scene5
――5――
「兄」
一言、短くオレに告げられる言葉。もみくちゃにされてなんとか逃げ延びた凛が、ソファーでぐったりと座るオレの元へ戻ってきたようだ。
「つぐみのところに行くんじゃなかったのか? 凛」
「つぐみがいない」
「はぁ? 御門さんは?」
「いない」
「じゃ、帰ったんじゃないのか?」
神出鬼没の御門さんがいないだけならわかるが、二人ともいないんだったら、そりゃあ急用だろう。
「つぐみはなにも言わずにかえったりしない。かえるんだったら、ひとこと、言ってく。スマホが苦手だから」
「あー……」
オレたちなら、スマホで言えばいいやってなるものも、つぐみにはその選択肢がない。妙にババ臭いからな、そういうところ。じゃあ外か? このご時世、凛だけで行かせるのも心配……いや、面倒だ。
ぐるりと店内を見渡すが、目当ての鵜垣さんの姿は見えない。なら、ホストに来て貰うか。ちょっと悪いけど。
「黄金さん! ちょっと、外の空気を吸うの、付き合ってくれませんか?」
「ん? ああ、いいよ!」
まるっとした身体を軽快に跳ねさせながら、黄金さんがるいさんたちの輪から離れる。ぱっと周囲を見て、直ぐに意図を察してくれたのだろう。黄金さんは細い目をさらに細くして、ウィンクをした。
「つぐみちゃんだね?」
「当たり。凛が探してんだけど、外に行かせたら二次遭難だから」
「はは。さすが、良いお兄ちゃんだ」
「……」
凛に手を引かれて外に出る。すると直ぐに、じめっとした夏の夜風が頬を撫でた。
「んー。鵜垣さんの車もないね。……いや、待った」
黄金さんが目を細めた先で、御門さんの姿を見つける。ただならない雰囲気に駆け寄ると、ちょうど、御門さんと目が合った。
「御門さん! つぐみのやつに、何か?」
「兄、兄、ツナギもいない!」
御門さんは、よく見たら、耳元にスマートフォンを当てている。そこから、焦ったような大声が、オレたちの耳にも届いた。
『すまない、御門さん! 複数犯だ、連れて行かれた! 私は犯人の追跡を続ける! 君たちはなるべく固まって、子供たちの安全を確保してくれ!』
鵜垣さんの、焦燥した声。思わず息を呑んだオレたちを余所に、御門さんは素早くスマートフォンで何か操作をする。
「日立さん」
「なんでも言ってくれ!」
「警察に通報の上、角のゴミ箱の中で縛られている男を突き出しておいてください。警察が到着するまでは、近づかれないように」
「わ、わかった! 御門さんはなにを?」
日立さんの言葉が届く前に、一台のトレーラーが激しいブレーキ音と共にオレたちの前に停車する。巻き上がる土埃に顔を覆うオレたちとは対象的に、御門さんは一切表情を変えずに佇んでいた。
御門さんは、トレーラーの荷台が開かれる中、ただ、感情を感じさせない様子で振り向く。御門さんの背で開かれた荷台から滑るように現れたのは、黒いボディのバイクだった。
「追います」
荷台から新たに放り投げられたヘルメットをひっつかみ、御門さんはバイクに跨がる。エンジンが吹かされ、ヘッドライトがきらめくと、御門さんはあっという間に見えなくなった。
「ニ、ニンジャH2Rかぁ」
「黄金さん、それってすごいの?」
「すごいもなにも、最高時速四百――と、繋がった。警察ですか? 今、新宿区の……」
通報してくれる黄金さんを余所に、真っ白な顔で震える凛に視線を合わせる。オレたち以外に子供なんていないんだし、戻っても進んでもできることはない。それよりも先に、オレは、兄としてやらなきゃいけないことがあった。
「あ、兄、兄、つぐみとツナギが……」
「大丈夫、大丈夫だ。鵜垣さんも御門さんもいる。それに、あいつのしぶとさは知ってるだろ?」
「で、でも、う、うぇ、うぁあ、ぁ、ぐすっ」
大粒の涙を流す凛を抱きしめると、凛は怯えるように、オレにしがみついてきた。
「ほら、つぐみたちが戻ってきたとき、おまえが泣いてたら心配かけちまうだろ? 大丈夫だから、な?」
大丈夫、大丈夫と言い聞かせながら、オレも、オレの手が震えていることに気がつく。つぐみが、あいつがそう簡単にどうにかなるものか。連続女児暴行事件だかなんだか知らないが、あいつの図太さの敵じゃない。
(だから、大丈夫。大丈夫だ、絶対――……くそッ)
頭から、つぐみの笑顔が離れない。あの笑顔が、壊れてなくなっちまうんじゃないかって、嫌な予感が頭から離れない。
『こーくん』
あの笑顔を、オレは――畜生。
凛を抱きしめる傍ら、オレの方こそ、こんな顔は見せられねぇな……なんて、どうでもいいことばかりがリフレインした。
――/――
(つめたい)
手に触れる感触で目を覚ます。顔を上げて直ぐに確認するのは、同じように横たわるツナギの姿だ。手を伸ばせば、触れることができる。周囲の音、気配に気を配りながら、私はツナギを揺すった。
「ツナギ、ツナギ、おきて」
大きな声は上げない。状況がわからない以上、下手な動きはできないから。揺らしながらも周囲を確認することは忘れない。コンクリートの床、不安定に明滅する蛍光灯。コンクリート片が散乱する地面には、広げられたブルーシートと、壊れた棚や机と、切れた針金。そして、砕かれた携帯電話。私の、GPS付きのものだ。隣で一緒に壊れている携帯電話は、おそらくツナギのものだろう。
部屋の広さは学校の教室くらい。窓がないことを考えると、地下、かな。排気口は大きく、換気扇は古びている。“悪果の淵”の撮影でも使用した覚えがある、廃工場の雰囲気。都心部からは少し離れてしまっているかも知れない。
「う、ん……かあさ……――つぐみ?」
「しぃ。しずかに」
「う、うん。あれ? なんで、ここ、どこ?」
小さな声で状況を確認するツナギの様子に、ほっとする。後遺症や、あとに引き摺っている様子はない。ひとまず、一安心だ。もっと量を摂取していたら、危なかったのかも。
でも、結局、状況は何も変わっていない。ツナギがちゃんと落ち着くのを待ちながら、私は小さく行動を開始する。気配がないことを確認。それからゆっくりと扉を開く。意図はわからないけれど、こういう異常者が獲物を自由にするときの行動パターンはある程度、理解できる。こう、ホラー女優の知識として。
ようは、彼らはハンティングを楽しみたいのだ。出入り口付近に待ち伏せをして、それを捕まえる。その方が、獲物の感情の落差を味わうことができるから。
だから、気合いを入れろ、私。ここで失敗すれば、二人揃って変態の餌食だ。
「ツナギ、じょうきょうは、わかる?」
「えーと、確か、鵜垣さんにミルクティーを貰って――あれ?」
迂闊だった。けれど、相手が一枚も二枚も上手だった。ミルクティーを飲んだツナギは、私の方に倒れかかって、そのまま寝息を立てた。安心したせいだと思ったけれど、私にも直ぐに眠気が襲いかかって、それで。
扉に手を伸ばした私をあざ笑うように、ドアの前に立っていた男性。私たちを見下ろして、舌舐めずりをして、それから直ぐに運転席に乗り込んだ。私が覚えているのは、ここまでだ。ここまでで、充分だった。
だから、彼はずっと私たちを観察していたんだ。親身になって、近づいて、信用を得て――決定的な、隙を見つけるために。
「まさ、か」
ツナギの声。青ざめた表情。彼女が二の句を告げる前に、私はふと、思いついて、思い切り扉を開けた。軋みを上げて開かれる扉。廊下の両脇に、人の姿はない。私はツナギと、何よりも自分を奮い立たせるために、声を張り上げる。
「ろうかに人はいない。走ってにげよう、ツナギ!」
「へ? え、あ、うん!」
そう、ツナギが立ち上がると同時に、口元に人差し指を立てる。壁に配置された排気ダクトの位置。自分自身の身体能力。壊れた棚を駆け上がり、ダクトの枠に手をかける。堅さの把握は一瞬。直ぐに自分のネクタイを引き抜いてダクトの枠に引っかけ、勢いと体重で緩ませた。
「こっち」
「すごいことするね……うん」
ダクトに子供二人入り込んで、緩ませた枠に引っかけたネクタイを今度は内側から引くことではめ直した。完全ではないし調べられたら直ぐにわかってしまうことだろうけれど……とりあえず、これで充分。
「とりあえず、おくへ」
「つぐみ、えっと、うん、わかった」
ダクトの奥に進んで、直ぐ。足音が響く。なるべく暗がりに引っ込んで、ツナギと二人、狭い中で身を寄せ合うように息を殺した。
隙間から見えるのは、コンクリートの部屋の様子。全容は見えないけれど、それで充分だった。ゆっくりと歩いて部屋に入ってきたのは、優しげな顔立ちの壮年の男性。今日、喫茶店まで私たちを運んでくれた彼――鵜垣警部だ。
「おっと、ルートを間違えたかな?」
小さく、穏やかに苦笑する鵜垣さん。鵜垣さんは頬を掻きながら歩き去ろうとして――突然、踵を返して、排気ダクトとは逆方向に倒れていた机を蹴り倒す。
「なんてね! そこだろう!?」
破壊音。大きな音を立てて転がる、机の残骸。
「おや、違うか。ははは。だが、鬼ごっこはこうでないとね」
そう言って、鵜垣警部は歩き去る。
(気がつかなかった。まったく、疑いもしなかった)
だって、そうだろう。穏やかなお巡りさんで、いつも一緒にいた若い刑事――丹沢警部補よりも親身になってくれるから、なんとなく、丹沢さんの方を苦手に思っていた。
けれど、違ったんだ。きっと、本当は、あの小太りの男が私たちを攫う手筈だったんじゃないだろうか。けれど、小春さんが鵜垣さんの想定よりも遙かに早かったのだろう。
「つぐみ……いざとなったら、私を置いて逃げて」
「そんな“いざ”はソンザイしないよ、ツナギ」
「違う、そうじゃないんだ。私なら、ひどいことにはならない。だから、つぐみだけは、逃げて」
深く、決意を秘めた目。黒い瞳……いや、違う。吐息がかかるほどの距離で見れば、わかる。色つきの、コンタクトレンズ、だ。
「私は――」
「見つけたよ、二人とも」
ぬぅ、と、ダクトを掴んで私たちを覗き込む顔。高く持ち上げられた唇の端から、黄ばんだ歯と赤い舌がうごめいた。
「ツナギ、奥へ!」
「っっっ!」
「おっと」
ダクトが外され、手が伸ばされる。
「っあ」
「逃がさないよ、ふ、はははっ」
「つぐみを、放せ!」
「そうしてあげたいのも、やまやまだがねぇ――ぎっ!?」
足を掴まれ、引き摺り出される寸前で、その手が緩んだ。鵜垣さん……鵜垣の額にぶつけられたのは、一枚の五百円玉だ。大きくて固い硬貨は一瞬の隙を生んで、私を束縛から解放する。
「行こう!」
「うん、ありがとう……っ」
狭いダクトを四つん這いで進む。我に返った鵜垣が手を伸ばしてきたけれど、その手は、大きく空ぶった。大人の身体でそれ以上入るのは難しいだろう。
「はぁ、はぁっ、はぁっ」
奥へ、奥へ、奥へ進む。
真っ暗な闇の中、手探りの感触を頼りに、奥へ、奥へ、奥へ。
鬼ごっこはまだ、始まったばかりだ。




