551 巨大な魔物
魔物が動いたことで、私もその存在を認識できた。そして、ハネシテゼの言う〝とんでもなく大きい〟という言葉の意味がやっと理解できた。
海岸付近から沖まで三百歩ほど。
それがこの魔物の大きさだ。飛沫をあげて軟体の腕が三本海上に出てきたかと思うと、私たちの方へ伸びてくる。
うねりながら近づいてくる腕に雷光を浴びせてみるが、予想通りというべきか全く効いている様子がない。炎や水の槍をぶつけてみても、まるで動きに変化がない。
幸いというべきか動きはそれほど速くないので、腕が伸びてきた分だけ高度を上げていけば敵の攻撃は届かない。
魔法がまるで効いている様子がないことに、ハネシテゼも顔を顰める。陸上ならばともかく、海中では赤獅子の力を借りるのも難しい。
となると、残された手段は一つだけだ。
「許可しますので、撃ちまくってください。」
ハネシテゼの許可があり炎雷を撃ってみると、これは効果があるようで魔物の腕を大きく抉ることに成功した。とはいえ、相手が大きすぎるため相対的に傷が小さい。これならば少し下りてできるだけ根本から打撃を与えた方が良いだろう。
「念のため確認しますけれど、二匹目などありませんよね?」
「水の中は分かりづらいですが、そのような気配はないですね。」
ハネシテゼはそう言うが、この海の深さも分からないのだから安心はできない。海底を這うように移動していたら、私たちでは全く気付けない可能性もあるのだ。
少し怖くはあるが、有効な攻撃をしなければ撃退も何もできない。
私たちが何もしなければこの巨大な魔物が沖に戻っていくならばそうしても良いのだが、このまま居座る可能性を考えたら放置はできない。
「わたしたちが下がるより、魔物を浮上させましょう。水でも落としてやれば、食べ物と勘違いして出てきてくれないでしょうか。」
少しだけ高度を下げてからハネシテゼが言う。水の玉を真下に落としてやれば何かしらの反応をするだろうと、二人で無数の水の玉を下に放る。
狙いをつける必要も全くないため、私も両足を使ってどんどんと水の玉を撃てる。
「お、動きましたね。」
「腕の数が多くありませんか?」
今まで私たちを捉えようとしていた腕は三本だったが、それが五本も増えて八本の巨大な腕が海上を暴れ回る。
腕の太さは根本では赤獅子の胴ほどあるのではないだろうか。
それが獲物を探すように動き回り、また海面を叩きつけ盛大な飛沫を上げたりする。
「端からいきましょう。中央は危険です。」
「端からだと逃げられてしまうでしょう?」
「沖の方から撃っていけば、逃げづらいと思います。」
海底に引っ込んでしまわれると私たちには手の出しようがなくなる。だが、沖に逃げるという選択肢を奪ってやれば、間違って浅瀬の側に動くかもしれない。
それに、海の魔物を相手に命を賭けるのは割に合わなすぎる。陸上に上がってくる種類ならばともかく、海の中から出てこれないならば、危険に近づかない手段が取れる。
「ティアリッテの体調も万全ではないですし、仕方がないですね。」
軽く息を吐くと、ハネシテゼはするすると高度を下げながら沖の方へ移動する。同じ場所に向けて水の玉を撃ち続けていると、腕は私たちを追ってこない。
そのまま、機会を伺ってじっと待つ。最も良いのは腕が全部横を向いた瞬間だ。そうそう都合よくいくはずもなく、手前側の腕三本が横を向いたところでハネシテゼは猛然と加速する。
炎雷を撃つのは十分に近づいてからだ。当たれば、当然のごとく魔物も横から攻撃されていることに気付く。
その後、対処されるまでに何本の腕を潰せるか問題だ。
海面を打った腕が大きく持ち上がる。次に振り下ろされるのは逆側だ。
全力で炎雷を放つのは、そのすぐ傍をすり抜けてからだ。後方、右前方、左前方、そして真下の本体に向けて撃ち、ハネシテゼに抱えられるようにして左に大きく旋回する。
炎雷でちぎれた腕が海に落ち、盛大な飛沫と轟音を上げる。その中に、何か異質なビィーという音が混じっているのは気のせいではないだろう。
魔物は残る腕を振り回し、海面に叩きつけて水を大量に跳ね上げる。
力と量にまかせた攻撃はとても厄介だ。十数発程度の水の玉ならば爆炎でいくらでも対処できるのだが、魔物の腕が跳ね上げる水の量は桁が違う。頭から水の塊を被れば、海の中にまで落ちてしまいかねない。
「一度、上へいきます。」
ハネシテゼもたまらず空へと退こうとする。大量の水を武器にされれば、こちらの攻撃も届きはしない。
飛沫を浴びながら水の壁を抜け、上へと加速する。周囲の様子なんて見えたものではないが、それでもハネシテゼは進む方向を間違えない。
そんな私たちの動きを読んでいたかのように、横薙ぎに振り回す腕が迫ってくる。巨大な腕はそれほど早くはないが、当たればその力で吹き飛ばされるのは明白だ。
何しろ、迫ってくるそれは壁にしか見えないのだ。
それでも、全力で上に逃げれば躱すこともできる。ついでに炎雷を放っておけば、襲ってきた腕のほうに大打撃を与えることすら可能だ。むしろ厄介なのは、千切れ飛んだ腕が巻き上げる飛沫の方だ。
形のない水は、炎雷で砕くことができない。水の壁に一瞬だけ穴を開けることはできるが、またすぐに塞がってしまう。
おそらく、それこそがこの魔物の誤算なのだろう。陸の敵と戦ったことなど一度もないのではないだろうか。
この魔物に、水こそが私たちの弱点なのだと知られていればおそらく勝ち目はないだろう。ただ盛大に水を跳ね上げているだけで、私たちは近づくことすらできないのだ。
四本目の足が千切れると、魔物の発する音がさらに強くなり、海面に大きな変化が起きた。
「やかましい鳴き声ですね。一体、何をするつもりなのだか。」
「興奮して上がってくるならば好都合なのですけれど。」
そう言っている間にも、海面が盛り上がってくる。何が起きるのかと注意深く観察しながら上昇を続けていると、水を押し除けるようにして岩が海上に現れた。
いや、実際に岩が浮き上がってくることなどない。ゴツゴツした黒い岩のように見えるのは、魔物の体表だろう。所々に白っぽいところや緑がかったところもある。これがじっと動かないでいれば、海にある岩のようにしか見えない。
「あの身体に魔法が効くと思いますか?」
「腕に効果がないのに、本体に通じるとは思えませんね。」
体表が岩のようにしか見えないところが、岩の魔物の堅牢さを連想させる。もしこれに炎雷が通用しないならば私たちには倒す手段が無いことになる。
「とりあえず、水を落としてみましょう。あれが甲羅ではなくただの岩を背負っているだけならばやりようはあります。」
水を落とすだけならば、距離を考えなくとも良い。反撃が不可能な高さから一方的に仕掛けられるのはとても便利だ。
ハネシテゼと二人で大量の水の槍を叩きつけてやると水は弾かれるのだが、岩の魔物とは少し違う様子だ。
「表面はそれほど堅固ではないようですね。おそらく爆炎でも効きますよ。問題は大きすぎることですね。」
「あれを砕いていって、死ぬまでにどれくらいかかるでしょう?」
「やってみなければ分かりませんが、こちらの力が尽きるのが先である可能性は捨てきれませんね。」
海上に見えている分だけでも、端から端までの距離は百歩ほどはあるだろう。今までに退治したどんな魔物とも比べ物にならないほどに巨大だ。
炎雷で砕いていっても、急所から遠ければ百回撃っても絶命にはいたらないだろう。当然、その間には反撃もあるだろうし、逃走を図る可能性もある。
そもそもとして、この魔物の急所がどこにあるのかが分からない。
「ティアリッテは下に向けて攻撃をお願いします。わたしは腕の対処をします。」
「承知しました。」
返事をすると、ハネシテゼは後ろから私を抱き抱えるようにして加速を開始した。




