ending
――ending――
夕暮れの中、初めて訪れた神津島に別れを告げる。島はどんどん遠くなって、最早、輪郭を望むだけになった。
あのあと、アウトロで流れる最後の風景の撮影をした。ツナギちゃんと虹君が並んで砂浜に腰掛け、二人の手と手の間に、赤い花の栞が置かれている。まるで既に深淵に落ち……じゃない、天国に行った私を真ん中において、語り合っているかのような光景だ。
「なんか、思ってたより疲れた」
そう、私と同じくデッキから海上を見ていた虹君が呟いた。私としても大いに同感なのだけれど、肉体面は「まだ行けるよ!」と訴えている。スペックの底が謎だ。
「ふわぁ……同感。つぐみは元気そうね」
「えー。わたしもつかれたよ? ツナギちゃん」
私を挟んで反対側で、ツナギちゃんはやはり眠そうに、茜色に染まる海を眺めていた。なんというか、二人とも覇気がない。
「ねぇ、つぐみ」
「なに?」
「あなた、さ。その――身体が弱かったりしない?」
不意に、ツナギちゃんはそう、私に問いかけた。
「じつは、わたし」
「や、やっぱり、何か先天的な――」
「かぜをひいたこともないんだ」
「――は?」
「ぶはっ。は、ははははっ、なんとかは風邪を引かないっていうもんなぁ」
呆けるツナギちゃん。
腹を抱えて笑う虹君。
「こーくん笑いすぎ!」
「くくくっ、すまん、無理! ははははははっ!」
「もう――驚かせないでよ、ほんとにさぁ」
そう、ツナギちゃんは安心した様子を見せる。
――そう。安心したのだ。ずっと、あの撮影の後からずっと、私に寂しげな瞳を向けていたツナギちゃんが。
(やっぱり、誰か大切な人を喪ってしまったのかな)
あの撮影を終えた後から、ツナギちゃんは少しだけ、私に近くなった。なんとなく隣り合って行動したり、時折、私が消えてしまっていないか確かめるように触れあってみたり。なんとなく、私が席を立つのを怖がったり。
大人びた表情と口調ばかりを見せていたツナギちゃんが見せる、ひどく年相応な仕草。ツナギちゃんの素のままの感情に触れたのだと、漠然と、胸が疼いた。
「ツナギちゃん」
「なに?」
親を保護者と呼ぶこと。
家族の話題をそれとなく避けること。
私を亡くして泣くあの演技が、あまりにも真に迫っていたこと。
「せっかく、ツナギちゃんとともだちになれたから、これ、あげる」
「なにこれ? 鈴? ……ちょっと、御門さんが出現したりしないよね?」
「あはは、しないよ。それ、鳴らない鈴だからね」
春名さんから貰ったモノではあるけれど、春名さんにはあとから誠心誠意謝ろう。そうしてまで、ツナギちゃんになにか、心の支えになるようなものを渡したかった。
「鳴らない? あ、ほんとだ」
「へぇ。どういうモノなんだ?」
「お化けをはらってくれるんだって」
「あー。お守りってワケか。オレはパス」
「こーくんの分はございません!」
ツナギちゃんは私の言葉を、口の中で転がした。お守り、お守り、と呟いて――見たことのない、透明な笑顔を咲かせる。
「ありがとう、つぐみ。はははっ、なんだか、貰ってばっかりだ」
「良いえんぎで、返してくれたら良いよ?」
「言ったな。吠え面掻かせてあげるから、覚悟しておいてよね?」
「ふふん、もちろん!」
ツナギちゃんは鈴を胸に抱いて、それから、少し迷ってからポケットにしまい込んだ。
「あとで、チョーカーにつけるよ」
「うん!」
それで安心したのか、ツナギちゃんは大きくあくびをする。というか、虹君もかなり眠そうだ。
「……虹」
「なんだよ」
「つぐみとのキスを思い出せば、目が覚めるんじゃない?」
キスって……いや、うん、栞越しでキスって言うのかなぁ。いや、そう見えることも計算してやったことには間違いないのだけれど。
まさか虹君も、そんなこと気にしたりしないだろう。そう思って虹君を見上げると――虹君は、耳まで真っ赤に染まっていた。
「へ?」
「あっ、なっ、ツナギ、おまっ」
「あれあれ~? 虹、顔が真っ赤だよ?」
「っっっっっ! 寝る!」
虹君はツナギちゃんの言葉に叩きつけるようにそう言うと、肩を怒らせて船内へ戻っていった。ツナギちゃんはそんな虹君を見て、ずいぶんと楽しげだ。
「あはははっ……ふわ……んんっ。じゃ、つぐみ、私も仮眠とるね」
「あ、うん」
「つぐみはどうする?」
「わたしも、もうちょっとしたら戻るね」
「ん。じゃ、風邪引かないように――って、引かないのか。あはは」
ツナギちゃんもまた、そう言って船内に戻る。なんとなく二人のそんな姿を見送ると――うん。こう、うん。少し混乱から回復してきた。あんなに真っ赤にならなくても。意識、しないようにしてたのかなぁ。
「おや、一人かな?」
「あ? は、はい」
そうやって物思いに耽っていると、不意に、くたびれたコートが視界に入る。
件の事件で周辺警護をしてくださっている刑事、鵜垣さんだ。
「――あの子のことが、気になるのかな?」
「え?」
「ツナギちゃんさ」
鵜垣さんはそう、穏やかに告げた。
「こういう仕事をしているとね、色んな人を見て、感じることがあるんだ。だから、なんとなく、抱えているモノが見えてしまうことがある」
「そう、なんですね」
そっか、警察官だもんね。加害者も被害者も、その家族も、色んな人たちを見てきたのだろう。鵜垣さんはとくに、“たたき上げのベテラン”っという感じのお巡りさんだ。きっと、向き合ってきた人間も相応だろう。
「ああいう目をする子は、大きな後悔と別れと、孤独を感じてきた人間だ」
「こどく……」
「ああ、そうだね。だから、君のように優しい子が側に居てあげることが、彼女にとって救いになる――なんて、そんな気がしてね」
孤独、孤独、か。
うん。なんとなく、わかる。
「そして、きっと、抱えきれないような秘密に胸を蝕まれている」
「ひみつ?」
「ああ、そうさ。嘘、と言ってもいい。おじさんは、嘘を見破るのも得意でね。難儀なものさ。そう、だから、君が側に居ればきっと、その秘密を打ち明けてくれる――かも、知れないね」
ツナギちゃん。
謎の多い少女。
ツナギちゃんに何があって、どうして、あんなに寂しそうな顔をするのか。もし話してくれるのであれば、それで、ツナギちゃんがいつもあんな風に笑えるようになってくれるのであれば――私も、嬉しい。
「……長話をしてしまったね」
「あ、いえ。ありがとうございました!」
「はは。何もしてはいないさ。君も、身体を冷やす前に戻るんだよ」
「はい!」
そういって、鵜垣さんはひらひらと手を振って船内に戻っていった。その姿をなんとなく眺めていると、少しだけ、私にも眠気が湧き上がる。
「ふわ、ぁ……ん。わたしも寝よう……」
最後に、一度だけ神津島を振り返る。日が落ち始め、月が昇ろうとする中、大きな島の輪郭は静かに移ろいでいった。ただ、なんとなく――この島の撮影、この島で過ごした、短くても色濃い日常を忘れてはならないと、漠然と、そんな風に思った。
――/――
もとは上品であったであろう、手入れのされていない調度品に囲まれた部屋。くすんだ髪色の男が、狂気を宿した目を虚ろに輝かせながら、ワイングラスを傾ける。
「どうだった?」
男はそう、ワインを口に運びながら、目の前でノートパソコンを操作する総白髪の男――辻口に、主語のない言葉を投げかけた。
「順調です」
「そうかそうか、さすがだよ」
「このままいけば、“例の”出演権の獲得も視野に入ります」
辻口はそう、無感動に言葉を綴る。感嘆も、驚愕も、興奮も、憤怒も、歓喜も――憎悪すらもなく。
対して、くすんだ髪の男は、そんな辻口の無感動さに思うところはないようで、ひたすら、酔えもしない酒を飲んで己に酔いしれる。彼に根ざした狂気は深く、なによりも薄暗い。周囲など、見えなくなるほどに。
「ああ、そうそう、例の対抗馬。彼女はどうだ?」
「対抗馬……ああ、空星つぐみですね」
「ああ、そうだ。その空星なにがしだ」
初めて、辻口は表情を動かす。片眉を上げ、また、無表情に戻すような些細なモノだ。
「取るに足らない、という印象です」
「ほう。まぁ、そうだろうね。名前が同じだけのまがい物ではその程度か」
「……では、僕は次の仕事に移ります」
「ああ、引き留めて悪かったね。くくくっ、ああ、待ち遠しいなぁ」
悦に浸る男を残し、辻口は男の元を去る。振り返る、などという無駄なことはしない。徹底した効率主義。その機械じみた行動が、辻口の感情を呑み込んでしまっているかのようだった。
辻口は杖をつき、扉を出て、停めてあった車に乗り込んだ。障碍者用の車で、手元でアクセル操作などができるものだ。
辻口はいつものように、与えられた情報から次の仕事を探し、仕事に対する積み上げられた嗅覚で相応しい舞台を探し、探し、探し――不意に、指を止めた。
『例の対抗馬。彼女はどうだ?』
脳裏に蘇るのは、先ほどまでのやりとりだ。男の言葉に、辻口は確かに一度考慮した。それは彼の未来予測じみた分析能力と、長年培ったマネージャーとしての直感が導き出した一つの答えだ。
(彼女は無視できない才能の持ち主だ。確実に脅威になることは間違いない。今のうちに排除しておくべきだ――そう、報告をするはず、だったのに)
辻口は確かに、あのとき、そう告げようとした。だというのに実際に言葉になったのは、「取るに足らない」などという侮るような言葉だ。
そんなことを言うつもりはなかったのに。そう、辻口は額を抑えて唸る。己の内に渦巻く感情を、殺し尽くすように。
(あのときの、空星つぐみの演技が脳裏から離れない)
死の間際。
遺言のような言葉。
青白い肌は、まるで、命の輝きを取りこぼしてしまったようで。
昏睡から目が覚めたとき、死に顔すら見ることができなかった辻口にとって、同じ名前を持つつぐみの、どこか懐かしい演技は、コールタールのように辻口の脳裏にこびりついた。
(桐王さん、あなたは、僕に何を伝えたかったのですか)
辻口は苦悩する。
出口のない迷路に迷い込んでしまったかのように。
「桐王さん――鶫さん、僕は……」
痛みを堪えるように歪めた顔で、ただ溺れるように、そう言葉を零した。
――Let's Move on to the Next Theater――




