opening/First half
――opening/Firsthalf――
廃墟に拵えられたセット。照明とカメラに囲まれたコンクリートの上で膝をつく、美しい銀髪の少女。俺が監督としてメガホンを揮うこのドラマも、いよいよ、今日の撮影でクランクアップだ。
現場の空気感を保持するため、このあとの“病室”のシーンもまとめて撮影する。そのための根回しはした。そして、その労力を掛けるだけの価値のある脚本と役者だ。仕上げてみせるさ。
「三、二、一」
カウントダウン。息を呑むスタッフ。かつてリリィを誘拐し、脱獄した犯人、藤巻を演じる庄司さんが定位置についた。庄司さんは廃墟の廊下から出て右側の階段上。リリィと楓が室内。ずっと主人格のリーリヤを“攻撃”という手段で守り続けてきたのが、イジメの主犯であったリリィだ。
彼女は副人格であり、主人格を守ることが存在意義である。だが、度重なる明里や美奈帆との対立がやがて友情を呼び、変わらぬ献身を続けた楓の親愛が、攻撃しか知らないはずのリリィを溶かした。その葛藤を、その行動を、つぐみ、君ならどう演じる?
「シーン――アクション!」
最初に動いたのは、リリィだ。リリィの腕には、裂傷のメイクが施されている。リリィは肌を傷つけながら割れたガラス(飴細工のフェイクガラス)で拘束を切り、肩で息をしながら立ち上がった。側に転がっているのは、今回の誘拐に巻き込まれた楓の姿だ。
リリィは楓を一瞥すると、睨むように廊下の方へ視線をやる。それから、周囲をぐるりと見回して、ガラスが割れた窓の方へ近づいた。
「いけないこともない、わね」
外縁を伝って行けば、ビルの裏の駐車場へ出られる立地だ。ただし、堀の水は涸れているから、迂闊に足を滑らせば落ちてしまうことだろう。リリィ一人なら、それでも、逃げられるかも知れない。けれど、リリィはその選択肢を選ばない。
「ダメ、ダメよ、だって、そう、足を滑らせてしまうかも知れない」
廊下から出れば藤巻と遭遇してしまうかも知れない。けれど、楓を連れて逃げるには、それしかなかった。
「ほんと、滑稽」
俯いて、唇を歪ませるリリィ。彼女はガラスの破片を手に、楓の手を結ぶビニールテープを切る。
「痛っ……起きなさい、さっさと行くわよ」
「り、りぃ?」
ガラスで切ったのだろう。血の滲む指を舐めて……血の滲む? あれはアドリブだろう。腕に施されたメイクから、血糊を指につけていたのか。でも、なんのために?
――そうだ。リリィは主人格を守ることがすべてだった。なのに、楓のために自分の身体を傷つけた。それは、矛盾だ。
(そうだ、それでこそ俺が認めた子役だ。さぁ、もっと魅せてくれ、つぐみ……!)
楓に肩を貸し、廊下へ出る。階段は左右にあるが、右側の階段の上には藤巻がいる。微かに聞こえてきた藤巻の鼻歌に、リリィは苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべる。
「リリィ、だめ、だめだよ。私を置いていって」
「はっ。あなたがいないと、誰が私の友達をやるの? あなたは、いつもみたいに、バカみたいに側に居れば良いの」
「でも、それじゃあ、追いつかれちゃうよ」
「だったら走りなさいな……っ」
唇を噛んで、ぼろぼろの身体を突き動かす。歪な二人三脚だ。楓はリリィの覚悟に息を呑む。それから、今度はしっかり、リリィの胴に手を回す。
「なら、一緒に逃げよう。一緒に、生きて帰ろう」
「最初から、私は、そう言っているつもりよ」
二人の間に築かれた絆は、ぐちゃぐちゃで一方通行だ。過去しか見ていなかった楓と、今しか見えなかったリリィ。その二人が今は揃って、同じ未来を夢見ている。
二人は何度もよろめきながら、それでも進んでいく。カメラもその横について進ませていくが、彼女たちの目にはカメラなんて見えていないようにすら見えた。
「おやぁ、蝶々が二匹、逃げていくようだねぇ!」
「っ来たわ。急ぐわよ、楓」
「うん!」
「はははぁ、わかった、鬼ごっこだね、いいよぉ……ずぅっとボクが鬼だ! ひっひゃっはははっはははは!」
どうせ逃げられはしないだろうと、藤巻の足取りは緩やかだ。逃げられそうにも見えるが、既にぼろぼろなリリィと楓はそう早く走ることができない。息を切らしながら走る先にあるのは、崩れた渡り廊下と、もう、どこにも行けない道だけだ。
「う、そ」
「待って、待って、リリィ、あれ!」
崩れた渡り廊下の先は、三階として演出をするが、実際は二階程度の高さかつ下にはネットが張られている。少し怖いだろうが、リハーサルでも安全検証はされている。
だが、演者である二人の目には今、違うものが映っている。別撮りで合わせるが、下には救護用のマットを持ってきた黒瀬、水城、絹片、そして明里と美奈帆の姿があるのだ。過去の経験から救助用の道具を持ってきた絹片と、廊下を逃げる二人の姿を見つけた美奈帆。全員で協力して、先回りをしていた、というシーンだ。
「よし、カット! 準備を!」
「はい!」
シーンを一度きり、演者のメイクをチェックしながら楓の腰に細いロープをセット。あとで編集で消すが、安全対策に必要なものだ。
「よし、いいな。三、二、一、スタート!」
再びカメラが回り始める。二人はその間、一言も喋らなかった。心が、役が、少しも抜けていないのだ。
「リリィ、先に行って! 私はあとから追いかけるから、だから!」
藤巻の姿は近い。けれど、同時に身を投げれば、追いつかれて誰かが傷つけられてしまうかも知れない。だが、どちらかがこの場に残れば、囮になることが出来る。囮以外は、誰も傷つかずに済む。リリィはそれでも自分を優先する楓の姿に絆され、そして、楓を突き飛ばして笑うのだ。
台本にはただそう書いてある。脚本の赤坂先生は、「リーリヤの表情で笑うのが良いと思うけれど、もっと良い案があればそちらでも良いよ」と言っていた。俺や演出家の浦辺さんは、改心の意味を込めてリリィとしての表情で笑う方が良いのではないか、と提案した。
(さぁ、つぐみ、君はどちらを選ぶ?)
さほど、時間は無い。でも演出上、僅かに言葉を交わすことは出来る。リリィはほんの僅かに、楓から身体を離した。
「楓」
「リリィ?」
「特別よ。ほんと、あなただけは特別」
「リリィ? なにを? 急がないと――」
楓の肩を、力強く押すリリィ。
「特別に、わたしのことは忘れていいよ。だから、幸せになってね、楓」
緩く微笑む口元。/フラッシュバック。
華やかに眇められた瞳。/花畑で交わした言葉。
優しく紡がれる穏やかな声。/それは、悪でも善でもなく。
「ばいばい」
薄汚れた廃墟の中。思わず、佇む彼女に手が伸びる。
「リ、リィ……?」
その笑顔は、彼女が二つに分かれてしまう前――ただの、何も知らない普通の女の子だった頃の、無垢な彼女の笑顔だった。
「ひ、ひひひ、つーかまえた」
「私に触るな」
「は?」
リリィの表情が変わる。今度は……今度は、誰だ? リリィでもリーリヤでも、無垢な彼女でもない。一つの成長を遂げた姿。幼い身体に押し込められたトラウマが、彼女の踏み割るガラスのように、音を立てて砕けるような。
違う。融合だ。人格の統合だ。今この瞬間、誰かを守るために攻撃性を獲得した。後の展開とも繋げられる絶妙な演出。
(リリィとリーリヤが、一つになったのか……!)
かつてリーリヤが魅せたステップで、藤巻の脇を通り抜けるリリィ。ここで自分があっさりやられたら、次の標的は仲間たちだ。この狂人から、友達を救わなくてはならない。逃げる時間を稼がなければならない。だからリリィは、逃げ場のない“上”に向かって走る。
「うーん、いいねぇ、そういう趣向も嫌いじゃないよぉぉ!」
階段のシーンをカメラで追う。藤巻の追撃をかわしながら、上へ、上へ、走って行く。
そして、シーンは屋上へ変わる。追い詰めた藤巻。追い詰められたリリィ。けれど、覚悟を決めた彼女の瞳からは、光が、失われていない。
「もう逃げ場はないよ。さぁ、ボクと楽しいことをしよう、前よりも、ずっとずっと!」
「嫌よ。もう、あんたなんかには囚われないわ。いつだって、私の心はわたしだけの物だから」
「はぁ? なにを、言って――まさか!」
フェンスの隙間から身体を乗り出すリリィ。その直ぐ下に突き出すように設置された足場とマットは、編集で消される仕様だ。けれど、リリィはまるでマットなんか見えていないように振る舞う。
「今度は殺人よ。きっともう、一生、外には出られないわね」
「待っ――」
そうして、リリィは身を投げる。空に吸い込まれていくかのような、晴れやかな笑顔で。
「――カット! このまま、続けていくぞ!」
心が打ち震える。あの瞬間、確かに、俺たちはリリィの笑顔に吸い込まれた。リリィの表情に呑み込まれた。ああ、ならば、この場に残るこの熱を、途切れさせたくない!
つぐみを引き上げて、彼女の体調を確認しながら直ぐ次のシーンに移る。追いかけっこの間に屋上の真下に移動していた絹片が、携帯電話で水城たちから遠隔指示されたポイントに移動。とっさに両手を突き出して、落ちてきたリリィをキャッチするシーンだ。
捕まえるところはあとで合成するので、リリィを腕に抱く絹片を撮影する。
「よし、三、二、一、スタート!」
カメラが回る。息を切らして腕に抱くのは、数年前は救えなかった少女の姿だ。
「――ぁぁ、良かった、良かった、本当に」
リリィは動かない。固く瞳を閉じてはいるが、微かに胸が上下している。絹片は彼女を優しく抱き上げると、リリィを揺らさないように慎重に、廃墟から出ていく。そこに怯えた目の、後悔にまみれた教師の姿はない。力強く踏み出す一歩は、絹片もまた、変わったことを意味するのだろう。
「カット! いや、文句なしです、さすが柿沼さん! さぁみんな、移動だ!」
俺のかけ声で現場が動く。柿沼さんの手から降りたつぐみが専属のスタイリストに連れられ、ロケバスに戻りながら段取りの再確認。
「残すところはクライマックスだ! みんな、気合い入れていこう!」
『おー!』
一致団結。半年間、共に作品を作り続けてきた仲間たちの声。
全員の心の火が弱まってしまわないうちに、次のシーンを撮影しなければ、なんて、久しく感じていなかった青臭い情熱が、俺の心を導いているかのようだった。




