scene5
――5――
校舎を走る。走って、走って、足がもつれて転んだ。
「わたし、なにをやってるんだろう」
胸が痛い。どうして、こんなことになっちゃったのかな。知らず知らずのうちに美海ちゃんを傷つけて、のうのうと笑いかけていたら、いくら美海ちゃんだって嫌になるよね。
ずっとずっと家の中に居て、ある日、記憶が増えてできることが増えたから、外に出られるようになって。それで、初めての友達を得た。
のんびりやでマイペースな凛ちゃん。
明るくて家庭的な珠里阿ちゃん。
優しくてふわふわの美海ちゃん。
みんな、大事な友達だ。わたしにとって、初めての友達だ。それなのに、わたしが傷つけた。
(なにが悪いのかわからないのに謝るなんて、失礼だよね)
もう一度、拒絶されたらどうしよう。そんな風に考えると、怖くて足が震える。鶫ならどうしたんだろう。友達と喧嘩することだってあった。そんなとき、鶫はぶつかって、悩み合って、許し合っていた。
だったら、わたしも、そんな風になれるかな。――立ち止まっていても、なにも解決しないんだ。進まなければ、今から何も変わらない。そうやってみんな生きてきた。生き抜いてきた。だから、わたしも、せめて進もう。
「よしっ。とりあえず、行くだけ行って、あとはそれから――」
「ああ、見つけた」
「――はい?」
声。振り向いて、姿を確認する。
「スタッフさん……?」
声の主は、私たちに移動を伝えてきた、女性スタッフだった。
「どなたかお探しですか?」
帽子を目深に被っていて、目元が見えない。
「あの、ゆうがおみみちゃん、を」
「ああ、でしたら私が見かけました。さ、一緒に行きましょう」
差し出された手。薄く微笑まれた口元。ほうれい線をメイクで消して、作業着の間から肌が見える。サイズが合っていない? それに、厚い軍手。
「――あなたは、だれ?」
手が止まる。表情は変わらず、ただ、垣間見えた瞳が――コールタールのように泥々と濁っていた。
「スタッフですよ。普通の、スタッフです」
「ADさん? なら、ほじゅうのあった、みむらDの?」
「ええ、そうで――」
踵を返して走り出す。三村、なんてディレクターさんはいない。全員覚えているから間違いない。いや、それよりも、この人をどこで見たのか、思い出した。あの日の、わたしの運命が変わったオーディション会場。そこで、子供をオーディションに連れてきていた親御さんの一人だ。
さすがに、名前まではわからない。確認していないから。でも、瞳まで見えたら、判別はできる。
「――チッ、待てッ!」
どこに逃げる? 直線はダメ。美海ちゃんとぶつかってしまうかもしれない。あえて曲がって、階段のあるスペースを目指す。
走って。
走って。
走って。
階段を駆け下りたら、もう、美海ちゃんと遭遇する心配は――
(あ、れ……?)
――視界が、ぐにゃりと歪む。魚眼レンズで覗いたみたいに、階段がぼやけて見える。足を下ろして進めば良いだけなのに、たった十三段の階段が、暗闇に続く洞穴のように、遠く恐ろしく見えた。
「そんな……うごけ、うごけ、うごけ!」
彫像のように動かなくなってしまった足。震える手。カタカタと鳴る音が、自分の歯がかみ合わない音だと気がついた。
「くふ、ふふふふ、追いついたわよ、ネズミさん?」
振り向けば、そこにはあの女性が立っていた。舐めるように見つめる目。そこに好意的な色は見られない。だから、いいや、だからこそ、気がついてしまう。
『ふふふふ、やぁっと二人になれましたねぇ』
『あの使用人、どこにいってもべったりで、二人の時間なんてありませんでしたもの』
記憶の奥底で、丁寧に、厳重に、堅く封印した何かが溢れる。
「なん、で」
「なんで? あら、わからないの? いいわ、教えてあげる」
二重に見える風景。過去の記憶が今に重なる、不快感。震える手で抱きしめたわたしの体は、氷のように冷たかった。胃の中を全部吐き出してしまいたい気持ちと、蹲って泣き出したい感情と、逃げてみんなにすがりつきたい欲求が、鎖みたいに絡みつく。
――やだ、やだ、やだ。こわい。なんで。わたしは、なにかわるいことをしたの? ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
「このドラマはねぇ、本当は私の娘が出演するはずだったのよ。ええ、間違いないわ。私の娘が失敗するはずないのですもの。それがなに? 蓋を開けてみれば誰も彼もコネで決まった小娘ばかり。女優の子供ならまだわかるわ。でも、あんたよ。あんたはなに? 誰の子供でもないくせに、なんであんたなんかが私の娘を差し置いて、オーディションに合格したの? 私は名子役を育てあげた親として有名になるはずだったのよ!!??」
激昂する女/微笑む女。
髪をかきむしり/髪を撫で。
手を振り上げて/体を触り。
怒鳴り散らし/わたしが欲しいと嘯く。
「でも――わかるわ。たまたま容姿に恵まれて、たまたま物覚えが良くて、たまたま親が金持ちで、ぜぇーんぶわがままが叶ってきたのよねぇ?」
『ああ、つぐみ様。お美しい。くふ、ふふ、ふふふ。ねぇ、どうしたらいい? どうしたら、私だけに微笑んでくれる? ねぇ、ねぇ、つぐみ様』
――こわい。きもちわるい。こわい、こわい、こわい。なんで? どうしてさわるの? どうしてたたくの? どうして、そんなふうに。
「だから一つ、教えてあげるわ。いい、よぉく聞きなさい」
『ああ、そうだ。そうよ。ふふふ、見つけた。見つけたわ』
――やだ、やだ、やだ、やだ、やだ。だれか、だれでもいい。だれか、たすけて。
「あんたなんか、居なければ良かったのよ!」
『ああ、そうだ。いっそ、私だけの世界に生きてくれたら』
記憶の蓋がぱきりと音を立て、あっさりと砕け散る。心の奥底から這い出てきたのは、ずっと封印していた、おぞましい思い出だった。
足が竦む。体が震える。やっと、わかった。あの日蘇った桐王鶫の記憶ではない。わたしの、空星つぐみの記憶が、わたしの足を縫い止めているんだ。
「あの子もそうでしょう? あなたの共演者の子供たちだって、あなたがいなくなればいいと思っているわ! そうでしょう? だって、あんたがいる限り、自分たちは凡人なんだから!!」
そう、なのかな。みんな、わたしが居ない方が良かったって、思ってるのかな? あの人は、ダディとマミィが選んで連れて来た家庭教師の女の人は、愛しているからわたしに死んで欲しいと言った。わたしが死ねば、あの人は幸福になれたのかな?
凛ちゃん、珠里阿ちゃん……美海ちゃん。喧嘩してしまった、大事な友達。でも、大切だと思っていたのは、わたしだけだったのかな。
もしも、ここで、この女の人に殺されることを選べば――みんな、喜んでくれるのかな。
「ひ、ひひひ、くふふふふ」
にじり寄る女の人。恐怖に凍り付いた思考を無理矢理動かすように、前を見る。その先で――ああ、だめ――影からこちらを見る、美海ちゃんの姿を見つけた。
助けを呼んでもらう? 気を引いてもらう? だめだ。それだと美海ちゃんが気がつかれてしまうかもしれない。傷ついてしまうかもしれない。
わたしの初めての友達を、傷つかせたくない。嫌われていたって、絶対に!
「(おねがい、とどいて――)――(に・げ・て)」
口の動きだけで伝えると、美海ちゃんは目を見開いた。震える手で口元を抑えて、俯く。うん、それでいい。そうやって、なるべく音を立てずに逃げて。そうしたら、この人はわたしだけを気にして、美海ちゃんの方にはいかないはずだから。
だから。
――身を乗り出す美海ちゃん。
なんで?
――まっすぐな瞳で。
どうして?
――大きく、息を吸い込んだ。
「だれか――っ!!!!!」
大きく張り上げた声は、わたしの心まで揺らすようだった。躊躇いなく走り寄り、女の人の足に飛びつく。わたしを、わたしなんかを、守るために。
「つぐみちゃんは、わたしのともだちなんだから! つぐみちゃんはすごくて、強くて、かっこよくて、かわいくて、やさしい、わたしのともだちなんだ!!!」
美海ちゃん。すごいのは美海ちゃんだ。こんなに怖いのに、声を上げてくれた。
美海ちゃん。強いのは美海ちゃんだ。こんなおぞましいのに、立ち向かってくれた。
美海ちゃん、美海ちゃん、美海ちゃん――格好良くて可愛くて誰よりも優しい、わたしの、ともだち。
「な、くそ、離せ!!」
「やだ!!」
「っ!?」
「はなしてなんか、やるもんかぁぁぁぁっ!!」
同じように、にげて、と伝えてくれる美海ちゃん。でも、ここで逃げたら、美海ちゃんはどうなる? 友達を失って逃げて、それになんの意味がある?
こわい。足が動かない。こわい。心臓が痛いほどに鼓動する。こわい。こわい。こわい。こわくて気持ちが悪くて、なにもできない。
だから。
女の人が足を振ると、美海ちゃんは尻餅をついて離される。でも、女の人はもう、わたしを見ない。激昂したまま、美海ちゃんに掴みかかろうとしている。
このままだと、美海ちゃんはきっと、あの女の人に絞め殺されてしまうのだろう。四肢を投げ出して、人形のように動かなくなってしまうのだろう。
だから。
おぞましい記憶が、わたしを縛って動かない。がんじがらめにわたしに纏わり付く記憶が、わたしの足を縫い止める。だから。
空星つぐみでは美海ちゃんを救えないのなら。
救えるわたしになればいい!!
「この小娘がァァァッ!!」
周囲の白い光の中に消える。自分の中に沈み込むように、暗がりの中を幻視した。
白と光。まばゆい世界。境界線の向こう側には、優しくて強い闇がある。
『――』
『――』
手を伸ばして、交わる境界線。
入れ替わるように、周囲の色が、反転した。
美海ちゃんに伸ばされる手。あの女が、美海ちゃんを傷つけようとしている。周囲がスローモーションに見えるのは、極限状態だからだろう。懐かしい。
壁の向こうから、青筋を立てて飛び出そうとしている小春さんが見えた。時間換算すればほんの僅かだったろうに、探し出して助けに来てくれるなんてありがたい。でも、だめだ。こういった手合いは大人の介入でどうにかしたって解決しない。きっとどこかで子供を傷つける。
唇に人差し指を押しつけて、ぱちんとウィンクをする。それだけで伝わってくれたのか、小春さんは目を見開いて足を止めてくれた。
「させない」
この入りなら、この角度かな。振り払うように突き出された女の手。この程度だったら避けられるけれど、あえて受け入れる。階段はたったの十三段。まるで押し出されたように体勢を変え、派手に見えるように転がり落ちた。
落ちる滑るなんてものは所詮、接地面積と角度がすべてだ。体のおなか側に対して背中側の強さは約三倍。肋骨は面積にかかる強い負荷では折れるけれど、体の芯をずらして滑るようにぶつかれば、衝撃を逃がすことができる。
「そ、そん、な」
「ひ、ひひ、やった、やってやった」
わかりやすい痙攣。美海ちゃんも怖がらせてしまうのだけは申し訳ないけれど、あとでちゃんとフォローしよう。
「い、いやぁあああああああああああああっ!!!!」
ああ、でも、悲鳴がちょっとだけ心地よく思えてしまうのは、ホラー女優の性だろうか。
「■■ァ」
「ぁ■■アア■ァ」
さて、それでは始めよう。
演目は“黄昏の少女霊 ~復讐の調べ~”。
腕を上げ、奇妙に動かす。そうすると人間はその奇妙な動きに釘付けになるので、その間に起き上がりやすいように膝を曲げ、体をひねっておく。そうすれば、こんな風に。
「え――?」
「縺オ縺」縺九?縺、?――!!」
体を跳ね上がらせてブリッジの姿勢になれる。ネックスプリングの要領だ。そのまま蜘蛛のように階段を駆け上がれるのは、このハイスペックボディのおかげだろうけれど。
上下反転した視界でも、相手の姿を見ることはできる。あえて少しだけ左右に揺れながら、動く四肢は大きく見せて、現実感を曖昧にする。
「つぐみちゃん……わたしが、つぐみちゃんをこうしたんだね。いいよ――たべて」
食べないよ!? いやでも、覚悟を決めて祈るように目をつむってくれたから、私は安心してターゲットを絞ることができる。
「ひ、ひぃ、ひぇぇぇっ」
さぁ、子供を傷つける悪党よ。刮目してみろ。これがホラー女優、桐王鶫の復活だ。
四肢を跳ね上げ体幹を絞るように持ち上げると、糸で引かれるような動作で体が跳ね上がる。がくん、と首を垂らしながら、私は女に飛びかかった。
「縺溘?縺ケ縺。繧??縺?◇繝シ?――!!」
「イギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?!?!!」
泡を吹きながらばたーんと倒れる女。これだけ怖がらせておけば、まぁ大丈夫だろう。
「ふっ、あはははははっ。これにこりたら、もう、わるいことはしないでね?」
まぁ、聞こえていないだろうけれど。
「……つぐみ様、お怪我はございませんか?」
「はい、だいじょうぶです。ごしんぱいをおかけしました」
「いいえ。ですが、肝が冷えました。あまり無茶はなさらないでください」
「うぁ、そうですね。ごめんなさい。でも、止まってくれてありがとうございます」
「次は助けます。良いですね?」
「はい」
小春さんはすごく心配そうに見てくれる。悪いことしちゃったなぁ。
――それから私は、振り向いて、美海ちゃんの前に座り込む。同じように座ったままの美海ちゃんの手を取った。
「みみちゃん」
「つぐみ、ちゃん?」
「こわがらせて、ごめんね」
目を見開き。
それから、目尻に涙を溜める美海ちゃん。
「わた、わたし、わたし、つぐみちゃんに、ひどいこと!」
「いいの。だってわたしがこわくなくなったのは、みみちゃんのおかげだから」
「わたしが、うぇ、ぁっ、わたしが、ぁぁぁっ、つぐみちゃんを、きずつけなかったら!!」
「だったらわたしも一緒だよ。わたしも、みみちゃんをきずつけた」
美海ちゃんが、私をかき抱くように抱きしめる。優しい子、強い子だ。
「でも、わたし、がぁ、ぐすっ、ぁぁぁぁぁっ」
「じゃ、仲直りしよう? わたしはみみちゃんがともだちでうれしい。みみちゃんの、ともだちでいたい」
「いい、の? ぐすっ。ひぅ、うぁぁぁっ」
「だめだって言われたら、泣いちゃうよ」
「わ、わたしも、わたしも! つぐみちゃんのともだちで、いたい!!!!」
しがみついて泣く美海ちゃんを、慰めるように抱きしめる。
連絡でも受けたのだろうか? 他のスタッフさんたちが駆け寄る喧噪を聞きながら、ただ、私は、美海ちゃんを抱きしめ続けた。
「うぇ、ひぅ、わ、ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
「ありがとう、みみちゃん――だいすきだよ」
ただ今だけは、このぬくもりを、胸の奥に伝えるように。




