scene3
――3――
夕暮れの町並みを車で走る。
アポイントメントを即日、ということは難しそうだったのだけれど、虹君に連絡を取ったら取り次いでくれると返事が来た。虹君さまさまだ。今度、お礼をしないと。
「申し訳ありません、つぐみ様」
「いえ。よくかんがえたら、かたくるしい感じじゃないほうが良かったかも、っておもったんです」
正式なアポイントメント、となると相手に確認してスケジュールを調整して後日……と、何かと迂遠なことになる。でも、生徒からの紹介のような感じで抜け道を使えば、そのごたごたは全部省略される。
そうなると、虹君と二人で、ということになるのだけれど、小春さんが心配するところであろう“校舎内での護衛”は、今回は真宵に任せておこうかな。
(あ、いた)
竜胆大付属の前に到着すると、虹君がわたしたちを待っていてくれた。車から降りて直ぐに手を振ると、虹君は気怠げにわたしに手を振り返し、ついで、小春さんに軽く会釈をする。
「ではつぐみ様、私はここで」
「うん。まよいに、よろしくいっておいてください」
「承知いたしました」
これで充分。小春さんはどこかへ目配せして、頷いていた。そっちに気配は感じないのだけれど、小春さんもわかっているってことだよね。すごいなぁ。
竜胆大付属の校舎に来るのはずいぶんと久々だ。思えば四ヶ月以上前にダディとマミィと小春さんの三人で、学校見学に訪れて以来。わたしは、逸る気持ちを抑えて虹君に駆け寄った。
「おまたせ! きゅうにごめんね、こーくん」
「別に良いけどさ、説明ぐらいしてくれるんだろうな?」
説明、ううむ、そうだよね。どう言ったら良いものか。ツナギの諸々の事情をわたしから言うのははばかられる、けど、虹君の協力なしでは難しい。
「言えないなら、無理には聞かねーよ」
「えっ、で、でも」
虹君は大きくため息を吐いて、それから、わたしの眉間に指を置く。ぐりぐりと、うぁあ、もぞもぞする!
「ただし!」
「は、はい!」
ぐい、と顔を寄せて、虹君は力強く言い放つ。虹君の瞳は黒。けれど、こうして近くで見れば僅かに赤みがかって見えた。差し込んだ夕暮れが映り込み、虹君の瞳の中で茜色の空を象る。
優しい、夕焼けの色だ。厳しい言葉とぶっきらぼうな口調でも色あせない、たそがれのいろ。
「……一人で抱え込むのだけはやめろ。オレじゃなくたっていいさ。御門さんだって、頼りになるんだろ? それが約束できないんだったら連れて行けねーよ。――ライバルに潰れられちゃ、たまんねぇからな」
虹君の言葉に、なんて返したら良いのだろう。虹君の優しさに、どうやって報いれば良いのかな。家族とも違う、友達とも違う、仲間とも違う、言いようのないあたたかさ。
「――わかった。ありがとう、こーくん」
「わかったんなら良い。じゃ、行くぞ」
「うんっ!」
虹君の手を握って、隣を歩く。って、あれ、なんで手を握ったんだろう? そう、そうだ。ずいぶんと色合いは違うけれど、こうしていれば兄妹みたいに見えるよね。うん。
竜胆大付属の校舎を歩くと、まばらに歩く人たちの視線を集めた。でも、気にしている場合ではない。もしも、もしも風間椿さんとツナギになんの関係もなかったら、一から洗い直しになってしまうから。
「風間先生には、“先生に聞きたいことがある子役がいる”って話してある。今は資料室で講義の準備をしてるはずだから、人目はない」
「こーくん……手をまわして、くれたの?」
「変に気を遣って暴走されると困るんだよ」
虹君はぶっきらぼうにそう言う。けれど、わたしを握る手が優しいから、棘のある言い方の虹君の言葉の陰に、確かな暖かさを覚えた。
「ここだ。ちょっと待ってろ――風間先生、夜旗虹です。今、よろしいでしょうか? さっき話した件で、例の子役を連れてきました」
『ん? ああ、いいよ』
ノック。それから呼びかける声。返ってきたのは、年齢の高ささえ感じれど私の記憶とそう変わらない“椿ちゃん”の声だった。
「オレは挨拶だけしたら出て行く。見張っててやるから、気張れよ」
「うんっ! ありがと、こーくん」
虹君が扉を開けて、するりと中に入る。それから何か会話をして直ぐに出てきた。本当に、上手いこと言ってくれたんだと思う。
「ほら、行ってこい」
「うん……!」
大きく深呼吸。ノックを四回。もっと幼い頃から身につけていた礼儀作法が、わたしの背筋を伸ばしてくれる。大丈夫。大丈夫。きっと、ツナギを取り戻せるから。間違っていたとしても、一歩には違いないから。
『どうぞ』
「しつれいします」
扉を押し開けて中に入る。整理された資料が棚に並ぶ部屋。想像よりもずっと広い室内の奥。夕日に照らされたデスクの上に並べられた資料と、シルバーのノートパソコン。画面を見ていた彼女は、わたしの姿を確認しようと顔を上げた。
切れ長の目。当時は長かった髪も、今はショートカットにまとめられている。『紗椰』で鶫と彼女が共演したのが、二十五年前。当時十七歳だった彼女ももう四十二歳だ。きっと、美しく年を重ねたのだろう。わたしを見て僅かに眇めた目元に浮かぶ笑い皺が、とても綺麗だ。
「夜旗君がもったいぶって連れてくるから誰かと思えば……『妖精の匣』のつぐみちゃんね? 初めまして。私は風間椿よ」
「っごていねいに、ありがとうございます。わたしはそらほしつぐみといいます。きょうは、お時間いただきありがとうございます!」
「ふふ、そう固くならなくて良いわ。さ、あまり良い物でなくて悪いけれど、そこに座って。この資料だけまとめてしまうから」
「はい!」
椿さんはそう言うと、パソコンに目を戻し手早くキーボードを叩く。急がせてしまって申し訳ないな、なんて思いつつ、木のスツールに腰掛けた。
――横顔に、ツナギの面影はない。血縁者じゃなくて、全然関係のない方だったら本当に申し訳ない、けど、可能性に縋ることしかできなかった。
『ごめんね、つぐみ、あなたを泣かせたかったわけじゃないの――絶対、ツナギはあなたに返すから。ただ、その、いつになるかわからないけれど……ごめんね』
別人のような顔で笑うツナギを、取り戻すために。
「お待たせ」
「い、いえ!」
椅子を回転させて、わたしの方に顔を向けてくれる椿さんに首を振る。急に押しかけたのはわたしの方だ。これ以上、わがままなんて言えるはずがないし言うつもりもない。
「それで、私に聞きたいコトって?」
「あの! その……かざまちづる、という名にききおぼえは――」
風間千鶴、と、その名を出すと、椿さんは微かに目を見張る。僅かに動く唇の形は、「なぜ」、だろうか。
ギャンブルだった。でも、繋がった――!
「つぐみちゃん、は、どこでその名を?」
「ともだちの……だいじなともだちの、お母さんなんです」
「そ、う。そうなのね」
椿さんは、反芻するように目を閉じる。それから幾分かの間を置いて、大きく息を吐いた。
「千鶴は、私の妹よ。もっとも――元、という言葉が付くのだけれど」
「もと、ですか? あの、どんなことでもかまいません! 教えてください!」
スツールから腰を上げて、勢いよく頭を下げる。同情を誘うような、とか、そういった演技はしない。こうして時間を作ってくれた椿さんに、あまりにも失礼だから、しない。
「……そうね。ええ、良いわ」
「っ、ありがとうございます!」
「ふふ、何故かしらね。あなたを見ていると、あの人を思い出すのよねぇ」
椿さんはそう言うと、わたしに席に座るよう促して懐かしむように微笑んだ。
「私の母が病気で死んだのは、私がまだ六つの頃だった。父は生活能力の乏しい人でね。父が新しい母として女性を連れてきたのは、私が七つの誕生日を迎えたときだったわ。彼女はそのときには既に、父との子供を宿していた――それが、千鶴よ」
淡々と語る、割り切った過去。私も知らなかった、風間椿の幼少期。
「継母のことはよくわからなかったけれど、妹は可愛かったわ。継母よりも父よりも、誰より率先してあの子の世話をしたものよ。千鶴が大きくなると、継母は家に寄りつかなくなった。父も同様にね。だから私が役者の世界で稼いで、千鶴と二人で生きてきた。あの子ったら、こんな家庭なのに図太くってさ……まったく、誰に似たんだか」
淡々と語る椿さんの表情に、懐かしさが宿る。半分しか血が繋がっていなくても、本当に仲の良い姉妹だったのだろう。
「千鶴が十三のとき、継母が余所に男を作っていたせいで家から追い出され、それでも千鶴とは連絡をとっていたわ。継母の借金を返済するといって、年齢を誤魔化してバーだかスナックだかで働き始めたときは、血の気が引いたのを今でも覚えている」
だんだんと、熱が込められていく言葉。きっと……きっと、年月を経た今だからこんな風に語れるんだ。だって、そうでないと考えられないほど、彼女の言葉には優しい懐かしさと――それ以上に、寂しさがあったから。
「――あの人の借金を返す当てができた、なんて言って結婚したのは、あの子が働き始めて三年経った頃。二十歳になったばかりの頃よ。それから、あんまり連絡も取れなくなって、あっさりと死んじゃって……本当に、振り回されてばかりだったわ」
僅かに浮かぶ涙を、あくびをしたように誤魔化して、人差し指で拭う椿さん。それに、わたしは、告げる言葉を持たない。何か言おうとして、けれど、声にならずに零れた。
「そんな、ことが」
やっと言えたと思ったら、こんな程度の言葉。向き合ってくれた椿さんに恥ずかしい、言葉。
「そうね、これは内緒にして欲しいのだけれど……あの子の結婚の時、千鶴の希望で家族写真を撮ったの。無理矢理父も引っ張って来て、私も入って、千鶴を見初めたあの男も一緒にね。あなたがどんなことを知りたいのかはよくわからないけれど、見る?」
「! いいんですか!?」
「ええ、良いわ。あの子も、自分を知る人が多い方が、きっと寂しくないでしょうからね。ふふ、なんだか不思議だわ――どうして初対面のあなたにこんなに話してしまうのかわからない、けれど……私は、自分の直感を信じることにしているの」
椿さんはそう言うと、荷物の手鞄からパスケースを取り出した。使い古した革のパスケースは、それそのものが思い出の品なのだろう。よく手入れされている。
「その、ケースも、だいじになさってるんですね……」
「これ? これは、千鶴が初任給で買ってくれたのよ。初任給くらい自分の好きなことに使えば良いのに、本当に、もう」
椿さんが差し出してくれたパスケースを、壊れ物でも扱うかのように受け取る。だって、こんな。ううん、今はただ、少しでも情報を。
「ぁ」
情報を、なんて、だって、そんな、ことが。
「私の尊敬する女優さんに、よく似ていてね。綺麗でしょう?」
写真の中央で笑う女性。その顔立ちは、なぜだかとても“桐王鶫”によく似ていた。
そんな、鶫によく似た女性に腕を組まれて、笑顔が引きつる男性。端整な顔立ちに金色の髪。青い瞳は――四条玲貴、彼のものだ。四条玲貴が? なんで? どうしてここにいるの? 情報が、頭の中で嵐のように掻き混ざる。ああ、でも、だめ。頭がパンクしそう。
だめ、今は、ちゃんと見ないと。見たくなくても、見ないと。
椿さんが手を引っ張るのは、椿さんのお父様だろう。気難しそうな顔立ちに、横一文字に引き結ばれた口。白髪交じりの髪と四角い眼鏡。
四条玲貴のご両親の姿は見えない。今でもご存命なのかどうかも知らない。彼は家族の話を嫌ったから、ふわっとしたイメージしかない。
でも、千鶴さんのお母様の姿はあった。
(――ああ)
黒い髪。
(運命は残酷だ)
痩せた頬。
(これが、本当だとするのなら)
瞳だけは、黒曜石のように綺麗な。
(ツナギは――私の、甥だ)
旧姓はきっと、桐王菫。
桐王鶫の、母親で、その子供だという千鶴さんは、鶫の半分だけ血の繋がった妹。
玲貴は――四条玲貴は、鶫によく似た女性、千鶴と結婚して、その結果があのツナギなのだとしたら。
(玲貴……越えてはならない一線を、越えてしまったんだね)
心の奥底で、真っ黒な炎が燃え上がる。わたしと私の怒りが共鳴し、火山のように、弾けた。




