537 ネゼキュイアへ
王宮騎士がやってきたのは陽が山の向こうに隠れてからだった。東の空はまだ明るいが、山の麓は薄暗い。さすがのハネシテゼもそんな黄昏時に出発する気にはならないようで野営の用意をすることになった。
食事は、魔物退治しているときに獲れた魔猪だ。あまり美味しいとは思えないが、量を食べられるのはありがたい。十数頭の群れで現れ魔猪のほとんどは赤獅子の餌となっているのだが、それだけでは足りないようでトカゲやサルなどもぺろりと平らげてしまっている。
「ここで十分な食事が採れたのは幸いですね。明日は夜明けから西へ急ぎましょう。」
「そうですね。モディノゴムも遠慮せずに食べなさい。途中で倒れられては困ります。」
背負い袋の中身が減らないのはありがたい。モディノゴムが案内としてついているものの、ネゼキュイアでの食料の確保は大きな課題なのだ。小領主や領主から提供を受けられれば楽なのだが、そう簡単にいくとは思っていない。
翌日は陽が顔を出す前に出発する。夕方と違い、朝は山の東側は低地よりも早くに陽が当たる。赤獅子や二足鹿の足ならば一時間もすれば登りきってしまうだろうが、その頃には陽も十分に昇ってくる。
実際、山道を進む足はとても早かった。馬では登れないような小さな崖は簡単に登ってしまうし、谷川は一跳びに超えてしまう。二足鹿がそれくらいできるのは知っているし黄豹に近い体格の赤獅子も問題ないだろうと思っていたが、馬王も危なげなく走ってくる。
あまりの速さに第三王子が悲鳴のような声を上げたりもするが、赤獅子の背から転落したようでもないので、きっと驚いただけだろう。
振り返ってみると、その光景に私も驚くほどだ。僅か数分で先ほどまでいた平地は遥か下だ。昇ってきた陽に照らされて、大地が色を強めていく。本来はとても美しい光景なのだが、南に見える黒灰色がそれを台無しにしている。
ネゼキュイアの王族にこの光景を見せてやると何と言うだろう?
そんな疑問が頭に浮かぶが、恐らく見せるようなことにはならない。何とかして愚か者に思い知らせてやりたいというのは、私の個人的な感情だ。第三王子ならば共感はするだろうが、恐らく賛同はしない。
ハネシテゼに至っては、どうせ処刑するのに余計な手間などかけたくないと言うだろう。
そんなことを考えながら後ろを振り返っていたが、周囲がふっと暗くなった。山を越えて西側の斜面を下り始めたのだ。予想よりも進みが速すぎたようで、昇ってきたばかりの朝日は山に遮られて西側まで光が届いていない。
「予定よりも進みが早すぎはしませんか? 体力は大丈夫なのでしょうか?」
第三王子が不安そうに言うのも無理はない。急いだ結果、途中で力尽きて倒られてしまうのでは困るのだ。出発してから一時間も経っていないのに最初の山を越えてしまったのだから、一度休んだ方が良いのではないかと思うのも当然だろう。
「次の山の上で休憩にしましょう。そこまでは持つはずです。」
獣たちの様子をみても、息を切らせてはいない。この速度で一日中走れることもないだろうが、今すぐ倒れる心配はないだろう。それに、休憩をとるならば明るいところの方が良い。
谷を駆け下りていきひとつ西の山の上まで着くと陽の光は山の向こうまで届くようになっていた。
「信じられん速さだな。」
「何を言うのです。あなたは以前より二足鹿の乗っていたのでしょう?」
一息ついてのモディノゴムの呟きにハネシテゼは呆れた顔で返す。話を聞く限りでは、二足鹿に乗って最も長いのはモディノゴムのはずだ。今さら驚くことがあるのかと私も思ってしまう。
「いや、山の中を連続して走らせる運用はしていない。」
ウンガスにきた時も馬車と一緒だったため、モディノゴムも二足鹿を山道を走らせたことはないという。それに、赤獅子も馬王も息を切らせる様子すらなく、平然と立っている。
出発して二時間も経っていないが、平地とほとんど変わらない速さで走れるというのは驚きなのかもしれない。
それでも、水を出してやれば勢いよく飲むことから、全く平気というわけでもないだろうと思われる。時々休憩を入れるか、速度を抑えるようにした方が良いかもしれない。
それほど高くない山を三つ超えると、その先は明確にネゼキュイアの領土だ。西へと進んでいくとバランキル王国ともウンガス王国とも違う空気が感じられる。
「何でしょう? この違和感は。」
「魔物が多いのですよ。魔草や魔木がそこらじゅうに生えているようです。」
「守り手を追い払っていればこうなるのですね。」
「草木も含めて魔物を退治しなければ、国の繁栄はありませんよ。」
言っている側から、馬王が道端の灌木を勢いよく引き抜き、赤獅子もわざとに踏み潰すように歩いていく。こんなに魔草が生えているならば森山羊も連れてこれば良かったと思うくらいだ。
とはいえ、今は小さな草木に構っている場合ではない。王都へ急ぎ、異界への穴とやらを塞がねばならないのだ。
赤獅子も馬王もその辺りは理解しているのか、草木を踏みつぶし引き抜きはしても足を止めることはしない。山の麓の町は畑の外側を通り過ぎ西を目指す。
馬王や赤獅子の巨体を見つけた農民が騒いだりしていたが、それは気にすべきことでもない些事だ。
夜までに四つの町を通り過ぎ、夕方には農村の近くで野営を張る。そこでもうんざりする光景が広がっていた。
「これ、何もしなければ数年でネゼキュイアは滅亡しませんか?」
「まさに魔物の国ですね。わたしも驚きました。」
「な、何が悪いのだ?」
ハネシテゼを溜息を吐いていると、モディノゴムが突然割り込んでくる。今は先を急ぐことを優先しているため、途中の町や村で魔草を栽培するなと指導したりはしていない。だが、それは大きな問題がないというわけではない。
全ての町の大半の畑に各種魔草が栽培されているところをみると、国全体がこんな状況なのではないかと思われる。いつから魔草を栽培しているかにもよるが、数年内に通常の作物は育たなくなるだろう。もしかしたら、既にその段階に至っているかもしれない。
「魔物を蔓延らせれば、人も獣も住めない土地になりますよ。貴族なら、きちんと魔物を退治していくべきです。」
「ここから見える畑に植えられている作物は全て魔物ですよ。全部焼き尽くしましょうか?」
「ついでに言うなら、そこで馬王が食べている低木も、二足鹿が食べている木の実も魔物ですね。」
第三王子もその程度の区別はできるらしく、眉間に皺を寄せて話に加わってくる。バランキル王国にいる間に魔物退治の重要性をしっかり学んでいたようで少し安心する。これならば、ウンガスに戻ってそう遠くない将来に政務を引き継げるのではないかと思う。
「国内がこんな状況で、よくウンガスに攻め込む気になりましたね。反対する貴族はいなかったのですか?」
責めるというよりも、純粋に疑問に思う。何千年も前の術を行使するほどの知識があるのだから、歴史が残っていないはずがない。過去に凶作や魔物の大発生が一度もなかったなんて考えられない。
「たしかに戦争を危険視する者はありました。しかし、各種問題への具体的な対応策を持っている者はなかったのです。」
他の方法も何もなしに他人の意見に反対しても、そんな声を重んじられることはない。魔の王ハネシテゼの仕業に違いないとする勢いに対して歯止めは何もなかったと項垂れる。
「蔓延っている魔物がは草木だけではありません。」
ハネシテゼが指す先を見ると赤獅子が魔物の群れをこちらに追い立てているところだった。
「なんですかあれは。」
「退治しろと言うことでしょう。」
思わず口から飛び出した言葉に、ハネシテゼが真面目に答える。
五頭の赤獅子に囲まれ追われている魔物は百匹くらいはいるのではないだろうか。盛大に土煙を上げながら近づいてきている。
「ティアリッテ、お任せします。」
「私一人でやるのですか?」
「できるでしょう?」
当たり前のようにハネシテゼは言うが、それに居心地悪そうにするのは王宮の騎士だ。第三王子も私とハネシテゼを見比べて落ち着かなさそうにするが、こちらは私も声がかけづらい。
「仕方ないですね。」
溜息を吐くと、浮遊の魔法を調整しつつ草原を駆ける。最後に大きく跳躍してやれば、あとは雷光を撒き散らすだけだ。百や二百程度の魔物など、ものの数秒もあれば方が付く。




