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587 出発

 五月の半ばを過ぎれば私の仕事もなくなる。暇を持て余してしまうが、二足鹿(ヴェイツ)の世話をしてみたり、畑や植林した地域を見て回っていれば数日をやり過ごすくらいはできる。


 当然荷造りも進めるが、それほど荷物も多くはない。最も大変なのは衣装を小さくたたんで革袋に詰め込むことだ。


 私たちがバランキルへの帰還に使える馬車はないため木箱は使えない。来るときに使った馬車は、フィエルナズサらが帰還する際に全部出してしまっており、荷物は背負うか馬に載せるしかない。


 大変ではあるが馬車より速度は出るため、総合的な負担はそれほど大きくはないと見積もっている。それに、無茶な旅もアーウィゼの町までだ。そこまで帰れば馬車の一台や二台くらいは借りられるだろう。


 フィエルナズサやマッチハンジが故郷に帰るのは、そこからさらに二、三週間かかるのだから、馬車は彼らに使わせた方が良い。


 そういう判断だったのだが、予定通りというべきか五月二十日にオードニアムの一行がやってきた。


「お初にお目にかかります、私はミシュレアス・オードニアムと申します。バランキル王国までの旅路、どうぞよろしくお願いいたします。」


 元気に挨拶するのはオードニアム公爵の一番目の孫らしい。とても緊張しているようで表情を硬くしているが、その様子を見ると私が初めて王族に挨拶した時のことを思い出してしまう。


 何度も練習して覚えてきたのだろう、一生懸命に挨拶の言葉を述べるが私はにこやかにそれが終わるのを待っていなければならない。


「堅苦しい挨拶の言葉は不要だ。」


 そういってしまうのは簡単なのだが、私は幼いころにそう言われて逆に傷ついた覚えがある。せっかく頑張って練習して覚えてきたのに、お披露目させてくれないのは悲しいものだ。


其方(そなた)の心意気よくわかった。領地のため、国のために大いに学んでくると良いだろう。」

「とはいえ、バランキルまでの道はとても長いです。肩に力が入りすぎていたのでは、到着する前に倒れてしまいますよ。」


 私たちと一緒だからと緊張しっぱなしでは身が持つまい。オードニアムから王都までは一週間程度の距離だが、ウンガス王都からバランキル王都までは一か月はかかる。幼い身には途方もない距離といえる。


 ミシュレアスは七歳になったばかりだというが、その年齢の頃の私は王都までも行ったことがない。普通に考えれば、ウンガス王都についた時点で旅を終わりたくなるくらいに疲れているだろう。


 一晩ゆっくり休んでもらい、翌日は日の出とともに街を出発する。幸いなことにオードニアムの馬車には余裕があるということなので私たちの荷物も一緒に載せてもらう。馬の数を減らせられるならば、それに越したことはない。


 私たちの出発にヨドンベックは間に合わなかったかと思っていたが、河港で船に乗ると彼らは既に船に乗っていた。

 ヨドンベックはネブジ川を南に下って行った先の領地であるため船で来るのは確定的であるが、まさか昼から私たちが乗る船に乗っているとは思わなかった。


「お初にお目にかかります。私はキャノメル・ヨドンベックと申します。どうぞお見知りおきをよろしくお願いいたします。」

「済まぬが挨拶は後だ。荷物の積み込みが終わらないと、船が出られぬ。」


 手狭な船の通路で長々と挨拶をしていれば、馬車や荷物の積み下ろしに支障が生じる。立場上、人夫が私たちに苦情を言うことはないが、予定が遅れてしまうのは間違いない。

 南から王都向けに運んできたという木箱をいくつも下ろし、空いた場所にオードニアムの馬車が入る。


 その作業の邪魔にならないよう舳先(へさき)の方へと移動して改めて挨拶をする。キャメモルは少々気まずそうに口を横に結ぶが、周囲への気配りができていなかったものは仕方がない。


 落ち込んでいる様子ではあるが、その程度のことは失敗というほどでもない。私だって、いくつものを失敗を笑って見逃してもらっている。そもそも七、八歳程度の子どもが親のいないところで目上の大人に挨拶する機会なんてそうそうあるものでもない。

 未熟なのはわかりきっているのだから、私たちは鷹揚に構えて彼らの失敗を受け止めてやるのが役割だ。


「私はジョノミディス・ブェレンザッハだ。こちらは妻のティアリッテ・シュレイ。すでにウンガス王宮を離れているのだ、我々を王族に準じた立場と扱わなくてもよかろう。」

「王族ではないのですか?」

「血筋でいうと傍系とはなるが、母の代ですでに王族の籍から外れている。」


 ミシュレアスもキャノメルも緊張のあまり雑談をすることも難しいようなので、成人の領主一族というところまで下りてやろうというジョノミディスの計らいだろう。


「ところで、お二人はどの程度、魔法を使えるのですか?」

「まだ習ったばかりですので、多くは使えません。火球や水の球を撃てるくらいです。」

「私も同様です。」

「ならば、魔法の訓練を行いながらバランキル王国に向かいましょう。」


 訓練をというと不安そうな顔をするが、途中で倒れてしまうような無茶なことをするつもりはない。まずは、船上から川面に向けて水の球を撃つことからだろう。


「船の上では本当にやることがありませんからね。舞踊(ダンス)の練習などをしたいならばそれもいいでしょうけれど、一日中ではありませんよね?」


 私の言葉に微妙な反応を示すのは側仕えの方だ。特に舞踊の練習をする予定もなかったのだろうか。馬車では無理だが、船上ではある程度動き回れるし子どもが舞踊の練習をするくらいならばできる。


「幼いころは私もやっていたな。本も読んでいられないし、延々と話をしているのも(いや)になるものだ。」


 ジョノミディスも笑いながら言うと、困ったような顔をするのはミシュレアスの側仕えだ。どうしたのか聞いてみると、船の上では本でも読んでいようということだったらしい。


「やめた方が良いと思う。」


 苦い顔でキャノメルが言うのは、やはり本を読んで気分が悪くなったためだろうか。初めて船に乗る子どもは、誰しもが平気だと思って本を読むものらしい。


 それでも予定では地理の本を読むことになっていたというが、あまり無理強いしないようにしてほしいと思う。船を途中で止めることはできないし、下りることもできずに苦しみ続けることになってしまうのだ。


「止まらない、のですか? 我々はオードニアムの一族ですよ。」

「誰が命じたところで、港がない場所で船を停めること自体ができぬのだ。それでも無理に停めようとすれば、船が壊れて沈んでしまいかねん。」

「私もそのように言われました。」


 キャノメルの表情が一層沈むのは、やはり同じようにヨドンベック公爵家なのだと命令しようとしたためだろう。


 ミシュレアスもそうだが、彼らに仕えている側使えはそれぞれの領主一族の傍系あたりだ。生活作法などを教える役目も担うため、家格の低い者がつけられることはない。当然のように公爵家という自覚と自負があるだろうし、要求が通らなければ強く出ることもあるだろう。


 しかし、船頭や水夫としても命じられたからと言われたとおりに船を接岸などさせるわけにもいかない。それで船が大破した場合に一番困るのは乗っている貴族だし、迷惑を受けるのは周辺領地だ。

 港や船の老朽化の度合いや補修についてなど毎年報告を受けているし、領主会議での話題にも上る事項だ。報告をしている者たちがそれを知らないはずもないし、公爵家が相手であろうとも食い下がってその説明をするはずだ。


「船とは不便な乗り物なのですね。」


 諦めたように嘆息するオードニアムの一行だが、船が便利なのは大量の荷物の輸送だ。人が乗るのに適しているとは言い難いと私は認識している。人が移動するだけならば、二足鹿(ヴェイツ)にでも乗った方がはるかに速いのだ。

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