09.小麦の収穫と『確かな筋』の雨予報1
森を彩る葉の色がみずみずしい若緑から深みのある緑に変わっていく。
季節は春から夏に移ろうとしていた。
何度かパスタを作ったおかげで、パイ生地が作れるようになった。
パイ生地の材料は小麦粉と冷水とバター。
手順はパスタ作りとほぼ同じで、材料を混ぜすぎないようにまとめる。
この時、バターが溶けないように注意すること。
まとめた生地を冷暗所で寝かし、その後麺棒でのばしていく。足で踏む作業がない分、パスタ作りより楽である。
このパイ生地を使ってほうれん草とベーコンのキッシュを作ることにした。
湯がいたほうれん草と食べやすい大きさに切ったベーコン、薄切りにした玉葱をフライパンで炒め、玉葱がしんなりした頃火を止め、卵、削ったチーズ、生クリームで作った卵液と混ぜ合わせる。
チーズはブラウニーに作って貰った特製チーズだ。
本に書いてあった通り、彼らは絶品のチーズを作る。
塩胡椒、ナツメグで味を調え、タルト型にパイ生地を載せ、その上から混ぜ合わせた具と卵液を流し入れ、オーブンで焼けば出来上がり。
もう一品は畑で採れたアスパラガスに薄切りの豚肉を巻いてフライパンで炒めたアスパラガスの肉巻き。
キッシュもなかなか上手く出来たが、採れたてのアスパラガスは感動するほど美味しかった。
「このアスパラガス、美味しいなー」
味付けは塩と胡椒だけだが、それで十分だ。
肉を食べきってしまったので、私は翌日町に出ることにした。
用事を済ませた後は、いつものように貸本屋で本を返却する。
さて、次に借りる本は何にしようかと本棚を物色中、貸本屋の主、ジェリーに声を掛けられた。
「リーディアさん、茶でも飲んでいかんかね」
「はい、お茶です」
「ああ、ありがとう、リーディアさん」
ジェリーが茶を淹れてくれるはずだったが、彼の手つきがものすごくおぼつかなかったので、私が代わりに紅茶を淹れた。
貸本屋にはジェリーの他にもう一人、若い助手がいる。
物静かで、片足が不自由な男性で、普段お茶は彼が淹れてくるのだが今日はいない。
「麦の生育はどうだい?」
「はい、少年達によると収穫は今週末がちょうどいいそうで」
小麦は緑色が抜けて完全に黄色、いわゆる小麦色になった頃が収穫時期らしい。
麦の水分量によって味が違ってしまうそうで、三日以上の雨に降られると著しく品質が落ちる。収穫目安としては実がろうそくの「ろう」くらいの硬さになった時、だそうだ。
「近隣の農家もそのくらいに収穫する予定だそうだよ」
「では皆大忙しですね」
うちの畑は自分達が消費する程度の作付け面積だが、本業の農家は大仕事だ。
「ああ、刈り入れの時は町の住人も総出で手伝うんだ」
当たり障りのない会話からジェリーは「さて」と言うと少々真面目な顔になり、本題に入った。
「アンタさんも随分ここに馴染んできたから教えておいた方がいいと思ってね」
「はい……」
一体、何だろうか?
「ここは国境だ。隣国とゴーランは仲がいいが、万が一ちゅうこともある。なんかあった時は山の方に逃げんさい」
「山の方?」
「ああ、この町に逃げ込んじゃいかんよ。アンタさんもう気づいとるだろうが、町には壁がない。この町の者は皆、何かあった時はロビシアの町まで逃げることになっている。『楡の木』からじゃあ遠すぎる。山に逃げた方がいい」
とジェリーは言った。
ロビシアはこのフースから国境とは逆側の東にある町だ。
「敵が人間なら、山でじっとしてなさい。敵が魔獣なら山の上の砦に逃げるんだ」
「砦」
国境近くにある騎士団の駐屯地をこの辺りの住人は砦と呼んでいる。
いや、それより。
「……魔獣?」
「滅多にないがね、スタンピードといって魔獣が一斉にダンジョンから飛び出てしまう現象だ。そうならんように騎士団もおるからね、実際に町まで魔獣が押し寄せたなんて言うのは大昔の話さ」
つまり、それはかつて「あった」ということだ。
「スタンピードは連鎖する。だから一つのダンジョンでスタンピードが起こったら絶対にそこで止めねばならない。フースの町の冒険者はここでスタンピードを食い止めるためにおるのさ」
「…………」
だからフースの町は、防衛のための設備がないのか。
ダンジョンを持つのは人口が少なく強力な軍事力を持つ辺境地のみに限られている。魔物の大暴走、スタンピードを警戒してのことだ。
騎士団と冒険者は協力してダンジョンの魔獣を間引き、一つの種が増えすぎないように管理している。ダンジョン内の生態系が崩れるのがスタンピードの要因だと考えられているからだ。
「心配せんでもどっちもそうそうあることじゃない」
ジェリーは安心させるように言う。
頻繁に起こる事象ではないため、私の暮らしが落ち着くまで話題に出さなかったのだろう。
「ありがとうございます。聞けて良かった」
「逆に言えばこういう土地だから騎士団の目も冒険者ギルドの目も届いている。治安はいいんだよ」
「そうですね」
それは実感している。
ジェリーは優しい声で言った。
「リーディアさん、何か困ったことがあったら、わしに相談しなさい。わしは引退するまではこの町の冒険者ギルドでギルド長をしておった。顔は広い方だ。老いぼれだが、ちいとは役に立つ」
困ったことはないのが一番だが、万一の時は頼らせて貰おう。
「はい、ありがとうございます」
私は感謝を込めて礼を言った。
町から家に戻る道の途中に、水車が回る建物が見えた。粉引き小屋である。
近辺の者はあの小屋で手間賃を払って収穫した小麦を挽いて貰う。
今日は町の市場で既に挽いてある小麦粉を買ったが、あの粉挽き小屋で自家製の小麦を挽いて貰うのだ。
想像するだけでにやけてしまう。
***
町から戻った翌日、私は畑にいた。
実際の収穫はあと数日後、少年達が手伝いに来た時だが、その前に雑草を抜いたり、邪魔な石をどかしたり、収穫した麦を置く場所を作ったりと、仕事が山盛りなのだ。
私は朝から畑仕事に追われていた。
ジャック・オー・ランタンが畑を見張り、その足下にはあの魔獣猫がのんびりくつろいでいる。
あの猫、私には全然懐かず、未だにそのつやつやの毛並みに触れることを許してくれないが、何故かジャック・オー・ランタンはお気に入りなのだ。
うらやましい光景を横目で眺めながら、作業する。
「リーディア」
そんな私に声を掛けてきたのは、我が家にいるあの一番大きなブラウニーだ。
普段は家の中にいるので、珍しい。
「どうしたね、キッチンで何かあったか?」
きちんと消したつもりだが、火の不始末でもあっただろうか。
そう思ったのは、ブラウニーの顔が緊張にこわばっていたからだ。
「そうじゃない」
と彼は首を横に振る。
彼は真剣な表情で私を見上げ、言った。
「リーディア、雨が降る」






