36.クラーケン戦4
ゆっくりと後退したクラーケンは、岸から二百五十メートルの地点でふと、動きを止めた。
憎悪に燃える一つ目が、ベラフの町を射抜くようににらみ据える。
呼び寄せた黒雲は、なお町に届く距離に漂っていた。
クラーケンは深手を負わされた怒りを、その邪悪な心にたぎらせていた。
クラーケンの触手が再び黒雲へと突き上げられた。
ベラフの町を狙い、雷を放とうとしている!
「させるか!」
アルヴィン達は猛攻撃を仕掛けた。
神から授けられた槍、海煌を握りしめ、アルヴィンはクラーケンの巨体へと突進する。怪物の体は粘液に覆われ、滑りやすい。必死に駆け上がるが、残る触手が彼を捉え、容赦なく振り払った。
凄まじい音と共にアルヴィンの体は海へ叩き落とされた。冷たい海水が全身を包み、視界は暗く濁る。
必死に水をかき分け、彼は海面へ顔を出した。
「アルヴィン様!」
船上から六番隊隊長のサミュエルが叫んだ。
縄が投げられ、逞しい腕が彼を引き上げる。ずぶ濡れのまま甲板に戻ったアルヴィンは、荒い息を吐きながらも槍を離さない。
「もう一度行く。合図をしたら、援護を頼む!」
「はい!」
『紅の人魚号』のバリスタが唸りを上げ、炎の銛を放ち、クラーケンの体へ突き刺さる。
怪物が苦悶の声を上げ、巨体を震わせる。その隙を逃さず、アルヴィンは再び海煌を握りしめ、クラーケンの体へと駆け上がった。
足を取られながらも、アルヴィンは必死に槍を突き立てた。紫色の体液が溢れ、海面を染める。不気味な臭気が辺りを漂った。
だが、これだけではこの巨大な生き物に致命傷を与えることが出来ない。
的確に急所を必殺の槍、海煌で貫かねばならない。
クラーケンの急所の一つが心臓だった。
だがそこはクラーケンの巨大な胴体の中央より上に位置する。
アルヴィンは魔法で極限まで自らの体を強化し、クラーケンの体を駆け上がる。
もう少しで、心臓まで辿り着く……!
心臓に槍を突き立てようと力を込めた瞬間、アルヴィンは触手に吹っ飛ばされた。
そのまま海に叩きつけられる寸前で、「何か」が彼の体を受け止めた。
「!?」
白く光る鱗に覆われたしなやかな体。背には巨大な羽を持ち、天翔るもの。
空想上の生き物と思われていた竜がそこにいた。
アルヴィンは竜の背中に乗っていた。
アルヴィンは竜を以前に一度だけ見たことがあった。
あの、王都で開かれた戦勝記念の舞踏会の夜に――。
「リーディア?」
「グルルッ」
名前を呼ぶと、白い竜は返事するように鳴いた。
「そうか。君か。リーディア、前だ!」
アルヴィンの声に応じて、リーディアは危ういところで触手の攻撃を避ける。
「そのまま上昇してくれ。頭部の魔石を砕く」
クラーケンの体には心臓と、もう一つ、急所がある。
頭部の体表に露出した魔石の塊だ。
非常に硬く、しかも五十メートルの巨体の上部にあるため近づくのは困難だが、この魔石を砕けば、クラーケンは絶命する。
リーディアはアルヴィンの指示に従い、上空を目指して羽を羽ばたかせる。
クラーケンは二つの触手を伸ばし、竜を捉えようとしたが、竜はそれをかいくぐり、高みへと舞い上がった。
アルヴィンが神槍、海煌を高く掲げると、刹那、青白い光が迸った。
その輝きは黒雲を裂き、空に大きな穴を穿つ。
辺りを覆う闇は吹き払われ、太陽の光が海を照らした。
海原が白く、輝く。
クラーケンは日の光に目を細め、苦しげに巨体をよじらせた。
その隙を逃さず、竜は急降下した。
海煌が魔石を貫き、轟音とともに怪物の体は崩れ落ちる。
ついにクラーケンを倒した。
***
その後のことは、後から聞いた話だ。
私は気を失い、竜の姿から人間へと戻り、そのまま海に落下した。
「リーディア!」
アルヴィンは空中で私を抱き寄せ、落下の衝撃から守ろうと、腕に包み込む。
そのまま二人は海に落ちていった。
変身後の私は衣服を身に付けておらず、体を隠そうにもアルヴィンのマントはすでにぼろ布と化していた。
アルヴィンは焦ったが、ちょうど流れてきた海藻の塊が毛布のように折り重なっていたため、それで私を包んだという。
我々はすぐに『紅の人魚号』に救助され、宿舎『紅の人魚亭』に運び込まれた。
私は臨月の身でありながら大魔法を行使し、海へ落ちた影響で昏睡状態に陥った。
三日三晩目を覚まさなかった私に、アルヴィンは相当気を揉んだらしいが、医師の診察では、母子共に健康に問題はなかった。
ちなみに海藻はその場にいた人々が焼いて食べたそうだ。味は美味しかったらしい。
『紅の人魚号』はクラーケンの遺骸の一部を回収した。
クラーケンの額の魔石は、海煌によって砕かれたが、四つの破片を拾い集めることが出来た。
破片といえど相当に大きなもので、一つはゴーラン領主アルヴィンへ、一つは北部辺境伯ロシェットへ、一つはシデデュラ国が受け取り、残る一つは国王フィリップ陛下に献上された。
『紅の人魚号』は他にクラーケンの触手も手に入れた。魔物の肉を好んで食べるゴーラン人はもちろんクラーケンも食べた。
味は少々大味なイカに似ていた、そうだ。
クラーケンに大穴を開けられたシデデュラ国の船も、船大工達によると、無事に修理出来るという。
彼らは船に積んだ鉄や琥珀といった品々を我々に売り、代わりにシデデュラ国では貴重なワインや穀物を持ち帰りたいそうだ。
港が開かれ、彼らの国とも新たな交易が始まることになった。
「リーディアさん、大丈夫?」
「お加減は?」
「なにか食べますか? 料理長が言ってくれたら何でも作るって」
目を覚ました私の元にノアとシェインとカシムが見舞いに来てくれた。
「ああ、大丈夫。もうすっかり元気なんだよ。じゃあ料理長のカボチャシチューが食べたい」
私は彼らに疑問に思っていたことを聞いてみた。
「なんで君達はあの場にいたんだ? 領都に避難したんじゃなかったのか?」
「だって僕、心配で」
「私はリーディア様の騎士です!」
「急に二人に会ってびっくりしました」
三人とも我先に話し出した。
彼らの話を総合するとこういうことらしかった。
「じゃあ、君達は領都に向かい、騎士団に応援を要請してくれ。頼んだよ」
「「はい!」」
ノアとシェインを草原の転移魔法陣まで送り届けたデニスはそう告げると、すぐに転移魔法を唱え、姿を消した。
「行こう、ノア」
「うん!」
ノアとシェインは転移魔法陣を使い、領都ルツへと向かう。
「シェイン様、ノア! 何かありましたか?」
そこにはゴーラン騎士団の副団長が待機していて、二人に声を掛けた。
「クラーケン、襲来です! ベラフの町の主転移魔法陣は破壊されました。造船工房の転移魔法陣は無事で、リーディア様達はそこから脱出する予定です」
シェインの報告に、普段は冷静な副団長も顔を青ざめさせた。
だがすぐに我に返ると待機していた騎士達に号令を下す。
「よし、我々は、草原の転移魔法陣を使う。馬を引け!」
ベラフの町の主転移魔法陣が破壊された以上、最も近いのは、造船工房の転移魔法陣だ。しかしそこは浜辺に近いため、状況が分からないまま、転移するのは危険過ぎる。それにリーディア達、民間人の避難が優先される。
副団長はそう判断した。
「はっ」
騎士達が勇ましく返事する。
「僕も行きます!」
「私も!」
ノアとシェインは意気込んで副団長にそう言ったが、副団長は怖い顔で二人を睨んだ。
「駄目だ。二人はここで待機。領主館に行きなさい」
……ノアとシェインはサーモンを抱え、とぼとぼと領主館へ向かった。
クラーケン来襲の急報に、館の中はまるで蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
副団長の部下から「自分の部屋で休むか、食堂で何か食べてなさい」と声を掛けられたが、到底そんな気分になれない。
二人が足を向けたのは、厩舎だった。
そこにはシェインの愛馬、カエルムやアルヴィンの愛馬フォーセットとリーディアの愛馬オリビアがいる。
三頭がのんびり春の牧草を食んでいる横で、ノアとシェインはしばらく落ち込みながら座り込んでいた。
「あれ? 二人とも、どうしたの?」
そこで意外な人物が声を掛けてきた。
料理人見習いのカシムだ。
「えっ、カシムこそどうしたの?」
カシムは小脇に抱えたバスケットを二人に見せる。
「フォーセット達に人参をあげにきたんだ。これ、見習いの仕事なんだって」
フォーセット達は慣れているのか、カシムの顔を見るとすぐに近寄ってきた。
三人は三頭に人参をあげながら、話を続けた。
「で、なんで二人はこんなところにいるの?」
「ベラフの町にクラーケンが襲来したんだ」
シェインの言葉にカシムは「えっ」と絶句した。
「料理長が騎士に呼ばれてたし、領主館中がひっくり返りそうな騒ぎだったから、まさかと思ってたけど、そうだったんだ。リーディア様は?」
「まだ、ベラフの町にいる。なんとかしてベラフに行かないと」
シェインはベラフの方角を見据え、低く呟いた。
そんなシェインにノアは思わず問いかけた。
「なんとかってどうやって? さっき僕らが使った転移魔法陣は使えないよね。多分他の魔法陣も使わせてもらえないよ」
「別館の魔法陣があるだろう? これを見てくれ」
シェインが鞄から大事そうに取り出したのは、一本の鍵と、四つ折りになった一枚の紙だ。
「アルヴィン様から『何かの時に使え』って渡されたものなんだ。これは別館の全てのドアが開く、魔法の鍵。でも一度使ったら三十分で消えてしまう。そしてこっちは」
シェインは紙を開いて二人に見せた。
赤いインクのようなもので、魔法文字が書かれている。
「アルヴィン様の血で記された魔法紙だ。これさえあれば、私もあの魔法陣を起動することが出来る」






