scene5
――5――
幼い頃から利発な子だと褒められた。頭の回転も良く社交的で、将来は大物になる、なんて。
『さすが、早月ちゃんだ』
『早月ちゃんなら、きっと女優にだって』
子役の道に進もうと思ったのは、よく褒めてくれた両親からの薦めだった。初めてのオーディションであっさりと通ったものの、任された役は悪役。悪役だからと両親のすすめで、芸名はサラとした。ただせめて、幽霊の役は回避できたと思っていたのだけれど、安心できることではなかったのだと、思い知らされた。
デビュー作、“竜の墓”が大ヒットで終わると、私にはいくつもの役が舞い込んだ。そのすべてが悪役ではあったけれど、主人公のライバル格のような重要な役どころが多く、そのうち、色んな役ができると思い込んで喜んで仕事を受けた。
『なんて演技だ!』
『これは逸材ですね』
『素晴らしい!』
最初のうちはそれでも良かった。でも、いつからか、周囲の視線は悪意と好奇心に満ちはじめ、そのときにはもう、いろんなことが手遅れだった。事務所に頼み込んでも、悪役以外のオファーは獲得できない。イメージが悪い、悪役の印象を拭えない。もらうのは、そんな言葉ばかりだ。
やがて、周囲の視線と声は、私たち家族の関係にも亀裂をいれ始める。口げんかが絶えなくなり、夜通し怒声が響き、物が割れ始めると、母は私への暴力を警戒して――父と、別れた。
それからは、逃避の連続だった。旧姓に変え、サラという名を捨て、逃げて、逃げて、逃げて……逃げた果てにあっても、私はまだ、返り咲きたかった。あのひとと、ただ、私を対等に見てくれた彼女ともう一度だけ、肩を並べて演じたかった。
だから、“それ”が事故によって奪われたとき、私の希望は一度、失われてしまったのだ。
名前を変え、印象を変え、演じ方を変えると、周囲の評価も徐々に変わってきた。私はあの人とは違う。あの人のようにはなれない。あの人のことなんか、眼中にない。喉をかきむしるような強引な自問自答は、やがて私をいびつに形作り、その弱さを――あの人につけ込まれた。私の弱音を聞いて、いつものように目元を親指でぐいっと拭うと、私を守ると誓ってくれた。
でも、そんな彼も、最後には私を捨てた。生まれたばかりの珠里阿が初めて私を見て笑ったあの日に、私たちを捨てた。
誰にも頼れない。
誰も私を守らない。
誰も私を対等に扱ってくれない。
でも、それなら、珠里阿のことは誰が守るの?
だから、あの子だけは幸福になれるように、あの子だけは私のようにはならないように、あの子には、いつも笑顔でいられるような人生を、送らせてあげられるように――
「こないで!」
――降りしきる雨の中、最愛の娘が私を拒絶する。
「珠里阿……戻って、戻りなさい、珠里阿!」
私の声は、珠里阿には届かない。間違えるなと叫び続けて、自分がとっくに間違えていることに気がつかなかった私の言葉は、悪に成り下がった女の言葉は、きっと、良くあれと育てられた珠里阿には届かない。
なら、あの子は? 雨風を受けてなお、毅然と立つあの小さな少女の言葉なら、珠里阿に届くのだろうか?
「じゅりあちゃん。どうして? さつきさんだって、じゅりあちゃんにもどってきてほしいんだよ!?」
雨水に負けずまっすぐに通る声。まるで、小憎たらしいあの女や、彼女にも重なる姿だ。
「――だ」
「え?」
「おかあさんは、ともだちがわるい子になったら、きりすてろっていった」
息を呑む。
「ぁ、なら、わたしを?」
「ううん。ちがうよ。つぐみはいつだっていいやつだ」
ああ、まさか。
「なら、だれを」
やめて、おねがい。
「あたしは、わるい子なんだ。だから――あたしは、あたしをきりすてないと、おかあさんはあたしをみてくれないんだ!!」
罪を突きつけられる。
私の自分勝手な行いが、なによりも惨い罰となって、私を貫いた。
「ごめん、なさい。ごめんなさい、珠里阿。でも、いいの、もういいの!」
叫びが雨音にかき消されるように、珠里阿はつぐみちゃんを見たまま動かない。いいや、少しずつ動いているのだ。絶望の谷へと、一歩ずつ、下がっていた。邪魔なんてさせないというような、鋭い目で。
どうしたらいい? 走り出す? 驚いて、珠里阿が落ちるかもしれない。なら、刺激しないように叫ぶ? だめだ、見捨てられたと思われるかもしれない。
どうする?
どうする?
どうする?
どうする?
駆け巡る思考は、四十三年間を無様に生きてきた私の助けになってくれなかった。ただただ、無情にも、時間だけが過ぎていく。
こんなとき、あなただったら、どうするの? 教えてよ、鶫さんっ!!
「そっか」
――その声は、不思議と、雨音を通り抜けるように澄んで響いた。
友を案じる声とは違う。悪役の声とも違う。少年のような演技とも違う。なにもかも違うその姿はまるで、絶望に彩られた誰かが乗り移ったかのような。
「なら、じゅりあちゃんをとめられないわたしも、わるい子だ」
「つぐ、み?」
「だったら、わたしもきりすてられないと、じゅりあちゃんのともだちなんて、いえないよね」
「なに、いって……」
一歩。踏み出したように見せかけ、滑るように大きく進む。
一歩。まるで一歩の距離が短くなったかのような、不可思議な感覚。
「なら、いっしょにしのう? じゅりあちゃん」
背筋が凍るほどに冷たい声で、あの子は、優しくそう告げた。
――/――
降りしきる雨の中、へたり込む早月さんと、悲痛に叫ぶ珠里阿ちゃんの想いが交差する。なんとなく、早月さんの、あの日のサラちゃんが今日の早月さんになった訳と、珠里阿ちゃんへの思いがすれ違ったことがわかる。不器用なのだろう、とも。
けれど、それが珠里阿ちゃんを傷つけて良い理由にはならず、死んで生まれ変わった私が口を挟んで良い理由になるはずもない。
謝る言葉の届かない早月さん。
絶望に囚われて周りが見えない珠里阿ちゃん。
どうする? どうすれば、珠里阿ちゃんを止められる? 私に、なにができる?
いいや、違う。私が私のままで珠里阿ちゃんの心を動かすことができないのなら、珠里阿ちゃんの心を動かせる私になればいい。
……――さぁ、タイトルを決めよう。珠里阿ちゃんは優しい子だ。優しい珠里阿ちゃんの心につけ込んで、彼女の行動を追い込み巻き込む。私は珠里阿ちゃんが好きで好きで仕方のない、視野が狭くてずるい女の子。演目は決まった。タイトルは心中なんてどうだろう?
(カーテンコールよ、空星つぐみ。今一度、誰かの心を動かすために!)
呼吸を一つ。
準備はできた。
幕上げの時間だ!
「なら、いっしょにしのう? じゅりあちゃん」
――珠里阿ちゃんは、お母さんに責められて死のうとしている。珠里阿ちゃんのお母さんにも事情があって、本当は珠里阿ちゃんのことが好きなのだろう。でも、それって、私にとってはチャンスではないだろうか?
珠里阿ちゃんの周りには、美海ちゃんや凛ちゃんがいる。二人とも私なんかより付き合いが長くて、私よりもずっと仲が良い。
「一人でしぬのはさみしいもの。だったら、いっしょにしねば、さみしくないよ」
なら、もしもここで一緒に死ねば? 美海ちゃんも凛ちゃんも、珠里阿ちゃんにまとわりつくことはできない。私の、私だけの珠里阿ちゃんになる。
気取られないように近づいて、抱きしめて、それから一緒に空に飛ぶんだ。そうしたら二人は初めての痛みに包み込まれて、天使様のように空へ消えるの。ああ、なんて素晴らしいのでしょう。
「つぐみ、あたしは……」
「こわいの?」
「っ」
「なら」
なら、うーん、そうだなぁ。
珠里阿ちゃんは優しい。優しいからきっと。
「わたしがさきに、とぶね?」
私が先に死ねば、罪悪感で、追いかけてくれるよね?
「つぐみ? まって、なにを……」
珠里阿ちゃんを通り過ぎるような歩き方で、屋上から飛び出ようとする。ああ、なんて気持ちが良いのだろう。きっと、これで珠里阿ちゃんが死ねなくても、私はずぅっと珠里阿ちゃんの心の中で生き続けることができる。もしそうなったら、なんて満たされるのだろうか。
「……だめ、だめだよ、つぐみがしぬなんてだめだ!!」
私の手を掴んでくれる優しい優しい珠里阿ちゃんに、愛の口づけを、/いいや、違う、演技はここまで、シーンカットの呪文を自問自答の末に己に叩きつけ、つかみ返して引き寄せる。重心移動。立ち位置の転換。もう、逃がさない。
「つかまえたよ? じゅりあちゃん」
「え、あ、へ、あれ? なっ、どうし、えっ!?」
抵抗は許さない。体の芯を捉えて重心を落とすと、人間は意外と動けない。もがく珠里阿ちゃんは冷たい雨で体力が奪われていたことも合わさり、足掻けど動けなくなっていた。
そして、もう、逃げ出される心配もない。
「珠里阿ッ!!」
私が手を離すのと同時に、早月さんが珠里阿ちゃんに駆け寄る。速く走るためにヒールを脱ぎ捨てた早月さんは、雨に濡れるのもいとわず珠里阿ちゃんを抱きしめた。
「珠里阿、珠里阿、珠里阿!!」
「お、かあ、さん」
きつくかき抱かれた珠里阿ちゃんは、早月さんに引き寄せられるようにつま先立ちになる。でも、自分の手を早月さんのどこに回したら良いか、葛藤の末ここに来た珠里阿ちゃんにはわからないのだろう。
虚空を眺める視線が、惑うように泳ぐ。射止められた先に居た私は、ただ、珠里阿ちゃんに一言、「大丈夫だよ」と口を動かして伝えた。
「良かった、良かった。あなたが、無事で良かったッ!」
「おかあさん、ないてるの?」
珠里阿ちゃんは、早月さんの頬に手を這わせ、そっと涙を拭う。そうしてやっと自分も泣いていることに気がついたのだろう。自分の頬に手を当てて、首をかしげた。
「なんで、ないてるの?」
「あなたを、失うところだったから」
珠里阿ちゃんの表情は動かない。凍り付いたように、ただ惑う。
「なんで、あたしがいないと、なくの?」
「あなたを……ッ、愛して、いるからよ」
凍り付いた表情に、ひびが入る。
「でも、あたし、いい子じゃないよ?」
「関係ない。関係ないのッ! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「なん、で、あやまるの? っ、わ、わるいのは、あたし、なのに……っ」
やがてそのひびは大きくなり――
「だめだよ、おかあさん、あたし、わるい子なのに」
「あなたが、良い子でも悪い子でもいいの! お母さんにとってあなたは、たった一人の家族なの。ちゃんと見てあげなくてごめんなさい、傷つけてごめんなさい、だから、だからっ、死ぬなんて、いなくなるなんて言わないでよぉ……っっっ」
――流れた涙とともに壊れた。
「ぁ――……ごめ、ん、なさっ、ぁ、ごめんなさい、ぁぁっ、ごめんなさい、おかあさん、ごめんなさい! うわ、ぁっ、ぁぁぁっ、ぐす、ぇう、うぁああああああああああああああっ」
「ごめんね、珠里阿、ごめんね、ごめんね、うぁっ、ごめんね、私の愛しい、っ、珠里阿、ごめんなさい、っぅあ、ぁ、ごめんね……っ」
二人を見守る私に、傘が差し出される。マミィは、私にタオルを掛けると、微笑んで抱き上げた。
「さ、戻ってお説教よ、つぐみ」
「う。ご、ごめんなさい、マミィ」
「いいえ。危険なことをして心配したわ。けれどそれ以上に――よく頑張ったわね、つぐみ」
「……ありがとう、マミィ」
雨がやむ気配はない。けれどどうしてだろう。冷たかった雨はそこにはなく、まるで、わだかまりを洗い流すような救いの雨が、空から降り注いでいるように思えた。
「へくちっ」




