エリザベス
「あの、ご隠居様、エリザベスって?」
前々から気になって仕方がなかったので、つい、口をついて出てしまった。ご隠居様はハッと我に返られ、わたしの顔を、しばらく、穴が開くほどに見つめられてから、
「エリザベスか。若き日の過ちかもしれないし、真実の愛なのか、いや、何を言っとるんだか……」
「何やら複雑な事情がありそうですが」
「うむ。そんなに複雑ではないが、哀しい話さ。わしも先は長くないだろうから、お前にだけは話しておこう。その方が、あいつも喜ぶだろう」
と、しみじみとした口調で話をされた。
ご隠居様によれば、話は何十年も前に遡る。今からは想像しがたいが、ご隠居様は若かりし頃、容姿端麗、頭脳明晰で、周囲からは侯爵家のホープとして嘱望されていたという。その頃、エリザベスという名前の奴隷のメイドがいて、密かに、ご隠居様と、俗に言うラブラブな関係になっていたそうだ。エリザベスは奴隷階級でありながら、知勇ともに優れていたそうで、非征服民の王族の出ではないかとうわさされていた。弓術も相当なもので、わたしと同じくらいか、それ以上だったとのことだ。姿かたちもわたしによく似ていたらしい。
ご隠居様はエリザベスを重用し、何事につけても、とりあえず「エリザベスを呼べ」だったという。ただし、日々の雑務は全然ダメで、お茶をこぼしたり、ひっくりかえしたり、転んだり、わたしと同じような失敗を繰り返していたという。いわゆるひとつのドジっ子属性だろうか。
ということは、つまり、ご隠居様はわたしの中にエリザベスを面影を見出されたわけで、わたしは言わばエリザベスの代用品ということか。でも、そんなに悪い気はしない。
ご隠居様とエリザベスは、恋人のように幸せな楽しい日々を過ごされていたという。しかし、世の中、そんなうまい話ばかりではない。ご隠居様とエリザベスはラブラブでも、周囲には二人の恋路を邪魔しようとする勢力が一杯だったらしい。
そもそも、身分がほぼ絶対的な世界で、身分違いの恋を貫き通すことは容易ではない。しかし、それでもなお、ご隠居様のエリザベスを愛する心は変わることなく、貴賤結婚のほか、場合によっては駆け落ちなどの非常手段の計画も練られていたという。
しかし、結局、ご隠居様の希望は叶わなかった。ある日、エリザベスが、
「都合で、1週間ほど休暇をいただいてもよろしいでしょうか」
「1週間逢えないのか。用があるなら仕方がないが」
当時のご隠居様は、何も疑うことなく、申し出を許可された。エリザベスは、それっきり、ご隠居様が待てども待てども、戻ってくることはなかった。




