scene2
――2――
――ウィンターバード俳優育成学校・理事室。
閏宇、さん。
彼女は確か、鶫が十五歳の時に知り合った女性だ。当時、鶫は夜間の定時制高校に通っていて、閏宇さんは日中の普通科高校に通っていたそうだ。出逢って、衝突して、喧嘩をする内にライバルになって、友達になって、親友になった。
そんな閏宇さんが何故ウィンターバード俳優育成学校の理事室にいるのかといえば、彼女がこの学校の出資者であるから、らしい。桜架さんがこの学校の名前をつけようとしたとき、閏宇さんが阻止してくれた、とも。
「あら、つぐみちゃん、だったわよね? ちょっと待ってね」
エマさんがノックもせずに理事室の扉を開け放ち、同時に、落ち着いた声が聞こえる。理事室のソファーに腰掛ける女性の姿。
鶫の記録で見た姿に比べたら、少しだけ、大人びたように見える。当時は三十路に近づいてもなお十代半ばという容姿だったみたいだけど、今は、二十代半ばくらいに見え……あれ? 鶫と同い年なら、五十路……あれ????
「エマ」
「ああ、彼女が役作りの参考に桐王鶫の話が聞きたいということでね。桜架に語らせると面倒だから連れてきたのさ」
「エマ。人間らしい振る舞いをしなさいと、教えたわよね?」
「……」
威圧感。鮮やかな黒髪は落ち着いたボブヘアで、髪の間から覗く黒目は角度によっては黄金にも見える、不思議な色。カリスマ性、とでもいうのかな。鶫の記録に寸分違わぬ力強さで、閏宇さんはエマさんにそう告げた。
「いや、ははは」
「まったく。――あなたの天才性はあなたの牙よ。研ぐことをやめろとは言わないわ。でも、振る舞いは人間に寄せなさい。牙を剥くその瞬間までは、多くの機会を得られる体を装いなさい。良いわね? エマ」
愛想笑いで誤魔化そうとしたエマさんに、鋭く、深く、言葉を向けられる。それは直接向けられた訳でもないのに、側で聞いていたわたしにすら、深く心に食い込むほどの“強さ”を宿していたように思う。
すごい。
ただ、そんな感情が零れた。
「わかったよ、先生。はは、いや、ではボクはこれで! じゃ、あとは頑張ってくれよ、つぐみ!」
エマさんはそう、少しだけ緩んだ頬を誤魔化すように、足早に退出する。扉が閉じる寸前、部屋の前で待とうとしてくれていた凛ちゃんとエミリちゃんが、エマさんに抱えられて消えてゆくのが見えた。
聞かれて良いのかわからない。そんな変な話をするつもりはないんだけれど……うん、でも、ちょっと心細いかも。
「さて。初めまして。私は閏宇……と、もう知っていたかしら?」
「は、はい! そらほしつぐみです。きょうは、おじかん、ありがとうございます!」
「うん。お行儀良くて偉いわね。そんなところで立っていても疲れちゃうでしょ。座って」
「はい、ありがとうございます」
ガラスのテーブルを挟んで、下座側に腰掛ける。閏宇さんは備え付けのポットでコーヒーを淹れて、角砂糖とミルクをトレイに乗せ、一緒に持ってきてくれた。
「あ、コーヒー飲める? だめだったら言ってね。先に聞けば良かったね」
「コーヒー、すきです。ありがとうございます」
「そっか」
白いカップから湯気が立ち上る。香ばしい香りにせかされるように、砂糖を二つとミルクをたっぷり。スプーンでかき混ぜれば、黒かったコーヒーはマーブルに溶けた。
「あ、これ……どこかで……えーと、そうだ、Slashの」
「あ、行ったんだ? そうそう。池袋の喫茶店ね。馴染みのお店でさ。先代にコーヒーを教わったのよ。都よりも美味しく淹れられる……なんていうのは、言い過ぎかしら」
ウィンクと一緒に、優しく語りかけてくれる閏宇さん。声色、声量、トーン、視線、体幹。五感を震わせる身体の使い方。これが、この人が、鶫の親友。本当に女優の座を退いたのか疑問に思うほどの、存在感。
「さて、鶫のことが聞きたい……だったわよね?」
「っはい! しりたいんです。つぐみが、かのじょが、どんな人だったのか」
わたしの知っている鶫は、桜架さんから聞いたモノを除けば、すべて鶫の主観によって構築されていた。そして桜架さんから見た鶫は、どこかこう、なんかちょっと、本当に? と疑問に思っちゃうような崇拝され具合もあって、よくわからない。
でも、鶫の親友の閏宇さんなら、違う“鶫”を見ることができるかもしれない。だから。
「……良いわ。深くは聞かない。きっとその方が良い、なんて、勘だけれど――役作りのためっていう訳でもなさそうね」
「へ、え、ぁ」
「良いから。そうねぇ、じゃあ出会いから、で、良い?」
「は、はい」
今、閏宇さんは何を見抜いた?
あの一瞬で、心の内側のもろい部分を撫でられたような、ぞくりとする感覚。その情動の整理が付く前に、閏宇さんは語り出す。
心の隙間を縫うように。
「鶫と出逢った日のことは、今でも忘れないわ」
眇めた目。
矯めて細めた瞼。
美しい思い出を、振り返るように。
「夕暮れの河川敷で、大柄な男に絡まれたのよ。何度断ってもしつこくてさ。しびれを切らして投げ飛ばそうとしたときに――“それ”はいたの」
「え?」
「夕焼けを背にまっすぐ伸びる影が、男も私も呑み込んだわ。それはただ佇んでいて、ただ歩み寄っていた。その異様な姿に気がついたのは、私の視線に気がついて振り返った男が、先だったのよ」
ごくり、と、生唾を呑み込む。
「前傾姿勢で、片足を引き摺りながらそれは歩いてきたわ。ずるり、ずるり、ひたひた、ひたひた」
「……っ」
「よく見れば直ぐに異常性に気がついたわ。引き摺っている方の足がね、背中の方に向いていたの。とうてい歩けるような状態じゃ無いはずなのに、それは、走ったわ。駆けてきたの。夕暮れを背に、距離感すらわからなくなる距離を、まっすぐ、ずるり、ずるり、たったったった――」
あれ。
でも。
あれ。
「そ、それで」
なんだか、鶫の記録とちょっと違うような。
いや、そうじゃない。鶫の視点が、主観が、妙ちきりんなのだとしたら?
「――身動きのとれない男に、それは、まるで恋人に触れようとするかのように手を伸ばして、引きつる喉を撫でてこう言ったわ。『一緒にいぃいきましょうよぉぉぉぉ!!』」
「ひゃあああああああああっ」
がばりと顔を上げ、叫ぶように告げられた言葉に悲鳴をあげる。
そうだ。わかった。鶫の記録との差違。鶫は、道で絡まれていた女の子を、覚え立ての悪霊の演技で助けてあげた、というもの。でも、閏宇さんの主観ではこうも違う。
「あははは、ごめんごめん。それで、悲鳴をあげて逃げ出した男を追うことも無く、その悪霊は逆さまに履いていた靴を履き直して、私にこう言ったの。『大丈夫だった?』なんて、なんでもない風にね。ふふふ、鶫ったら、つま先立ちで前後逆に靴を履いて靴紐で足首にひっかけていたものだから、痛そうにしててさ。それでようやく、私は、『ああ、人間なんだ』って思ったのよ? それが、忘れもしない、私と鶫の出会い」
うん、そうだ。そのあと直ぐに、涙目の閏宇さんに怒られていた。えーっと確か、「助けてくれてありがとう。でもそこまでする!?」って。よほど怖かったんだろうなぁ。
「桐王鶫っていう人間に憧れている人間はいつだって、“鶫さんは平等で、誰にでも対等で、だからこそ、その立場を失ったら二度と対等に見てくれない”なんて怖がっていたわ。でも、それは、鶫が鶫なりに身につけた処世術だったのよ」
処世術。
誰かと、生きるための、術。
「私が公園で演技の練習をしていると、決まって鶫も現れたわ。最初は偶然。いつしか期待して、どこからか示し合わせて、互いに互いを磨いた。荒くても宝石のような、原石の日々。並んで童話を演じれば、鶫は魔女をやりたがって、エチュードで始めれば、何故か鶫は敗北する魔王になっていた。私は、私が負けたくて、演技で挑んだものよ」
瞳を閉じれば、胸の奥に溢れてくる。最初は悪戯心。それからもう、ずっと、ただの意地。悪役から引きずり下ろせるモノならやってみろ、なんていう。
取っ組み合いの喧嘩はいつも、鶫の意地っ張りなところに反発した閏宇さんが、猫みたいに飛びついて。ああ、それから、悩みを交わした夜は、二人で終電で奥多摩まで行って、暴走族を悪霊演技で追い払ったりした、みたい。無茶するなぁ。
「そうやって、日々を過ごす内にわかったのよ。ああ、こいつはただ、純粋に人を好きになるやり方がわからないんだな、ってね」
「え……?」
「鶫は複雑な家庭環境で生まれて、親の愛を知らなかった。生きるのに必死だったから友達の作り方なんてわからなかったし、誰かを好きになるなんて当たり前のことも知らなかった。祖父母に引き取られて、彼らのやり方を真似て、初めて、人を好きになっても良いんだって知った」
それは。
それは。鶫の記録にはないことだ。だって鶫は、そんな風に、自分の内面を評価できたことなんてなかったから。
だって、もう。
閏宇さんっていう、大事な友達が、鶫にはいたから。
「鶫は、誰だって平等に見ようとした。それは、虐げられた人間の持つ視点。誰かを見下す人間になりたくなかったから。だから、平等な相手ではないと思ったら――守ろうとした。どこにでも、悪意はある。どこにでも、恐怖はある。その全部から守ろうとした。守ることが、鶫が祖父母から与えられた、最初の愛のカタチだったから」
すとん、と、胸に、閏宇さんの言葉が落ちる。そう、だと、するのなら。鶫が今、わたしからいなくなってしまった理由は、わたしを守るため?
わたしが心のどこかで、鶫に頼って、心を預けて、縋って、求めていたから、わたしがわたしだけでも生きていけるように、わたしの人生を、守ろうとしてくれていた……?
(鶫……わたし、は)
わからないよ、鶫。言ってくれなきゃ、わかんないよ。
「……聞きたいことは、聞けた、のかな?」
「は、い」
「そっか。じゃ、最後に一つ」
「え?」
閏宇さんは立ち上がると、わたしに手を伸ばす。そして、わしゃわしゃとかき回すように、わたしの頭を撫でた。
「私のことすらそうやって守ろうとした鶫に、私がなんて答えたか、教えてあげる」
閏宇さんのことすら、守ろうとした?
あれ、でも、鶫の中で閏宇さんは、最後の最後まで親友だったと思うんだけど……。
「すぅ、はぁ――『私の意思を勝手に決めるな。守られたいんじゃない。並びたいのよ、この頭でっかち!』って、ひっぱたいてやったのよ」
そうやって笑う閏宇さんの表情は、どこか、きらきらと輝いて見えた。鶫との思い出の全部を、宝物だって、そう、誇れる人の顔だった。
(そっか、そうだったんだ)
ただ、会いたいだけじゃない。
伝えなきゃいけないことがある。
やり方は……まぁ、そのときに考えるよ。
(だから)
逃がさないから、首を洗って待っていてね? ――鶫。




