scene5
――5――
――風間椿
桐王鶫が彼女と出会ったのは、ホラー映画“紗椰”でのことだ。当時十六歳という若手の女優でありながら、実力派として注目されていた。切れ長の目と長い黒髪が特徴的で、子供ながら、どこか色気のようなモノを醸し出すような、大人びた女子高生だったように思える。
記憶を掘り返していくと、彼女に関連するエピソードがいくつか出てきた。その中でも、彼女の性質を表したかのようなワンシーンがあった。
撮影の合間。口さがないスタッフの言葉を受け止める椿ちゃんのその会話を、偶然、鶫が立ち聞きしてしまったときのこと。
『――かたやホラー女優、かたや新人子役じゃ、椿ちゃんの足を引っ張っちゃうんじゃない?』
『ベテランは柿沼さんくらいだもんなぁ。私、この撮影で初めて知ったよ。“桐王鶫”なんてさ』
『ねぇ? 椿ちゃん』
専属ではない、スタイリストさんとそのアシスタントさんの言葉を、椿ちゃんはただじっと聞いていた。けれど同意を求められると躊躇う様子もなく口を開く。
『新人でも無名でも、なんであっても構いません』
『ありゃ、そうなの?』
『結果さえ刻んでくれるのであれば。私の演技に怯まないのであれば。最後まで演じきるというプライドを保てるのであれば、なんだって構いません。私は、この仕事にすべてを掛けているのです』
本当に、力強い言葉だった。彼女の――危うささえある、言葉だった。桐王鶫が発破を掛けられたような気分になって、全力以上の精度で演技に臨むほどに。鶫は、逆境に異様に強かったから。
息を呑むスタッフさんたちの様子を尻目に、鶫は音もなく立ち去る。椿ちゃんも聞かれていたら嫌だろう、と。
(これが、風間椿)
記憶の掘り下げを止めて、応接室に入る。棚にはいくつかの雑誌と、芸能名鑑も並んでいた。柿沼さんはそれを棚から引き抜くと、白い机を挟んでわたしたちに座るよう促したソファーの、対面に腰掛けた。
ツナギ――いや、内心でツナギって呼んでたらぼろが出るかも。レオ、は、わたしの方を一瞥してから、頷いてソファーに腰掛ける。四人がけのソファーは、わたしたち二人には少し広すぎて、座る位置に手間取ってしまった。
「それで、芸能人のことを調べたい、ということだったけれど、誰のことが?」
レオ……と、やりとりしすぎて声でバレても申し訳ない。合図をするようにレオの手の甲を柔らかくひっかくと、レオはびくりと肩を跳ねさせた。えっと……? まぁいいや。
「かざまつばきさん、です」
「かざま……ああ、風間椿か。良かった、私も知っている人だよ。ただ、そうだな、これには載っていないな」
そう言って、柿沼さんは――一度立ち上がり、芸能名鑑を棚に戻す。それから、ナンバリングの古いものに取り替えて戻ってきた。
「ここだね。まだ難しい漢字も多いだろう。読み上げるよ」
柿沼さんはそう言うと、芸能名鑑を向ける向きに戸惑って、席を立ってわたしの隣に腰掛けた。そうだよね、対面からの読み聞かせって難しいよね。桐王鶫もさくらちゃんに……怪談の読み聞かせを膝の上で……臨場感たっぷりに……うん、これ以上は止めよう。
「風間椿。一九七九年三月二十四日生まれ。十四歳の時、二夜連続テレビドラマ“白夜と月向”でデビューし、瞬く間に頭角を現した――」
柿沼さんの、当時の共演作での思い出も交えた情報が、読み上げられていく。ストイックで情熱的。人を寄せ付けない雰囲気ながら、演技の上では誰よりも真摯だった。夢は、カンヌ国際映画祭で主演女優賞を獲得すること。なんだか少し、鶫に似ている。
紗椰を終えると、ホラー映画だけでなく他ジャンルから仕事をもらえるようになる。それを戸惑いながら、けれど、確実に受けていったのだとか。って、あれ?
「とまどいながら?」
「ああ――あの映画で、自分やさくらだけが賞賛を浴びるのは不公平ではないか、なんて言っていたよ。メディアには言わないように、マネージャーから口止めされていたようだけれど……『あのとき、誰よりも人の心を掴んだのは、桐王鶫だったのに』、とね」
どきり、と、胸が跳ねる。同時に、少しだけ、レオの顔が曇った。下唇を噛み、深い青色の瞳を僅かに伏せ――直ぐに、戻る。
「それからも様々な場で演技を続け、世間も、会社も、私たちも、彼女には多くの期待を寄せていた。けれど」
柿沼さんが指差した項目。そこに書かれていた文に、息を呑む。
「いんたい……?」
二〇〇三年、芸能界から引退。風間椿という名女優は、もう、十七年も前に引退していたのだ。
「君たちは、“徒花”という作品は知っているかな?」
「えーと、つぐみ、知ってる?」
「んー……あ、そうだ、おうかさんの!」
確か以前、凛ちゃんと競ったオーディションの時に耳にした。さくらが霧谷桜架と改名したあとに撮影した映画、だったと思う。
「せっかくだ。簡単に説明しようか」
“徒花”。二〇〇二年に公開された映画で、ジャンルは恋愛。主演は二人。片方は椿、さん。もう片方は桜架さん。作品の概要としては、こうだ。
――1999年初頭、中学生に上がったばかりの十三歳の少女、山辺雫(霧谷桜架)はある日、道に迷う男性を助ける。彼は安芸拓也といい、近隣に引っ越してきた売れない画家で、初めて見る景色に居ても立っても居られずスケッチブックを手に飛び出して道に迷ったのだという。無精ひげによれよれのシャツを着た安芸は、雫の親切にいたく感動すると、お礼に、絵を描かせて欲しいと告げた。興味を持った雫が一枚の絵を描いて貰ったところから、この物語は始まる。だらしない私生活とは裏腹に、絵を描くときだけは真剣な表情を見せる安芸。そんな安芸を放っておくことができず、様子を見に来る雫。十三歳の少女と三十六歳の男性の奇妙な関係は、連れ子の立場だった故に家に居場所がない雫にとって、救いだった。そんな歪な関係も、もう一人の主人公、喜瀬澄子(風間椿)が現れることで崩れていく。安芸の幼なじみであった澄子は、安芸を追いかけてこの街に引っ越してきたのだ。半ば安芸の家に住み着くように安芸の世話をする澄子。二十六歳の澄子は、もっと幼い頃によく安芸に遊んで貰っていた記憶があった。安芸に思いを寄せる澄子。安芸に心を寄せる雫。やがて三人の仲は、一枚の絵を起点に崩れていくことになる。それは、「人間は描かない」といって自分の絵を描いて欲しいという願いを断られてきた澄子を動揺させる、十三歳の少女、雫の絵だった。
……と、こんなあらすじだ。ようは、年の差を描いた三角関係。桜架さんはこの作品で、少女から女性へと変わっていく姿を見事に演じきり、そして、カンヌ国際映画祭で主演女優賞を獲得した。その快挙に世間は沸いたのだという。
「――風間椿は、この作品を、自身の最高傑作だと言っていた。これ以上を演じることは、きっと、できないと。その上で霧谷桜架の演技を見て、感じて、触れて……心が折れたのだと」
「そんな……」
もう、演じることが嫌になってしまったのかな。あんなに――あんなに、楽しそうに演じていたのに、本当は苦しかったのかな。わたしでは、よくわからない。桐王鶫なら、もっとよくわかったのかな。
誰かを理解するのは難しい。自分と違えば違うほど、国境があるかのように人の心は線引きされる。本当はそんなものないのに。同じ人間。笑ったり怒ったりする人間同士のはずなのに、いつだって、心は引き裂かれる。
わたしで椿さんのことが、理解できないのなら、私なら椿ちゃんのことをわかってあげられ――
『はい、ストップ』
――っと、なんだっけ。あれ?
「つぐみ?」
「レオ――えっと、あはは、かんがえすぎちゃった」
危ない危ない。で、えーっと、そうだ。椿さんだ。鶫の生前でも、そうやって心が折れてしまう人間は幾人も見てきた。そういう人を理解してあげる……なんていうのは、その人の選んだ人生、つかみ取った選択肢に対して失礼だ……って、考えていたんだよね。うん。
「はは、まだ、君たちには理解できないことなのかも知れないね」
「えっと、はい……それであの、つばきさんは、いまは?」
「そうだね。うーん、今、彼女は新しい夢を見つけてそれに取り組んでいるんだ」
新しい、夢。そっか、そうなんだ。
「もし、彼女に詳しい話を聞きたいのなら、行ってみるといいかもしれないね。きっと、道に迷う先達として、話を聞いてくれるはずだ」
「行って……ですか?」
ああ、と、柿沼さんは鷹揚に頷いてくれる。
「竜胆大学芸能科。そこで、演技指導の講師をしているんだよ」
告げられた言葉に、思わず、口をぽかんと開けてしまう。
「自分の指導で、心を折ってしまうような卵を羽化させて、羽ばたかせてやるのだとね」
すごい、すごい夢だ。心が折れてしまうと言うことは、きっと、なにもかも投げ出してしまいたくなるようなことなんだと思う。それでも、新しい夢を見つけて歩いて行けるというのは、すごいことだ。
「時間がハッキリするようだったら、付き添っても良いのだけれど……」
そう言って、柿沼さんはスマホを取り出す。それから、やれやれとため息を吐いた。
「先方が遅れていてね。もうすぐ到着するようだ。なに、また時間はとれるだろう。出口までは見送ろう」
「あ、そっか、そうですよね。あの、ありがとうございました!」
わたしが立ち上がってお礼を言うと、直ぐに、レオも慌てて立ち上がって頭を下げる。
「ありがとうございました」
「はは。いいよ。正門からだと騒がしいかも知れない。裏口から出て――」
そう、立ち上がる柿沼さんが、思わずといった風に足を止める。誰かが応接室の前に立ち、扉を開けたのだ。
「――待たせてしまいましたね」
扉を開けて直ぐ、胸の奥を痺れさせるように響く声。どこかで、感じたことのあるような、既視感。
「あなたは……」
緑がかった黒髪は、襟足を隠す程度の長さ。すらりと高い身長と、灰色がかった黒い瞳。紺のシャツと黒いパンツに、グレーのネクタイ。男装の麗人、とでも言えば良いのだろうか。柔和な笑顔の奥に牙を隠し持ったような、胸を震わせる雰囲気。
「こうして対面するのは初めてですね。私の名は、エマ」
恭しく頭を下げる、どこかキザったらしい女性――エマは、一瞬、わたしを見て笑う。挑戦的に……いや、違う、苛烈な笑みという表現が、正しいのかも知れない。
「今日は“紗椰”のリメイクについて、お話に参りました」
衝撃的な言葉が飛び出した、ような、気がするのだけれど……それはいったん、置いておこう。
堂々と告げるエマさんの……後ろ。何故か、頭を抱えてため息を吐く、虹君の姿。えっと、あの、その、なんでいるの???




