ending
――ending――
『これで勝ったと思うなよ』
脳裏に響くように反芻する声。虹君が部屋から出るとき、振り向いて扉の隙間から覗いた目は、恥ずかしげに充血していた。口早に告げられた言葉を思い出すと、思わず、喉からくつくつと声が漏れる。
なんとなく気まずくなって解散したおかげで、バリバリの凄惨な復讐シーン盛りだくさんの“悪果の淵”鑑賞会はうやむやになった。正直僥倖ではあったけれど、あんなことになるとは思わなかったなぁ。
「今日は、とても楽しいことがあったのですか?」
「こはるさん……うん、そうなんだ」
家に続く帰り道。茜色の空は西に落ちて、空は東から徐々に瑠璃色に染まっていく。思い出し笑いで口元を押さえる私に、小春さんは、穏やかな笑みを浮かべていた。なんだか、小春さんの中でも一区切りついたようで、嬉しい。
「そうでございましたか。もしよろしければ、この小春にも、なにがあったのかお聞かせ願えませんか?」
「うん、いいよ、あのね――」
あ、でも、どう言おうかな。ふふ、少しだけ、いたずら心が鎌首を垂れる。
「――はじめて、おとこの子にこくはくされちゃった」
「そうでございましたか。それはようございま、し……た」
「こはるさん?」
てっきり驚いてくれると思ったのだけれど?
そう思って小春さんを見ると、彼女は彫像のように固まっていた。
「こ、ここここ、こここここここここここ、こここここここここ」
「わー! えんぎ! えんぎの中でです!!!!」
「ハッ――つぐみ様が殿方の手に渡ってしまう悪夢を見てしまいました」
「そ、そっかぁ、あ、あははは……はぁ」
小春さんに、この手の話題は振らない方が良さそうだね。小刻みに震えていた小春さんが、私の言葉で再起動する。父と母に告げたらどうなっちゃうんだろう。母はたぶん笑って受け入れてくれるけれど、父はどうかな? ちょっとだけ、見てみたいかも。
「しかし、演技の中とは言え、つぐみ様に告白できるとは、その方も幸福ですね」
「ふふ、そうかな? 幸福だったのは、私の方かも」
「それは、えっと、幻聴……?」
「ふふふふ、どうだろうね?」
虹君は、利発で演技の巧い、整った顔立ちの少年だ。それはもう女の子に人気があることだろう。そんな少年に演技の上とはいえ告白されるのは、むずがゆい気持ちもある。
十三歳の少年だ。前世から見ても今生から見ても差が大きい。今生はたった八歳差といえばそうだけれど、うん、私が十五歳のとき、虹君は二十三歳か。一緒に高校生はどんなにひっくり返ってもできないと思うと、心の奥が、少しだけ凍えた。
「こはるさんの、はつこいって、いつなんですか?」
「……三歳の頃ですね。ほとんど覚えておりませんが、公園で泣いていたときに飴をくれた、とても綺麗な方でした」
「そうなんだ。ステキですね」
「はい。もっとも、どこの誰かもわからないのですが」
「いつか、あえると良いですね」
「はい……そうですね、いつか」
車窓から見える空は、そろそろ、黒に覆われようとしていた。そういえば虹君の髪も目も、とても鮮やかな黒だったことを思い出す。街灯や街明かりで照らされたこの夜空よりも、ずっとずっと深い黒だ。
そういえば、鶫も黒だったし、閏宇も黒だった。前世を振り返れば、黒じゃないのなんて、夜空の星のようだった玲貴くらいだった。そう思うと、黒色が優しくて暖かい色なように思える。
(それにしても、不思議だなぁ)
思い返すのは、真剣に私を見つめてくれた、一対の黒。
(演技の上のことなのに)
強く、抱きしめられた肩。
『ありのままのつぐみが、幸せなら、それでいい』
『無理に大人にならなくて良いんだ。オレたちはまだ子供なんだぜ? 大人になるまであと五年もあるんだ』
『焦らなくたって良いんだ。きっと、世界は、オレたちが思っているより優しいから』
告げられた言葉の優しさに、胸の奥がじんわりと暖かくなっていく。
即興劇は内面も出やすい。当初は狂気的な着地にするつもりだったのに、あまりにも虹君の言葉が真剣で力強く、真に迫っていたから、いつの間にか引っ張られてしまっていた。
(今回は、わたしの負けだよ、虹君)
次は、負けないからね。そう夜空に誓うと、帳の中で星が瞬いた。
――後日・日ノ本テレビ局内――
狂気に彩られていた瞳が、つぐみを覆っていた闇が、ほんの一部だがはじけ飛ぶ。その様子をまじまじと見つめていた凛は、大きな安心と、一つの気持ちを抱えていた。
局内で行う皆内蘭との撮影。休憩時間に控え室に戻る途中、凛は、マネージャーが仕事の電話を取るために少し離れたので階段に腰掛けため息をついていた。なんの話をしているのか、兄のマネージャーの実の妹である彼女は、曲がり角の裏で影だけ伸ばしていた。
(兄は、すごい。でも、わたしは)
つぐみの力になりたい。自分は、なにもできない。その事実が、凛の心を蝕んでいく。毎日が物心つく前からの友達と家族だけで構築されていた凛の、初めて感じる無力感。
珠里阿と美海の悩みにも、親友の変化になにもできなかった少女が感じる、己への苛立ちだった。
(わたしは、どうやったら、兄みたいにつぐみをたすけられるのかな?)
目線に掲げる手は、弱く小さい。これでは兄のように、つぐみを抱きしめることもできない。凛は、自分の手が小さいことに、初めて怒りを覚えた。けれどそれも直ぐに、むなしくなって霧散する。
「はぁ」
「そんなにため息をついて、どうしたの?」
「はぇ?」
不意に、凛の真横に誰かが座る。目に飛び込んできたのは、落ち着いた淡いグレーのワイドパンツと、緑のカーディガン。それから、編み込まれて肩口から垂らされた、黒く艶やかな髪。
さらに視線を上げたところに飛び込んできたのは、日本人形のように整った“和”の美人。凛は、よく見かけるその顔に、思わずぽかんと口を開けた。
「きりたに、おうか、さん」
「ふふ、桜架さん、で良いのよ? あなたは――そう、凛ちゃんよね」
「え、は、あ、え?」
「『妖精の匣』で見たの。疑問は晴れた?」
「は、はい」
僅か三十にして“稀代の大女優”と謳われた生ける伝説。出演するだけで駄作も名作に塗り替えるとまで謂われた雲の上の役者が、凛と並んで階段に座り込み、微笑んでいた。
「なんで、ここに、いるのでしょうか?」
「今日は姪に会いに来たのよ。そうしたら、貴女が座り込んでため息を零していたモノだから」
「あっ、ご、ごめんなさい」
「ふふ、気にしないで。子供の道しるべになることは、大人の義務ですもの」
桜架は口元に手を当てて上品に微笑むと、凛を安心させるように、柔らかく告げる。
雰囲気、話し方、仕草。そのすべてが、洗練された真っ白の“光”にしか見えず、凛は困惑する。まるで、太陽の光に直面しているかのようだった。
「それで、お姉さんに聞かせてくれる? 力に、なれるかもしれないわ」
胸の奥に優しく響く声。本当に、この人ならばなんとかしてくれるのではないかと、そう思わせられるような、力強さ。
だから。
「えんぎ、で、ともだちの力になりたい、んです」
「あなたの演技は、とても上手に見えるわ。――それでは、足りないのね?」
「うん……。じょうずにできるようになるまで、ホンキでやると、へたになるから、ギジュツをちゃんと身につけろって、父が言ってたから、わたし――」
凛の言葉を、桜架はうんうんと頷いて、真剣に聞いていた。子供だからと馬鹿にせず、侮らず、まるで対等な人間として、ただの先輩として、言葉を聞いてくれているかのように。
「なら、どう下手になるのか、まずはお姉さんが見てあげる。それから、どこがダメでどうすれば良くなるのか、アドバイスをしましょう。それでどうかな?」
「っうん! ありがとう、ございます。よろしくおねがいします!」
「ふふ。お礼は、解決してからで良いよ。さ、始めてみよう。好きなテーマで良いけれど……どうする?」
「えっと、あ、そうだ、かたおもい中のおんなの子、で」
凛は逡巡の末、そう答える。すると桜架はやはり優しげに微笑み、凛を正面に立たせた。
「役に入るのに、準備は必要?」
「? は、はい」
準備が不要な人間など、いるのだろうか? そう疑問に思いながらも、何よりも己の親友がそうであったことを思い出し、疑問を捨てる。
それから、そう――この人なら大丈夫そうだ、だから、と、父に禁止されていた、演技を解放するために、目を閉じた。
「さんぷるろーど……どくせん・しっと・すれちがい・きょうき・おもい・あい――」
目を開ける。
溢れたデータを、呑み込むように。
「――いんぷっと・すたーとあっぷ」
最後の自己暗示が、凛の脳裏で、鎖となって凛自身に巻き付いた。
「どうして、あの人は私に振り向いてくれないの? 私のものにならないのなら――」
――パチン、と、音が聞こえる。
「あ、あれ?」
「目が覚めた?」
「あ、えっと、はい」
凛はそう、桜架の言葉に頷く。それからきょろきょろと周囲を見回し、直ぐに、自分がまたやってしまったのだと気がついた。
記憶が飛ぶ、ということは、フィードバックができないということだ。凛はやはり、この人でもどうにもならなかったのか、と、気落ちする。
「ふふ、言いたいことがわかったわ。確かに制御できない内は難しいわね」
「そう、ですよね」
「でも、もう大丈夫よ」
「え?」
桜架の言葉が理解できず、凛は、思わず首をかしげた。
「深い自己暗示によって己の内面のすべてまで塗り替える、深層心理のメソッド。僭越ながら、その自己暗示の最中に手を加えておいたわ」
一瞬、桜架の笑みが深くなる。その意味に気がつけず、凛はただ首をかしげた。
「あの、それは?」
「演技の終わりの合図を、自己暗示の段階で設定すれば、それに従って目が覚めるの。撮影中なら、カチンコの音を設定すれば良いわ」
そして、そうやって続く言葉で、その疑問さえ吹き飛んでしまった。
「っそんな、ことが」
「ふふ、だから、大切な場面では、使って慣れなさいな。とはいえ不安でしょうから、何度か一緒に試す時間を設けましょう。実践で使うのはそのあとね」
「っはい!」
「そろそろ行かなきゃ。じゃ、またね、凛ちゃん」
「ありがとうございましたっ!!」
勢いよく頭を下げる凛に、手を振ってわかれる桜架。すれ違うように戻ってきたマネージャーは、桜架の姿に驚きながら頭を下げていた。
「すごいわねぇ、霧谷桜架よ! びっくりしちゃったぁ。あ、遅くなってごめんね!」
「いや、ぐっじょぶ」
「へ?」
凛はその後ろ姿を心に秘め、高鳴る胸に手を当てる。
これで、つぐみと対等に並び立つ可能性が増えた。自分などはきっと、つぐみにはまだまだ及ばないだろう。それでも努力を続ければ――桜架と触れ合えたのは、そう思わせるには十分なほど、強烈な時間だったのだ。
「さ、とっくんだー!」
「お、おー?」
凛は拳を振り上げ、走り出す。マネージャーが慌ててその背を追いかけに走り出すまで、そう、時間はかからなかった。
「ああ、もしもし、蘭?」
『――』
「ふふ、ごめんなさい。ああ、それと」
『――』
「ええ。私も、見つけたわ。あのひとの再来の器を、ね」
『――』
「そう。だから、競わせてみましょう。あなたが見つけた少女と私が見つけた少女――」
「――どちらが、桐王鶫の後継にふさわしいのか、ね」
――Let's Move on to the Next Theater――




