scene2
――2――
途中で凛ちゃんたちと別れたわたしたちは、トッキーの撮影現場に来ていた。場所は前回と変わらず昭和な和風長屋で、縁側から見える庭に味がある。
現場には既に姫芽さんの参加が伝えられていたのか、わたしたちを迎えるスタッフさんたちの顔には歓迎の笑顔。なんだが、前回の撮影のときとは百八十度違う光景に、むずがゆさを覚えてしまった。
「お、待ってたよ、つぐみちゃん!」
「お待たせしました、あべプロデューサー」
「そっちは姫芽ちゃんだね? 聞いてるよ! さぁさぁ好きなところで見ていってくれ。我々の、作品をね」
人の良さそうな顔立ち。口元の皺が、なんとも優しさを演出している。打ち合わせのときにも顔を合わせた今回のプロデューサー兼監督の、阿部さんだ。阿部さんは満面の笑みを浮かべて、わたしたちを案内してくれる。
道すがら、小春さんから受け取った台本を確認。普通は絵コンテに準えた厳密な台本を使うのだけれど、わたしたち演者が持っているのは“進行台本”と呼ばれる、全体のフローチャートを記した台本だった。決めてはおくけれど、何か思いついたら言って欲しい、という、実に大胆なやり方。なんだか、本番が近づいてわくわくしてきた!
「楽しそうだねぇ、つぐみちゃん」
なんだか微笑ましいものを見るような様子で、姫芽さんがわたしに声をかける。視線がぬるい……。
「なんだか、ちょうせんしているみたいで……えへへ、はずかしいです」
「恥ずかしがることなんてないよー。楽しめるって、すごいことだと思うな。私は」
「姫芽さん……?」
「あはは、なんでもないなんでもない。気にしないでー。あ、ほら、海さんだよ」
少しだけ、姫芽さんの心の中にため込んだものが垣間見えた気がしたんだけれど……うまく躱されちゃったな。
姫芽さんの指差す方向には、縁側に腰掛けて台本を確認する海さんの姿。記憶で見た若い頃の柿沼さんによく似た彼は、相変わらず、お洒落な眼鏡がよく似合っていた。緩く癖のあるブラウンの髪が、風に揺れる。
「おはようございます! かいさん!」
「ん? ああ、おはよう、つぐみ。進行は確認できているか?」
「はい! もちろん!」
言いながら、進行台本と先日の打ち合わせの内容を脳裏に浮かべてみる。
・遊びに来たわたしが、話し声に気がつく。
・楽しげに誰かと話す海さん。
・障子越しに声を聞き、女性相手と察するわたし。
・トッキーを手に取ってかじり、苦い、と一言。
・ロングバージョンでは、走り去るわたしの背を海さんが見つめる。
と、これであっているはずだ。
そんな風に一人で納得するわたしを、何故か、海さんはにんまりと笑顔で見つめていた。えっと、それってどういう表情?
「じゃあ、まず、やってみようか」
「え、は、はい」
「なんだ。準備不足か?」
なんだか、挑発をするような表情。それに、思わず反発する。
「む。そんなことありません。いつでもどうぞ!」
すると海さんは、「冗談だよ、ごめん」と涼やかに微笑んで、わたしの頭を撫でた。これはこれで、余裕たっぷりすぎて、少し悔しいかも……なんて、思わないこともなかったり。
そんなわたしたちのやりとりを、なんでか、ぼんやりと見つめる姫芽さん。どうしたんだろう? あ、どこで見学したら良いかわからない、とか?
「姫芽ちゃん。事情はエマ監督から聞いているから、のんびりと見ていると良いよ」
「あっ、ありがとうございます! 海さん」
海さんに声をかけられて、姫芽さんは少しだけ緊張を崩していた。
海さんのファン……という感じでもないし、他とは違うトッキーCM制作メンバーの陽気に当てられていたのかも。
「はは、気にしないで。ただ、そうだね……どうせ見学するのなら、阿部Pの隣が良いと思うよ」
「え?」
「あそこなら、よく見える」
どこか、凄みのある声色。本気の柿沼さんにも似た、ベテラン演者の気配。海さんのその獰猛な笑みの理由もわからぬまま、姫芽さんはふらふらと、あるいは導かれるように、阿部Pの隣に置かれたパイプ椅子に腰掛けた。
ルルに衣装とメイクを整えて貰い、秋味のトッキーの箱を手に持った。ここから、一本、トッキーを取り出してかじるのだ。
配置は、縁側に腰掛ける海さん。それから、廊下から走ってきて、海さんの背に広がる居間の障子の裏で足を止めるわたし。前回と違って、貸家ではなく所有物件になっているとかで、壁を外して撮影できるようになっていたりと、やれることが増えていた。
「よし。準備は良いね?」
ADさんがカチンコを持って、カウントダウンをする。「五、四」と口に出して、三から先は口を噤んで指で合図だ。海さんはスマートフォンを耳に当て、わたしは廊下の先で待機。そして。
(カチンコの音。合図だ)
――大好きなお兄さん。初恋を自覚したあの夏を、まだ、唇が覚えている。指で触れると、なんだか、あの日の熱が唇から頬へ巡るようだった。
お兄さんはどこにいるんだろう? 縁側から話し声。他にもお客さん? あの日の、わたしと同じくらいの年の女の子……彼女だったら、ちょっといやだな。
(早く会いたい)
足を動かして、不意に、止める。縁側の方から聞こえる声。でも、影は一つ。電話をしているのかな? 障子の裏に隠れて、ついつい、聞き耳を立ててしまった。
「――うん。それで?」
うわずった声。ほんのワントーン、甘く響く。
「はは、そっか、気に入ってくれたんだ? 良かった」
これ以上、踏み込むな。身体の奥底からそんな風に聞こえてきた気がして、わたしは胸を抑えた。この鼓動が、お兄さんに聞こえてしまわないように。
ああ。だめ、だめだよ。今日は、お兄さんとは会えなかった。そういうことにして、踵を返して走り去れば、明日からはまた、甘いだけの日々が始まる。熱く、熱を持った日々が。
「いいよ――気に入ってくれたのなら、それで良いよ」
それなのに、震える足は踏み出すことを選んだ。窺うように障子から顔を出し、お兄さんの横顔を見て。
「なんだよ。ははは。本心だって。信じてよ」
温かくわたしを見守る目。
――電話の向こうを眇めて見る、優しい眼差し。
いつだって頼れる、お兄さんの声。
――どこか子供っぽさを感じさせる、拗ねたような声。
わたしの知らない、お兄さんの声。
知らず、お兄さんと分けて食べようと思っていたトッキーを、一人で、口に運んでいた。
「……にがい」
甘いはずのトッキーが、苦く広がる。わたしの気持ちを、示すように。
「カット! いや、いいよ、やっぱり最高だね!」
阿部Pの声で切り替える。ふぅ、と息を吐くと、目を丸くした姫芽さんが、ぱちぱち拍手をくれる。なんだか嬉しいな。照れちゃう、ともいえるかも。
もにもにと頬を揉み込んでみる。海さんに引っ張られたわけでもないのに、伸び切っちゃってないかな。
「よしよし、映像チェックをしよう」
「はい!」
海さんに手を引かれて、映像をチェックする。苦い、と告げる表情こそが、苦くしかめられていた。よし、ちゃんと想定どおりの表情が出来てる。
「すごいねぇ、つぐみちゃん。こんな演技もできるんだー……」
「えへへ、ありがとうございます、ひめさん」
うにゅにゅ、頬が緩んでしまう。
「ふむ、ふむ、なるほど。百点だ。さすがだよ、つぐみ」
「かいさんまで……」
「本心さ」
褒め殺しされてしまう。なんだか、むずがゆい。
スタッフの皆さんも口々に褒めてくれていて、思うような演技が出来た実感に、なんだか嬉しくなってしまった。いけないけない。今日は姫芽さんの力にならないと、なのに。
「でも」
そんな、わたしたちの声が、鎮まる。
海さんは喧噪の間に声を差し込むと、さっきまでとは違う……いいや、そうじゃない。今日、最初にここで挨拶をしたときのような挑戦的な表情で、不敵に笑った。
「もう一本、やってみないか?」
「海君? もう一本、とは?」
「そのままの意味ですよ、阿部さん」
海さんは、呆然と見上げていたわたしの前で膝をつき、視線を合わせる。
「つぐみ。前回の勝負のことを、覚えているか?」
「……――はい」
最初のとき。エミリちゃんと勝負をした、あの日のCM撮影。あれを、忘れたりはしない。
「あの作品は競争の中で生まれた。あの日、君は挑戦者だった、貪欲なチャレンジャーだった。してやられたと思ったし、素直に、敬意も抱いた。だから」
敬意。
そう告げる海さんの瞳は、獰猛な肉食獣のようで。
「また、君の力で僕を驚かせてみてくれないか?」
「それ、は」
「もちろん」
区切られた言葉。口角が持ち上げられ、悪戯っぽくウィンクを落とす。
「無理に、とは、言わないけどね」
無理。
無理、か。
「あー、海君、いくらなんでもそれは――」
「いいえ、だいじょうぶです、あべプロデューサー」
「――へ? つ、つぐみちゃん?」
目を閉じる。そうしたら、直ぐにわかった。アスファルトの上で仁王立ちを決める鶫の表情は、きっと、今のわたしと同じものだ。
「ふふ――まかせてください」
上等、と、鶫に向かって告げると、鶫はにんまりと笑みを浮かべながら親指を突き立てた。




