scene5
――5――
たゆたう。
あたたかい闇の中。
まるで羊水の中で、浮かんでいるかのようだ。
『思えば、出会いはあんな感じ』
『プライドが高くて自信家で……いわゆるタカビーだった』
『あれで不眠症になって、どうしてくれる! って怒られたときは、指を差して笑ってやったわ』
『何度もぶつかって、何度も怒って、結局は互いが互いのことを認めていた』
『ライバルで、喧嘩友達。友人だと、思ってた』
『正直……うん。こんな記憶は、あなたの枷にしかならないかなぁと思ったんだけど……』
『ここまで来たら、女は度胸。潜れるだけ潜って突然浮上することこそ、ホラー女優の真骨頂だよね!』
たゆたう。
あたたかい声が響く。
落ちていく意識の中で、ただ、優しく柔らかな彼女に言いたいことがあった。
(真骨頂……って、それはちょっと違うような……?)
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――一九九九年・十一月某日。
あれから、というもの、彼とはなにかと出会う機会が増えた。この広いようで狭い業界。何かと共演することも増え、共演すると肩を組んで飲みに出かけることも増える。
その日もいつものように、撮影上がりの彼――玲貴に適当な変装をさせて、夜のおでん屋に引っ張っていた。
「かんぱーい!」
「乾杯。……まったく、いつものコトながら強引だね、君は」
「そう?」
キンキンに冷えたホッピーを喉に流し込むと、アルコールが喉をカッと熱くする。グラスを机に叩きつけるように置けば、気持ちの良い吐息が腹の奥底から零れ出た。
「おっさんか」
「誰がおっさんよ。誰が。まだ三十路前よ」
「……なら、おばさんか」
「何か言った? お・じ・さ・ん」
私の言葉に、玲貴はやれやれと首を振る。最初はずいぶんとタカビーだったけれど、付き合いが長くなると、これで中々付き合いが良くて面倒見も良い。なんというか、情が移りやすいのかもしれない。
玲貴はいつも自信マシマシの表情を翳らせ、ため息と共に冷酒を呷っている。なにも本当にいつもいつも、強引に引っ張り込んでいる訳ではない。けれどほら、友人がこういう顔をしていると気になるじゃないか。
「……で?」
「で、とは? 主語がないとわからないよ、鶫」
誤魔化そうとする玲貴の、強くひそめられた眉の間を指で突く。そうしたら、玲貴は目に見えて肩を落として苦笑した。
「どうしてそんな、不細工な顔になってるのさ?」
「不細工……く、くく、俺にそんな評価を下すのは、後にも先にも鶫だけだろうな」
玲貴はそれはもうハンサムなのだけれど、この業界、顔の良い男性が多いのは当然のこと。顔だけで言うのなら、私は玲貴より柿沼さんの方が好きだ。
「結婚について、君はどう思う?」
「結婚? 興味ないかな。私は演技が恋人だし」
「まぁ、君はそう言うだろうな」
玲貴は私のあっけらかんとした様子に呆れているのか、あるいは吹っ切れたのか、勢いよく残りの酒を呷る。ワインは強いが日本酒は弱いと豪語する玲貴は、それだけで、頬どころか耳まで赤くした。
「見合いだよ」
「あら、おめでとう」
「……結婚に、興味はない」
子供みたいにむくれる玲貴に、思わず「しょうがないなぁ」と笑う。三十にもなってとか、これはきっとそういう話ではない。家族の話になるといつも笑って誤魔化していた玲貴。彼がこうまで思い悩むのなら、ただ単純な親と子の話ということでもないのだろう。
もっとも、誰よりも「普通の親子関係」の経験値が低いのは他ならぬ私自身なのだけれど、それについては目をつぶっていてもらおう。
「なら、断ればいいじゃない」
「あのなぁ。それができたら苦労はしないよ。家を継ぐことを遅らせてまで役者になったんだ。その上、見合いの一つも成功させる気がないとなると、許されることではない」
お猪口を握る玲貴の指先がほんの僅かに白くなる。注ぎ直した熱燗の、湯気の立つ水面に映るのは、彼のどんな表情なのだろうか。水面に映る己自身を呑み込むように一息に呷ると、そのまま、机に突っ伏してしまった。
「大丈夫ー?」
「俺は問題ない。いつだってそうだ」
「声がうわずってるよ、もう」
彼にかけてあげられる言葉はなんだろう? 同情? 共感? 叱責? そんな、誰かからの意見で自分を曲げるほど、自分を変えるほど、玲貴は純粋な人間じゃない。
だからこのひねくれ者に、私のような同じひねくれ者からかけられる言葉があるとすれば、それはきっと、なんの飾りもない本音だけだろう。
「結婚したくないなら、しなければ良いじゃない」
「……人の話を聞いていたのか? 鶫」
「聞いていたわよ。でも、だからなに? 玲貴。あなたの人生を変えられるのはあなただけだし、あなたの歩みを止められるのもあなただけ」
誰かに言われたから。
親にこうしろと言われたから。
自分以外の意思で、生き方を強要されたから。
そんなことが、なんの言い訳にできるの?
いつだって、私の歩いた道は痛みと恐怖と悲しみに彩られてきた。酒に溺れた父も、男に溺れた母も、夢を叶えた姿を見せてあげられなかった祖父母も。その全部に足を止めていたら、今ここに、私はいなかった。
「玲貴」
「……なんだ」
「恥ずかしくてもがむしゃらでも、みっともなくても汚くても、進んで見せなさい。そうしたら少しはあなたのこと、認めてあげる」
「っ」
私が――正直に、告白をすると、私が他人に傲岸不遜な言い方をするのは、彼相手にだけだ。それはやっぱり、悔しいけれど、私が玲貴をライバルで、最強の競争相手で、気の置けない友人だと思っているから……だと、思う。
「君に認めて貰う必要はない――だが」
「だが?」
「素直じゃない君に、俺の格好良さを崇めさせる機会を作ってやるのも、悪くはないな」
「なにそれ?」
調子を戻した玲貴の様子に、思わず苦笑が零れる。やっぱり彼はこうでないと、いまいち調子が出ない。それを認めるのは癪だけれど……悪くは、ないかも。
「鶫」
「なに?」
「話をつけてくる。そうしたら……あー。東京湾の波止場で逢いたい」
「えぇ……うーん。まぁ良いわ。その代わり、しょうもない話だったら怒るよ」
冬もさしかかったころだ。風は冷たく、空気は肌を刺すようだ。東京湾ともなれば、潮風がまた寒い。寒さ自体には耐性がある方だと自負しているけれど……まぁ、良いか。
「まったく、どうしてこんなことになったんだか。俺は単純なのかも知れない」
「玲貴が単純? そんなタマだったっけ?」
「……今は忘れろ。ほら、そこそこ稼いでるだろうになんでそんな安酒ばかり飲んでいるんだ。せめてビールを飲め、ビールを」
「貧乏舌で悪かったわね。おいしいわよ、ホッピー」
お酒は――お酒は、そこまで好きなわけではない。それでも飲むのは亡き父のようにはならないという己への挑戦だった。でも、気がつけば、誰かと交わす杯が、楽しくなっていた。
「ほら」
「ん」
二人揃ってお酒で赤らんだ顔を逸らしながら、お猪口とグラスを掲げてコツンと合わせる。水面が揺れて跳ねた飛沫が指にかかると、それがなんだか無性におかしかった。
「未来に」
「ええ」
合わせた杯の味なんか、もう、覚えてはいない。
それでも、指に跳ねたアルコールの冷たさは、今でも覚えている。私から、熱を奪った冷たさを、不可思議な温かさと共に覚えて、いた。
そしてあの日。
二〇〇〇年を迎え、ざわつく世間の最中。
年明けに呼びつけられたあの東京湾の、潮風の中。
――『俺と、結婚して欲しい』
――『へぁ?』
――『俺は、君のことが好きだ。君のことを――愛しているんだ』
――『君のような素敵な女性が家に入ってくれたら、あの頑固な両親も納得することだろう。もっとも、納得させるつもりだけれど』
――『家に入る……って?』
――『苦労はさせない。女優なんかやらなくても、俺の帰りを待っていてくれたら良い。好きなモノは何だってあげるよ。どんなものだって用意する』
――『はぁ、そう』
――『ああ、だから』
――『断るわ』
――『私は女優の道に誇りを持っているわ。だから、ごめんなさい。家に入ることはできない』
――『ッ結婚して、家に入って、子を産み育てることが女性の幸せだろう?』
――『それはあなたの規範よ。私の信念ではないわ』
――『だったら、ああそうだ、だったら仕事ができなくなれば良い! 断るのなら、鶫に仕事が回らないようにすることだって――』
――『――玲貴』
――『っ、ぁ』
――『やれるものならやってみなさい。泥水を啜るのは慣れているわ。何度崖っぷちに立とうと、幾度だって立ち上がって這い上がる。そのときを、恐怖と共に悪夢に見てなさいな』
――『お、俺は、ただ、君と』
――『良い機会だから言ってあげる。私は、私の信念を穢すモノを許さない。覚えておきなさい』
――『まっ、待ってくれ、鶫、鶫ッ――鶫ィィィィィッ!!』
……彼は以前、私にこんな話をしてくれた。内容は、確かそう。「弱くて情けなかった自分を、助けてくれた人がいた。彼女が俺を助けたあと、一人で震えていたのを見つけたんだ」。だから、と、玲貴は言った。だから、自分も、誰かの一歩を支えるような役者になるのだと。
そんな彼の夢を、眩しいと思った。私は恐怖で人と人を繋ぐような、そんなホラー女優として世界に立ちたいと願った。でも、一方で、一番つなぎ止めておきたかった両親はもう、いなかったのだから。
彼のことを思い出すと、どうしても、私の両親の記憶と繋がってしまう。だからあまり思い出して欲しくはなかった。だってこんな記憶、足手まといにしかならないから。
父は、会社が潰れる前までは誠実なサラリーマンだったという。でも、私が物心付いた頃には憔悴したような顔が多くて、直ぐに、家族に暴力を振るうようになった。それでも、お酒の入っていないときに見せる優しさと、大きな手でぎこちなく撫でてくれることが好きだった。いつか、正気に戻ってくれると信じていたから。
でも、そんなものは、夢見がちな少女の見た浅はかな妄想にすぎなかった。学校帰り、降りしきる雨の中、駐車場に停められた車、苦悶の表情で動かない、父の。
私の行き場のない夢。
彼の、まっすぐな夢。
私の届かなかった夢。
彼が手を伸ばした夢。
私はまた、つなぎ止めることができなかった。
――『鶫は、諦めたの?』
いいえ。
だから私はあの日、玲貴と決別したときに置き去りにした私の想いに、一つ、誓いを立てた。
「私は――何も持っていなかった。そんな人間でも、世界に立つ女優になって、誰かを繋ぐ楔になれると証明する。証明してみせるわ」
それが、私の誓い。
私の夢と誰かの夢をつなぎ止める、楔になるということ。
「恥ずかしいものを見せちゃって、ごめんね。こんな夢も希望もないようなものは、不要だって隠してきたのだけれど、どうもだめね。いつも、どこか踏み間違える」
いつだってそうだ。後悔なんかしてやるものか! って踏ん張ってきたけれど、結局、こうして、過去が追いかけてくる。
――『でも、わたしは鶫のことを知れて、嬉しかったよ』
反響する声。
彼女にそう言われるのはとても嬉しい、けれど。
「あんまり、深く潜っちゃダメだよ。つぐみ。あなたは、あなたの人生を送って」
けれど、だめだ。
私が今、彼女の望みに答えて差し出せる情報は、ここまで。ここまでだって、彼女の人生になんの得もない。だから。
「ほら、呼んでるよ」
――『え?』
「行かないと」
――『あ――待って、鶫! わたし、わたしは……』
意識が浮上する。私の元から離れて、光の世界に浮かんでいく。その姿を見送ると、私はまた、記憶の中で膝をついた。いつか彼女が私のことを――――――――、その日まで。




