35.クラーケン戦3
湾から二百メートル離れた海上――。
アルヴィンは崩れかけた甲板に立ち、混沌たる戦場を見渡した。
海はおびただしい血で赤黒く濁り、クラーケンが巻き起こした嵐が激しく渦巻いていた。
ほとんどの船が沈没し、残ったのはわずか二隻だけ。
『暁の人魚号』の損傷は激しく、辛うじて船の形を保っているが、もう舵も効かない。
共に戦う騎士達の体力はとっくに限界を超え、ただ気力だけで踏みとどまっていた。腕は震え、足は鉛のように重い。
クラーケンもまた八本の触手を失っていたが、残る二本の触腕を振り上げ、最後の抵抗を見せている。巨体が海を割り、波が大きくうねり、船を翻弄する。怪物の眼は怒りと憎悪を燃えたぎっていた。
アルヴィンは神の槍海煌を握りしめ、側にいたデニスに静かに告げた。
「デニス、船を放棄」
「えっ?」
「全員、脱出だ」
「ア、アルヴィン様?」
アルヴィンはクラーケンをにらみつけながら、低く言い放った。
「俺があいつを引きつける。行け。後は頼むぞ」
その言葉に日頃温和なデニスが血相を変えて怒鳴り返した。
「行くわけないでしょう! 僕は最後まであなたの側にいますよ!」
「俺達だって!」
と他の騎士達も声を上げる。
しかしアルヴィンは首を振り、鋭い声で命じた。
「いや、一人の方が動きやすい。総員、待避だ。行け」
次の瞬間、アルヴィンは魔法で肉体を強化させ、甲板を蹴って触手へ飛び移った。濡れた触手を駆け上がる彼の姿を、クラーケンの濁った巨眼が鋭く追う。
残るもう一方の触手が唸りを上げ、アルヴィンを押し潰そうと振り下ろされた。
ブン、と大気を切り裂く音が海を震わせる。
アルヴィンは身を翻し、間一髪で攻撃を逃れた。
狙うのはクラーケンの胴体中心部よりわずか上。心臓である。
アルヴィンは攻撃を躱しながら、ヌメヌメとした巨体を必死に駆け登っていく。
クラーケンはアルヴィンを捕まえようと、彼の動きに全神経を傾けていた。
その隙にシデデュラ国の船が、クラーケンの死角へと回り込む。
先程アルヴィンが傷を負わせ、今も紫色の体液を流し続けるクラーケンの表皮へ、至近距離からありったけの炎の矢を打ち込んだ。矢は次々と突き刺さり、炎が走り、怪物の体を焼いた。
「グゥゥ゛!」
クラーケンはたまらず苦悶のうめきを上げ、海を揺らす。怒りに満ちた目でシデデュラ国の船を睨みつけると、その横腹へ触手を叩きつけた。
船体に大穴が空き、そこから大量の水が流れ込んだ。
「うわわぁっ!」
船員達の悲鳴が、クラーケンにしがみつくアルヴィンの耳にまで届いた。
シデデュラ国の船は大型だが、あともう一度でも、攻撃されれば沈没は避けられない。
甲板の上では必死に兵達が矢を放つが、怪物の猛攻は止まらない。
「おい、お前の相手は俺だ」
アルヴィンはクラーケンの眼窩めがけて飛び移ると、海煌を思い切り突き立てた。槍が光を放ち、怪物の眼から血が噴き出す。
「ギュュュュュゥゥゥゥゥゥゥン!」
クラーケンは気味の悪い悲鳴を上げ、狂ったように触手を振り回した。その一撃がアルヴィンを捉え、彼の体を海へと振り落とす。
「しまっ……」
アルヴィンは焦った。海に落ちては一巻の終わりだ。
その時。
「アルヴィン様! こっちです」
アルヴィンは落下の途中で体をひねり、デニスの声がする方に飛び降りた。
とっさに風魔法を展開し、衝撃を和らげたが、硬い甲板にぶつかる感触は、思ったより痛かった。
だが、嵐の海に落ちるよりは万倍ましだ。
「アルヴィン様、ご無事ですか?」
デニスが急いでアルヴィンの元に駆け寄ってくる。
「アルヴィン様!」
「団長!」
そして、その他の騎士達も。
アルヴィンが降り立ったのは、それまで彼が乗っていた壊れかけた小型船『暁の人魚号』ではなく、別の中型船の甲板だった。
「デニス、助かった」
アルヴィンは頼れる戦友でもある又従兄弟に礼を言った。
「だが、ここはどこだ?」
「僕の船だよ」
アルヴィンの質問に答えたのは、小さな子供だった。
「スキプニッセ」
その船の妖精は住処を失い、今は宿舎『紅の人魚亭』に住んでいる。
リーディアと仲がいいため、アルヴィンとも顔見知りだ。
だが何故、その妖精がここにいるのか?
「この船は、『紅の人魚号』です」
デニスが横から言い添えた。
「『紅の人魚号』?」
船大工達が八隻目の船を建造した後、新たな船を作っていることは、アルヴィンも報告を受けていた。
その船が、八隻の船より大型の、魔物討伐に特化した戦船だが、今だ完成していないことも。
実際、帆はメインマストに一枚張られているだけだったが、船には五十名の騎士が乗り込み、人力と風魔法使い達の魔法を駆使して、ここまでやって来たのだ。
「未完成品ですが、高威力のバリスタを積んでます。ちいと小回りは効きませんが、コイツは戦えます」
船大工が自信を持って言うと、アルヴィンは不敵に笑った。
「そうか、では早速、一働きしてもらおう」
***
私は浜辺から、固唾を呑んで、アルヴィン達の様子を見守っていた。
進水した『紅の人魚号』は海を駆け、まずデニス達、『暁の人魚号』に取り残されていた者達を回収する。続いて巨木のようなクラーケンの腕に吹っ飛ばされ、海に落ちかけたアルヴィンが、寸前で『紅の人魚号』の甲板に着地した。
その一部始終は、浜辺にいる我々からも確認出来た。
浜は歓喜に沸き立つ。
「アルヴィン様は無事だ!」
直後、『紅の人魚号』から信号弾が上がる。
見張りの騎士が副団長に向かって報告した。
「団長より信号弾『クラーケンを海岸へ誘い込む。バリスタ準備』とのことです」
それは、クラーケンを海上で倒しきれなかった場合を想定した作戦だった。
船で町近くまでクラーケンを誘導し、陸上部隊が討伐する。
戦闘により、町が破壊される危険があるので、出来れば避けたかった計画だが、もはやそれしか手段がない。
『紅の人魚号』はクラーケンを浜辺へと誘導し、兵達は地上戦に備えて、慌ただしく準備を進めていた。
だが、クラーケンは船を追うことなく、逆に沖へと退き始める。
「逃げる気か?」
副団長が不審そうに眉をひそめたが、クラーケンは、もっとおぞましいことを企んでいた。
クラーケンはアルヴィン達を誘うようにゆっくりと沖に進んでいった。
アルヴィン達はやむを得ず、湾とは反対側の沖へ船を向けた。
沖へと進むクラーケンを追うように、彼の眷属達も次々に湾から海へと引いていく。
だが、それは退却ではなかった。眷属の群れが進む先に浮かぶのは――『紅の人魚号』。
「アルヴィン達が危ない! このままじゃ挟み撃ちだ」
副団長の顔が青ざめる。
「信号弾を打て。『作戦、中止。退却』と」
だが私には分かっていた。
――アルヴィンはこの指示を受け入れないだろう。
クラーケンは高い治癒能力を誇る化け物だ。
体の傷を癒やせば、またこのベラフの町を襲う。
その時までに我々の迎撃の準備が間に合っているとは到底思えない。
アルヴィンは差し違えてでも、今、クラーケンを倒す気だ。
「アルヴィン……」
私は彼の名を呼んで、砂場に座り込んだ。
絶望に打ちひしがれ、立っていられない。
「リーディア、どうしたね」
老師が私に声を掛けた。
「アルヴィン達が戦っているのに、私は、見ているだけしか出来ない。それが、歯がゆくてなりません。もし、私に翼があれば、彼の元に駆けてゆけるのに……」
詮無いこととは分かっている。
だが、もうアルヴィンは、皆は、限界だ。
その最後の力を振り絞って、命を捨ててクラーケンを打とうとしている。
老師は不思議そうに首をかしげて、言った。
「行けばよいのに」
「えっ?」
私は驚いて、老師を見上げた。
「何を躊躇うことがあるかね。リーディアにはその力がある。竜になればいい」
老師の言葉が何一つ理解出来ない。
確かに私は竜に変化したことがある。だがあれは、魔石ベガの力と皆の協力があってのことだ。
今ここに、ベガのような巨大な力を秘めた魔石がないことは、老師も分かっているだろうに……。
「そんな力は私には……」
「ございますよ」
どこからともなく現れたブラウニーのクロックが言った。
老師もその言葉に同意するように頷いた。
「そうじゃよ、そこにある」
老師が指さす先にあるのは、私……。いや、私の腹だ。
「その子はリーディアと辺境伯の子だ。生まれつきとても強い魔力を持っている。わしらが出会ったのはそなたが幼い子供だった頃。そなたは魔力を持っていたが、まだそれを使う術、魔法を知らなかった。小さな体いっぱいに魔素を吸い込んで、魔石のように輝いていたよ。その子はリーディアによく似ている」
老師は当時を思い出すように懐かしそうに目を細めた。
六歳だった私に出会い、魔法の力を見出したのは、このルイン老師だ。
「その子はリーディアの腹の中で、十月十日、ずっと魔力を蓄え続けてきた。もう、はち切れそうになっているよ」
「まさか、そんなこと……」
にわかには信じがたい。
だが、私は老師の言葉が真実であることを理解していた。
そっと腹に手を当てると、子供が動く。
「そうか、君もお父さんを助けたいんだね。じゃあ、一緒に、お父さんを助けに行こうか」
その瞬間、私は竜に変化した。






