱き合う二人の姿を前に、ツナギは目線を彷徨わせ、つぐみの足下に落ちたカツラを被り直す。それから、声をかけようと手を伸ばして――響いてきた複数の足音にびくりと震えて、手を下ろした。
所在なさげに立つツナギの前に、警察と、御門家の別働隊が突入する。証拠は多数あり、最早、言い逃れはできないだろう。様々な感情がない交ぜになった若い刑事、丹沢は、無惨な姿で倒れ伏す鵜垣に手錠をかけた。
「僕は……あなたのことを尊敬していました」
その、重く沈んだ声を聞いていながら、ツナギはどうすることもできず、ただ見ていることしかできない。
「誰か、あの子たちに事情――いいや、毛布と、なにか飲み物を」
「はい! 丹沢警部補!」
明滅する蛍光灯の下。
薄汚れてなお美しい銀髪を流したつぐみが、小春の頭を抱きしめる。側に所在なさげなツナギの姿を置きながらも、まるで、一枚の絵画のような光景だった。




