scene3
――3――
船に乗るならデッキで風を感じたい。そんな気持ちは山々だけれど、その前に部屋で荷物整理だ。小春さんと同部屋で大きなベッドが二つある。あっという間に小春さんが準備を終えてしまったので、私はみんながまだ荷物整理にバタバタしている間に、プレイヤーを再生してみることにした。
そう、今回のお仕事はミュージックビデオの撮影だ。今人気を博している女性シンガーソングライター“るい”が今回の依頼人兼プロデューサーらしい。彼女は今、先に目的地である伊豆諸島・神津島でロケーションの確認をしているのだとか。とてもストイックな方なんだろうなぁ。期待に応えられるよう、頑張ろう。
さて、では早速音楽を再生……再生……えっと、え、あれ?
「こはるさん……つかい方がわかりません……」
「大変失礼いたしました。ここを、こう、こうですね」
「ありがとうございます! おみぐるしいところを見せました……」
「いえ。眼福でした」
「へ? ――と、はじまった。すごい。こんなに小さいのに」
ちょっと妙なことを言われた気がしたけれど、音楽が始まってしまったのでそちらに集中する。イメージを私に刻み込むまで繰り返し聞くつもりではあるけれど、一番最初に受けた印象も大事にしておきたいからね。
小さなプレイヤーの液晶画面に映るのは、曲のタイトルだろうか。『testatrix』――テスタトリックス、って読むのかな。どういう意味だろう。あとで小春さんに聞いてみよう。
そんな考えをとりあえず一時停止。今はただ、この音楽に耳を傾ける。心に響き渡るように、そっと目を閉じて。
『鈍色の夢を片手に故郷を飛び出した
黄金に彩られた稲穂の海を背にして
情熱をかき鳴らせば夢に届くと信じていた
きらめく水面に大きな夢を託して
ただ走り抜けた日々だった
ただ信じ続けた毎日だった
あの日の夢見た光景に届くと信じていた
テスタトリックス 手を取って 君と語り合いたい
ぼくは微睡みの中でいつも情熱を掲げ続けた
ぼくは笑う君の傍らでいつも夢を叫び続けた
それがただ一つ夢を叶える道なのだと信じ続けた
赤色の花を傍らに一人佇む君を見つけた
真っ黒な髪を梳く白い手に目を奪われて
情愛に彩られた音でも君に届けと願った
すくいとった雫に映る笑みを夢見て
ただ語りかける日々だった
ただ君を想う毎日だった
あの日に見つけた君の笑顔に届くと願っていた
テスタトリックス 手に取って 君の夢を語って欲しい
ぼくは君の側でいつも情炎をくべ続けた
ぼくは君の笑顔にいつも愛を捧げ続けた
それがただ一つ愛を結ぶ道なのだと信じ続けた
(吐息 泪 口紅
雲の中を泳ぐ 一羽の鶴 月の影 千夜一夜)
ぼくの愛は君を救いましたか?
ぼくの音楽は君に巣くう闇を払えましたか?
もしもまだぼくの声が届くのならどうか どうか
どうか
テスタトリックス 手を離して 君に ぼくは
ぼくの音はもう君には届かない
ぼくの愛はもう君に伝えられない
それでもぼくは君に情熱を捧げ続けよう
どうか
テスタトリックス 手を振って 君との日々を語ろう
あの日見た赤色の花が
ぼくの夢で咲いた笑顔に届きますように 』
聞き終えて、一息。
夢と、出会いと、別れの歌……なのかな。なんだか少し、自分のことに重ねてしまう。夢を片手に渦中に飛び込んで、ぶつかって、笑って、泣いて、怒って、喜んで。なんでも全力で生きてきた。それで、全部に手が届くって、きっと心のどこかで信じていた。
でも、やっぱりそれは傲慢で、私が走り抜けていった先で、私の思いを全部伝えられたりはしなかったし、誰かを傷つけていたりもした。私の死で傷つけてしまった桜架さんや、それから、あの日――あの日、傷つけてしまった彼。
『俺は、君のことが好きだ。君のことを――愛しているんだ』
彼は今、どうしているのだろうか? 不意にそんな感情が、胸の奥からこぼれ落ちた。
私は――私は彼を許さなかった。もし、許す機会のなかった私以外の誰かが、彼を許してくれていたら……なんて、何もできない私に、考える資格はない。
「ふぅ……」
イヤホンを外して、荒れ狂う感情を押し閉じ込めるように胸に手を当てる。苦い思い出であったとしても、それすらもきっと、演技の幅を押し広げる。わたしを磨く研磨剤だ。感情を支配しろ、空星つぐみ。大丈夫、私ならできる。
深呼吸。歌詞の中の“ぼく”は、夢を抱いて駆け抜けたのだろう。その最中で大事な人に出会って、きっと、思いは彼と彼女を繋げなかった。きっと、素敵な人だったのだろう。きっと――うん。
「こはるさん、ちょっとデッキに出てきます」
「はい。では。影ながら見守っておりますので、心置きなくご観覧ください」
「いっしょにいっても良いんだよ?」
「いえ、ご友人方とのご歓談に水を差すわけにも参りません。尊い」
「とうと……? うん、わかった」
なんだか小春さんは小春さんで満足そうなので、頷いておくことにする。現在時刻は九時。到着まで三時間半もあるのだし、ゆっくりできることだろう。部屋を出て、パンフレットを片手にデッキを目指すことにする。音楽プレイヤーも、もちろん一緒に。
私の部屋は最上階の六階で、真向かいの同じタイプの部屋と隣の部屋がそれぞれ虹君とツナギちゃんの部屋だ。声をかけようかと思って、少し躊躇った。虹君は良いけれど、ツナギちゃんは、どうしよう。大人びていてもまだ子供だし、マネージャーさんと同じ部屋だよね。……辻口さんと、私はちゃんと会話ができるのだろうか。
(今回の撮影の最中、機会はいくらでもあるだろう。後回しにしても、チャンスはある)
そうだ、きっとあとでもチャンスはある。だから、今でも同じだ。後回しにするなんて、逃げの道を辿る私ではない。
「ツーナーギーちゃん、いるー?」
こんこんこん、とノックを三回。すると、直ぐに扉が開けられる。出てきたのは、案の定、辻口さんだった。
「君は――」
「そらほしつぐみ、五さいです! よろしくおねがいします!」
「ああ、聞いています。ツナギのマネージャー、辻口諭です。本日はよろしくお願いいたします」
変わってないなぁ。子供にも、ものすごく丁寧だ。普段は私のことも“桐王さん”、だなんて堅く呼ぶのだ。その癖、驚かせると“鶫さん、勘弁してください!”だなんて。そう、辻口さんが一人で押し悩んでいたりしたら、驚かせてあげるのが一番だった。そのときはお仕事上での相棒ではなく、年の近い友人同士の――“鶫さん”と“諭君”だったのだから。
「ツナギにご用でしょうか?」
「はい! いっしょに、デッキにどうかなって思ったんです」
「……ということですが、どういたしますか?」
辻口さんがそう言って振り返ると、ちょうど、支度を終えたツナギちゃんが立っていた。
「良い気晴らしになりそうだから、良いよ。行く」
ツナギちゃんはそう言うと、少しだけあくびをして、目元に溜まった涙を拭った。あれ、でも、目元で拭ったはずなのに、襟元に少しだけ、濡れたあとがある。ちょうど、そう、涙の流れるような位置に。
まぁでも、聞くのは野暮だよね。第一、見られたくないから辻口さんの後ろにいたんだろうし。そもそも私のスペックじゃないと気がつかない程度だし。
でも、うん、これくらいなら。
「よしよし」
「ちょっと、なに? 私は犬じゃないんだけど」
「ふふ、なんでもないよー」
「はぁ?」
少しだけ背を伸ばして頭を撫でると、ツナギちゃんは目を細めて享受してくれた。口では不満そうだけれど、はねのけたりはしない。
「じゃ、いこ」
「ん? そっちはデッキじゃないわよ?」
「こーくんも、さそわなきゃ」
「……そっか、うん、そうだね。ええ、そうしましょう」
虹君の部屋をノックする。すると直ぐに扉が開いて、虹君のマネージャーの黄金さんが出てきた。黄金さんは人好きのする笑顔で私たちの訪問を歓迎してくれる。
「おお、こんなに可愛らしい女の子たちが訪ねてきてくれるなんて、虹も隅に置けないなぁ。ほらほら、虹、出迎えてあげないと!」
「黄金さん、声がデカい。ま、いいけど。何の用だ?」
黄金さんの後ろからひょっこりと、虹君が出てくる。虹君は私たちを一瞥すると、黄金さんに視線を戻して、大きくため息をついた。けっこう気安い仲なんだろうなぁ。
「デッキ、いこ?」
「あー。わかった、いいぞ」
「ほら、虹、財布! 女の子に出させちゃダメだぞ?」
「お袋か! おいちび共、さっさと行くぞ!」
私たちの間を抜けて、むしろ一人で突き進む虹君。その様子がなんだかおかしくて、ツナギちゃんと顔を合わせて吹き出してしまった。ツナギちゃんは直ぐに我に返って澄ました顔でそっぽを向いてしまったけれど……うん、ちょっと遅いかなぁ。
「あ、そういえば。ツナギちゃん、この曲のタイトルのいみ、わかる?」
「え? あ、そういえば確認してなかったかな。虹!」
私たちの会話が耳に入ったのだろう。一個下の階のデッキに向かう途中、数段下の踊り場に居た虹君が振り返った。
「遺言者」
「へ?」
「女性の、遺言を遺した人を指すんだとさ」
遺言者、か。そっか。
じゃあやっぱり、“ぼく”が思いを寄せた女性には――もう、逢えなくなってしまったんだね。歌詞を聴いたときになんとなく、そういうことなんだろうなぁ、と思っていた。だから少しだけ周囲を窺う余裕があって。
(ツナギちゃん……?)
僅かに目を見張り、辛そうに顔をゆがめ、なんでもなかったように戻す。視線を前に戻していた虹君にも気がつかせない、ほんの刹那の間に行われた感情の遷移。初めて、ツナギちゃんの傷痕に触れたような――そんな、気がした。




