intermission
――intermission――
「疲労でしょうね。直ぐに目が覚めることでしょう」
優しく告げた先生の言葉に、ほっと胸をなで下ろす。私たちの娘、つぐみが倒れたと聞いたときは心臓が止まってしまうかも知れないと思ったのだけれど……つぐみの主治医である初老のお医者様、國本先生がそうおっしゃるのなら、間違いはないだろう。
つぐみは、いつの間にか小春だけでなく、私や春名でさえ察せないほど完璧に疲労を隠蔽していた、ということになるのだろう。今からこんなに抱え込んでしまうようでは、とても心配だわ。
「先生、つぐみは――」
「以前よりも明るく、また、柔らかく物を見るようになりました。きっと、大丈夫ですよ。今までのようにサインだけは見逃さないように、そっと見守りましょう」
「――はい」
つぐみは、予定日よりも一ヶ月も早く産まれた子だ。産まれたばかりの頃は、NICU(新生児集中治療室)の中で懸命に生きるあの子の健康を、ガラス越しに祈る毎日だった。
それが、ある日を境に奇跡的に回復した。あの日の歓びは、今も、胸の奥に温かく宿っている。私と旦那様の、大切な娘。この世に産まれてきてくれたという、それだけで、これ以上の幸福はなかった。
(でも、だめね。欲が出てしまうわ)
もっと、笑っていて欲しい。
苦しまないで。泣いても良い。怒っても良い。なにもできなくたって良いの。
もっと、笑って、幸福でいて欲しい。
あなたが幸せであること以上の幸福が、この世のどこにありましょうか。
(もっと、もっと、一緒に居たいの。私の、私たちの可愛いつぐみ)
國本先生にお礼を言って、病室に向かう。足取りには自然と焦りが生まれて、そんな自分をもどかしく思った。もしもつぐみが起きていたら、心配を掛けてしまうかも知れない。病室に入る一歩手前で息を整えて、そっと、扉に手を掛けた。
(つぐみ、は、まだ寝ているのね)
ベッドで眠るつぐみの頬に、そっと手を当てる。すると、つぐみはくすぐったそうに身をよじった。
人格が分裂をしている可能性が高い。それは、國本先生からもお話をいただいたことだ。現に、私たちに見せるつぐみは、二人、いるように感じた。大人のつぐみと子供のつぐみ。子供のつぐみは、あの事件よりも前のつぐみで、大人のつぐみはあの事件で生まれたつぐみ、だと、思う。
「あなたも、一緒に寝ているのかしら」
大人のつぐみは、子供のつぐみを守っているように見えた。とても演技が上手いのだけれど、ふふ、どこかで甘えたそうにしている可愛い子。大人のつぐみも、子供のつぐみも、私たちにとっては大切な娘だ。可愛い可愛い、私たち夫婦の娘。私の家族。
「愛しているわ、つぐみ。どちらのあなたであっても、愛しているわ」
だから、だからどうか、目を開けて。あの人と同じ、綺麗な青の瞳で、私を見て。
「だから――目を覚まして、つぐみ。私の可愛い、私の天使」
額に唇を落とすと、つぐみはくすぐったそうに身じろぐ。どんな夢を見ているのだろうか? 時折空に手を伸ばす姿は愛おしい。
やりたいことは、全部やらせてあげたい。したいことは、全部、させて見てあげたい。どうせ直ぐに動きたがることでしょうから、見えないところで最大限のバックアップができるように状況は整えた。将来、後悔しないように、悪いことをしたら叱らないとならないと思っていたけれど……叱らせてもくれない、優しい子。
「つぐみ」
どうか、幸せになって。
私の愛しい子。
――/――
暗い、暗いモニタールーム。蝋人形の傍らで、くすんだ髪色の男――四条玲貴が膝をつく。
「げほっ、げほっ、ぐ、がはっ、は、はは、は」
足下を濡らすのは、真っ赤な血だ。仕立ての良いスーツを、どろりと濡らす血。玲貴は、己の身からあふれ出た血を忌々しげに睨み付けると、乱暴に口元を拭い、蝋人形を見る。
「もうすぐ、もうすぐ、もうすぐだ。もう、時間がない」
おぼつかない足取りでサービングカートに手を掛け、錠剤と水を乱暴に呷る。放り捨てたグラスが砕け散ると、玲貴は、スマートフォンに伸ばしかけた手を止めた。もう、気軽に後片付けを任せられる状態ではないのだ。玲貴はその事実に、うっそりと笑う。
「~♪ ~~♪」
鼻歌。
口笛。
ひどく機嫌が良さそうに、玲貴はモニターの前の安楽椅子に腰掛ける。
もうすぐ訪れるオーディションは、玲貴にとって想定外の方向に進んでいた。玲貴自身が表舞台に引き摺り出されることは、彼の予想するところではなかったのだ。
(だが、アレ以上の監督もいない)
玲貴は、不敵に笑うエマの顔を思い出して、忌々しそうに頬を歪める。桐王鶫の映画を彩るのに必要な配役であるのは理解していても、苦々しい思いとなることは、止められそうになかった。
『いつまでもうじうじしてんじゃないわよ、フラレ虫』
『鶫を思うんだったら、少しでも強く前へ踏み出してみなさいよ』
『私は先に行くわ。鶫が、あの世で安心して見ていられるように』
桐王鶫の親友。
鶫が誰よりも信頼した女性。
玲貴は、鶫の一周忌で突きつけられた彼女――閏宇の言葉を思い出して、苦虫をかみつぶした。
「死者に、なんの意味がある。死者は口を利かない。なら」
玲貴は目を閉じて、思い返す。より鮮明に、より精密に、より確実に鶫へと近づく子供の姿。
「なら、死者を呼び起こすしかないだろう?」
くつくつと、くぐもった笑い声。モニターに映る『紗椰』をじっとりと見つめながら、玲貴はそう、ほの暗く、静かに笑った。
――Let's Move on to the Next Theater――




