scene3
――3――
僕の提案に一時はざわめいた現場も、さすがと言うべきか、既に準備を整えている。つぐみから僕に告げられた要望はただ一つ。トッキーを一本、手に持っていてくれ、と、それだけだ。
食べないで演技をするつもりか? 確かに、つぐみが口にしなかったら意表はつける。でも、どうやってスポンサーや視聴者を納得させる? とくにスポンサーは、つぐみがトッキーを口にすることを求めているはずだ。
そこに、なにか作戦があるのか? 食べない、ということがキーワードなのか? 相変わらず、思いつくのが早い。そういえば、スタッフにも、なにか要求していたようだし。
「くく、楽しみだ」
いつも、いつも彼女は僕を驚かせてくれる。前回の撮影で、彼女を幼い子役の一人と考えるのは辞めた。彼女もまた、役者だ。半端なことはしないだろう。
「あの」
「ん? 姫芽ちゃん?」
そうして準備をしていると、不意に、姫芽ちゃんに声をかけられる。
「どうして、あんなことを?」
不安げに揺れる瞳。つぐみのことを心配しているのだろう。優しい子だな、とは、思う。
「よりよい作品のため」
「え?」
「あの方が、つぐみはきっととんでもないことをやらかしてくれる。そんな気がしたのさ」
僕の言葉に、姫芽ちゃんはきょとんと首を傾げる。普段、表に出している、柔らかいキャラクターの彼女とはまた違った一面。素に近い、とでもいうべきか。
「でも、彼女はまだ五歳ですよ?」
「そうだね。で? それが?」
「それが……って……」
彼女の目から見て、僕はひどく酷薄な人間に見えるだろう。僕だって自分を客観視すれば、「なんてひどい人間なんだ」と己自身のことなのに憤慨するかも知れない。
でも、だから、それで空星つぐみという役者から機会を奪うのは、他のどんなことよりも残酷な、彼女への侮辱だ。
「そうだね、まだ五歳だ。たったの五歳だ。子役にしても幼いし、何かを課すには華奢過ぎる。でも、それは彼女の経歴や外見から見た、空星つぐみというレッテルを読み上げているに過ぎない」
僕は、一人の役者として、共演者として接してきた。だからこそ、僕はあの溢れんばかりの才能を持つ少女を侮らないし、見くびらない。
大人として子供を助けるのは当たり前だ。演者として共演者と助け合うのは常識だ。役者としてライバルと競い合うのは当然だ。そのすべてが、どうして矛盾していると考える? どれも、共存できるはずだ。
「子供だとか、大人だとか、七光りだとか、そういったレッテルで人を測らない。それが、僕のやり方だよ。ポリシー、と言い換えても良い」
「レッテル……」
「そう。だから、姫芽ちゃん」
姫芽ちゃんの目を覗き込む。
不安と、それから何かに揺れる、彼女の瞳を見つめる。
「君も、見つけると良い――いや、違うね。この世界に立つ以上、見つけるべきだ。君自身の信念を。君の、覚悟を」
僕たちは役者だ。だからこそ、求められる以上の演技をし続けて、観るものの心を揺り動かし続ける必要がある。でなければ、所詮は演技か、作り物か、と、心が離れてしまう。
「いつだって、誰かの心を掴むのは、本気よりももっと深いところに潜んだ覚悟の声なんだ。レッテルを剥がした先にある本質だ」
「覚悟の、声」
「君も、さっきと同じように観てみると良い。君がエマ監督に何を言われたかは知らないけれど――エマ監督からつぐみに求めている役割があるのだとすれば、それだろうさ」
つぐみの演技。
彼女はきっと時代の転機だ。だからこそ、つぐみの演技に呑まれてやるわけにはいかない。
「さ、配置について。――始まるよ」
「は、はい」
どこか夢見心地な様子で、姫芽ちゃんは、ふらふらと席に戻った。きっと、彼女にも良い刺激になるだろう。『紗椰』の共演者として、演者の質が上がってくれるのに越したことはない。
そして同時に、今回の撮影と『紗椰』は、僕にとっても大きな刺激になることだろう。胸の奥で痺れるような予感が、自然と、手に汗を握らせるのだから。
(さぁ)
阿部Pの合図。
ADが掲げるカチンコ。
(魅せてくれ、つぐみ……!)
そして、カチンコの音が、静かに響いた。
(まずは……最初と変わらないかな)
スマートフォンを耳に当てる。相手はさっきと同じ。同じ大学の、片思い中の女性。そんなイメージで、僕は居もしない相手と会話をする。
状況設定は、先日のデート。といっても、彼女が自分の年の離れた弟の誕生日プレゼントに何を選んだら良いかわからず、同じゼミの僕に頼ってきた。たったそれだけのことなのに、浮かれて舞い上がってしまっている。そんなシチュエーションだ。
「――うん、それで?」
(『ありがとう、お姉ちゃん! って、喜んでくれたわ』)
「はは、そっか、気に入ってくれたんだ? 良かった」
(『でも、本当に良かったの? あんなに何時間も付き合わせちゃって』)
近づいてくる気配。廊下が軋む音には、気がついていないように振る舞う。舞い上がる僕には、その音の正体なんて見当も付かないはずだから。
……と、そうだ。トッキーはどうしようか。僕が食べてしまおうかな。でもそれだと、アングルが気になる。
(たしか、そう、つぐみがトッキーを食べるシーンはカメラのアングルが変わるはずだ)
さっきの映像チェックでも見たけれど、次の台詞辺りで、つぐみ中心のアングルから少し横にずれる。楽しそうに会話をする僕と、苦くトッキーを食べるつぐみ、という二人を遠近取りながら同時に撮影するためだ。
障子、廊下の配置は僕の右手側。スマートフォンも右。だから、角度として、左手にトッキーを一本持って、僕の左肩口からトッキーが見えるように、手持ち無沙汰に揺らしてみようか。
「いいよ――気に入ってくれたのなら、それで良いよ」
(『むむむ、なんかいつもと違うんだよなぁ』)
「なんだよ。ははは。本心だって。信じてよ」
(『ふふふ、いいよ、信じる』)
それから、トッキーを――。
「わたしにも、ちょうだい」
「は?」
――口に運ぶ前に、いつの間にか近づいていたつぐみが、僕の手に持っていたトッキーを奪い去る。スマートフォンでのやりとりに集中していた僕は反応が遅れて、つぐみの姿をちゃんと確認する前に奪い去られてしまった。
つぐみは、そのまま背中合わせに、僕の後ろに座り込む。僕に出来たのは、残り香のように流れ去った銀髪を、視界の隅に収めることだけだった。
「あ、おい」
(『どうしたの?』)
「いや、妹分が遊びに来て――」
(『そっか。それじゃあ、邪魔しちゃ悪いね。また学校で』)
「――ん、あ、ああ。また」
会話を切り上げて、スマートフォンを脇に置く。残念な気持ちと、緊張から解放されたことへの安堵。二つの感情に折り合いをつけながら、背中合わせの体温を感じとる。ぴたりとくっついてしまった彼女は、離れる気なんてないようだ。
仕方ないな、とため息を吐いて、空を見上げた。いつだってすれ違う視線。今だって、トッキーを奪い去った彼女の横顔は見られなかった。ただ、背中越しに聞こえてくる、トッキーをかじる小気味の良い音に耳を預けることしかできない。
「……苦い」
「ははは、ビターはまだ早かったか?」
しん、と、返ってくるのは沈黙のみ。やがて、我に返ったかのように、監督が終了の合図をする。
「カ、カット、カットだ! いやぁさすが海君! なにを言い出すかと思えば、これを予見していたとは! いやぁ、いやぁ、お見それしましたよ!」
カチンコが鳴らされ、映像チェックのためにミニモニターの前に人が集まり始める。だが待って欲しい。最前列の特等席は僕のものだ。僕もまた、誰よりも、この出来を楽しみにしていたのだから!
「よし、行くよ、つぐみ」
「は、はい!」
すっかり普通の子供に戻ったつぐみを引き連れて、モニターの前に集まる。そこにはもちろん姫芽ちゃんもいるのだけれど……すべてを客観視していた彼女は、茫然自失と言ったような表情で立ちすくんでいた。
「さぁさぁ! 海君は特等席だよ」
「ありがとうございます、阿部P」
促されて、一番画面がよく見えるところに立つ。前回と同じだ。この場で、まだ、僕だけが全容を把握していない。
まずは、廊下の向こうから機嫌良さそうに歩くつぐみの姿。頬は朱く染め、思い出したように微笑む姿は初々しい。後ろ手になにかを隠し持っているようだけれど……スタッフに頼んでいたものだろうか?
何を企んでいる?
何を演出して見せた?
さぁ、君の力を魅せてくれ、つぐみ!
『――うん、それで?』
僕の台詞が聞こえてくる。それを障子の裏で、足を止めて聞くつぐみ。
『はは、そっか、気に入ってくれたんだ? 良かった』
最初のシーンでは、ここで僕の顔を見て逃げ出してしまう。では、今は? 今は何をした? 足を止めて、身体を硬直させるつぐみ。恐る恐る縁側を覗き込み、スマホに向かって僅かに傾けた僕の横顔に、いやいやと首を振りながら障子の裏へ戻る。その瞳からこぼれ落ちるのは、涙?
『いいよ――気に入ってくれたのなら、それで良いよ』
『なんだよ。ははは。本心だって。信じてよ』
何かを持った片手は身体の後ろに。空いている手で、つぐみは嗚咽を堪えるように口元へ持っていく。そこで初めて自分の手が震えていたことに気がついて、つぐみは「はっ」と表情を変えた。
涙を拭い、唇を噛む。やがて何かを決心したように唇を引き絞ると、手元に持っていた何かを足下に落として駆け出した。なにを持っていたのか? 気にはなるけれど……カメラのフォーカスがつぐみに固定されているから、よく見えない。
『わたしにも、ちょうだい』
つぐみはそう、僕の手からトッキーを抜き取る。そのまま、僕と背中合わせに座り込むつぐみの表情は、なにか覚悟を定めた、一人の女性の顔をしていた。
思わず、その変化に息を呑む。ほんの一瞬のことだった。あの泣きじゃくっていた少女が、いつ、こんな表情を……?
(――違う。気を取られていた!)
意味ありげに手に持つ何か。それに意味があろうと無かろうと、さほど関係ない。つぐみの表情に覚悟が灯るその一瞬に意識を割いていなかったから、より強く、表情の変化が鮮烈に映った……!
(なるほど、驚愕するわけだ。いやしかし、つぐみならこれくらいやってくれる。僕の想定範囲は超えていない)
まさしく劇的。だからこそ――
『……苦い』
ハッキリとした口調で告げられた言葉。
(ん? なんだ? カメラのフォーカスが――)
そして、フォーカスが動き、遠方の僕らがぼやけ、廊下側が映り込み。
「ッ!? ……――なんだよ、それ」
つぐみの手元から離れて落ちた――“トッキー初恋レモン味”が克明に映し出された。
思わず、強く手を握りしめる。甘酸っぱい初恋を手放して、ほろ苦くても――戦う恋を選んだ。それはまさしく、幼いだけの少女が大人の階段を登った証。殻を破って魅せた証明。
たった三十秒の放映の中に、ありったけの感情を詰め込んで、三十秒間に三十分の、一時間の、これまでの、ドラマを詰め込んでみせたのか!
「いやぁ、つぐみちゃんから“初恋レモン味ありますか? あったら持って行くので、最後に撮して下さい”なーんて言われたときはなにかと思いましたが、ほんと利発な子ですよね!」
興奮した声色で告げるカメラマン。彼の言葉に、「利発なんて言葉で済むか!」と突っ込みそうになったがなんとか自重した。
やっぱり、僕の思ったとおりだ。年齢だとか、人種だとか、女性だとか男性だとか貧富だとか。そういうくだらないレッテルを剥がしてまっすぐ見つめなければ、たやすく呑み込まれてしまう。そんな彼女と共演するのは、あのエマ監督の映画だ。絶対に、とんでもないことになる……!
「つぐみ」
「なんですか? かいさん」
「今回も僕の負けだよ。まったく――こんなほっぺたのどこから、あんな表情が出てくるんだか」
「ふにゅ!?」
困惑するつぐみの、妙に柔らかいほっぺたをこねくり回す。まさか二段構えで見せてくるなんて良く考えた。素晴らしい。ただし、やっぱり悔しくもある。
「つ、つぐみちゃん!? 海さん、ダメですよ、伸びちゃいますよ!」
「ふにゅ! なにひゅるんへ……」
「姫芽ちゃんもやってみるといいよ。ほら」
「……へぁ!?」
「やりません!」
少しだけいつもと違う雰囲気の姫芽ちゃんに、割って入られて引き剥がされる。つぐみのほっぺたを押さえて伸びていないか確認する姿は、なんとも微笑ましい。
そのままプロデューサーたちに目を向ければ、やっぱり彼らも大興奮で話し合っていた。
「視聴者から戦う恋のエピソードを募集して、パッケージに記載しよう!」
「いいですねぇ! あ、なら投票もして、一番多かったエピソードを配信限定でドラマ化とか!」
「君、良いこと言うねぇ! よし、パッケージ変更だ! 恋心ビターモンブランから、戦恋ビターモンブランに!」
「よーし、別アングルも撮影してみよう! 二人とも、まだまだいけるね!?」
話を振られて、僕とつぐみは思わず目を見合わせる。それから共に似たようなタイミングで、「もちろん!」と声を上げた。




