32.ベラフの春 戦いの準備
三月に入り、暦の上では春になったが、空気はまだ真冬のように冷え込んでいた。
例年なら沖にやって来るニシンの群れが春の到来を告げる頃だが、今年はまだ姿が見えない。
同じく春になると飛来するカモメや他の海鳥達の鳴き声も聞こえず、町はしんと静まり返っていた。
だが今年に限っては長い冬は大歓迎だ。
冬の間、クラーケンは深海に沈んで眠り続ける。
人々は「白の貴婦人様がクラーケンを眠らせて下さっている」と海の精霊に感謝を捧げた。
ベラフの町はクラーケンとの決戦の準備に追われていた。
船の建造は順調に進み、七隻目が完成し、八隻目に取りかかっている。
鍛冶職人達はクラーケン戦に使う武器の製作に大忙しだ。
クラーケン退治では、海の魔物に効果がある火の魔石を埋め込んだ銛を使う。武器の数はあればあるだけ良い。
領内すべての鍛冶屋に武器の発注しているが、騎士が扱いやすいよう、最後の調整をするのは現地の職人達の仕事だ。
町の人々はそれぞれの仕事の合間に、丈夫な木を尖らせ、密に打ち並べて防御柵を築き、陸に迫る魔物に備えていた。
クラーケンが相手なら一撃で粉砕されるだろうが、その他の魔物相手なら一定の効果が認められる。
ゴーランに伝わる伝承によれば、クラーケンは深海より眷属を率いて姿を現すという。
異形の眷属達は邪悪な海の魔物で、いずれも手強い相手だが、中には心弱き人間に取り憑き操るという魔物までいるらしい。
騎士達はクラーケン戦を想定した鍛錬に余念がない。揺れる船の上で、的確に銛を投擲する訓練だ。
戦いの時、八隻の船に乗るのは一隻につき二十名、計百六十名の選ばれた騎士達だ。
その他陸上戦に備えて、千人の兵が動員された。
彼らが戦いの際、身につけるのは陸上なら丈夫な鉄製の鎧だが、海に落ちた時、重い金属製の胴着では海中に沈んでしまう。
そのため、海上戦のための特別な防具を使用する。
ダンジョンの奥深くに生える金剛木という非常に頑丈な木を鱗板状の木片に加工し、それを丈夫な布に縫い付け、その上に獣脂で止水処理したトルク革を重ねた木鱗鎧だ。
この鎧はクラーケンの触手の攻撃に耐え、しかも素材が木なので浮く。
トルク革は扱いが難しく、最後の仕上げはベラフに集められた熟練の職人達しか出来ない。
騎士全員分の木鱗鎧作りは職人だけでは手が足りず、一部の作業は縫い物が上手い町の女性達に任された。
彼女達は寝る間も惜しんで針を動かしてくれた。
こうして作られた鎧の仕上げに強化や保温といった有用な魔法効果を付与するのは魔法使い達の役目だ。
魔術回路を損傷し、魔法使いとしてはあまり役には立たない私だが、ほんの少しだけ魔法付与に協力した。
私は光魔法が得意なので、敵の攻撃が当たりにくくなったり、保護したりする魔除けの効果の担当だ。
私の隣ではシェインも同じ作業をしている。
シェインはまだ上級の回復魔法を会得していない。
そのことを少し焦っているようだ。
上級の回復魔法は、死者の蘇生や、一度に数百人もの傷を癒すといった凄まじい力を持つ魔法だ。
国内の回復魔法師の中でも、上級回復魔法を唱えられる者はほんの数名しかない。
「唱えられそうで唱えられない。それがとてももどかしいんです」
とシェインは言った。
成長途中の若者ならではの苦悩だ。シェインの姿は懐かしくもあり、眩しくもあった。
「魔法使いにはよくあることだ。その感覚を覚えておきなさい。何かのきっかけさえあれば、呪文は君の物となる。まだそれが形になってないだけだ。その時を待ちなさい」
「はい」
シェインは真面目な顔で頷いた。
私は反対側の横を向いて今度はノアに言った。
「ノア、ゆっくり丁寧に付与しなさい。均一に、隅々に行き渡るように力を込めるんだ。これに慣れると自分だけでなく、他の人にも魔法が掛けられる。物質や肉体の強化はとても有益な付与魔法になる。いい勉強になるから頑張りなさい」
ノアは南部から再びベラフの町に戻ってきている。
彼は物質強化の担当だ。
ノアも私の言葉に神妙に頷いた。
「はい、リーディアさん」
町には静かに、張り詰めた空気が漂っている。
決戦は、間近に迫っていた。
着々とクラーケン戦の準備が進む一方で、町は別れの時を迎えていた。
春となり、北部の羊飼い達が故郷へ帰る日がやって来たのだ。羊飼い達はまたここに戻ってくることを約束してくれた。
最後の晩は柔らかな子羊肉が町中に振る舞われ、皆で別れを惜しみ、再会を誓い合う夜となった。
アルヴィンの予見通り、ベラフの町から逃げ出したトルクの一部は、北部の沿岸へ向かったらしい。北部から派遣された騎士達は冬の間にトルク退治の訓練を受け、一部は北部へ戻っていったが、二百人あまりの兵はこのベラフに残り、最後まで一緒に戦ってくれるという。
……北方の国シデデュラは今だ沈黙を守っている。
その沈黙は、我々がベラフ開放の約束を果たすのを待っているのか、それとも、我が国との戦いの準備のためなのか。
この緊張の中で二百の兵をベラフに派兵したのは、北の辺境伯ロシェットが示しうる最大の厚意に他ならなかった。
北部の騎士達はクラーケンと直接戦う役目ではなく、船に乗って戦うゴーラン騎士の補助と町の防衛を行う。
***
季節は巡り、四月が来た。
冬の間のベラフは曇天の日が多かったが、暖かくなるにつれて少しずつ太陽が姿を見せ、晴れ間が増えていた。
淡い青色の空にはカモメが騒がしく舞っている。
野には白やピンクのヒナギク、淡黄色のプリムローズ、紫のスミレ、黄色のタンポポと色とりどりの花が咲き、春を彩っていた。
沖の深海に潜むクラーケンが目を覚ます兆しはまだ見えないが、それも時間の問題だろう。
アルヴィンは領都の宝物庫に眠る、神より授かったという槍――海煌をベラフへと運んできた。
この槍はクラーケンに対して必殺の力を持つと伝えられる一方、その存在がクラーケンを引き寄せるとも恐れられており、普段は海から遠い内陸の領都ルツに安置されている。
その槍が、ついにベラフへと到着した。
決戦はもう間もなくだ。
戦いに備え、町では非戦闘員の避難が始まった。
まず女性や子供、年寄りから転移魔法陣を使って順に送り出す。行き先は領都ルツである。
避難は順調に進み、今ベラフに残っているのは、アルヴィン達クラーケンと戦う騎士と船員達、最後まで作業を続ける船大工や鍛冶屋といった職人達だ。
さらに、もともとベラフに暮らしていた住人の一部も残っている。
魔物達から隠れながら暮らしていた彼らは逃げるのは大の得意だそうで、町に愛着も深い彼らはギリギリまでここでいたいと最後に避難することになったのだ。
そして私も、まだ町に残っていた。
「よーし、お土産は持ったね。じゃあ行こうか」
腹に負担をかけないよう、小さな鞄を肩に掛け、私はシェインとノアに呼びかけた。
「「はい」」
と答える彼らが手にしているのは、鮭の燻製である。
この辺りでは四月になると、普段は海にいるサーモンが沿岸へ集まってくる。
彼らが川を遡上するのは秋の産卵のためだが、気の早い個体は春に川へ入り、夏をそこで過ごすこともあるらしい。
そのため春はサーモンがよく獲れる。
サーモンはキリッと強そうな顔をした大型の魚だが、見た目に反してものすごく美味しい。
ここに来て私は色々な魚を食べたが、サーモンはその中でも一二を争う美味しさだ。
サーモンは煮ても焼いても炒めても揚げても燻製しても美味しいが、春のチーズを使った料理は格別だ。
新鮮な春の牧草を沢山食べた山羊や羊の乳で作ったチーズは春から初夏にかけてしか味わえない。
サーモンとほうれん草のキッシュ、サーモンとアスパラガスのグラタン、サーモンと野菜のチーズシチュー、グリルサーモンのチーズソースがけ、サーモンとチーズのサラダ、サーモンとブロッコリーのチーズスープ……。
そんなサーモンを楡の木荘の皆にも食べさせてあげたいと燻製を作った。
避難の邪魔になると困るので一人一匹ずつサーモンを携え、私達は宿舎『紅の人魚亭』を出て、集合場所である町中の転移魔法陣に向かった。
護衛役の騎士達も二人、私達に同行し、周囲を警戒している。
空は雲一つない良い天気だ。
こんな事情さえなければ、町歩きも楽しかっただろうが、今は人々の声は消え、緊張に満ちた騎士達の声だけが町に響いている。
「リーディア様、大丈夫ですか?」
歩きながら、シェインが心配そうに私に声を掛けてくる。
「ああ、大丈夫。心配掛けたね」
出産予定を二週間後に控え、私の腹はかなり大きくなっていた。
私は妊婦なので、本来なら避難の順番は一番先だったが、避難予定日になって急に腹が痛くなってしまった。
しかも、腹の子がポコポコと内側から腹を叩くので、歩くこともままならない。
突然の腹痛に焦ったが、出産を間近に控えた妊婦には、こうしたことも珍しくないのだという。
その日から数日間、体調がすぐれず、避難の順番を後に回してもらった。
それが今日はすっかり元気なのだから、我ながら不思議なものだ。
「リーディア様、体調は?」
転移魔法陣のそばにはデニスの姿があり、彼は心配そうに私へ声をかけてきた。見送りに来てくれたのだろう。
アルヴィンの姿はここにない。
風属性の魔法使い達の見立てでは、明日から天候が荒れるという。
そのためクラーケン戦の決行は急遽、今日に早められた。
天候が崩れる前に、アルヴィンは神槍、海煌を手に沖へ向かい、クラーケンを挑発する手はずになっている。
今ごろ彼は、沖にいるのだろうか。
もはや、私に出来るのは彼らの無事を祈ることだけだ。
避難指示が出て、私達のほかにも、大きな荷物を抱えた職人や町の住人達が、あわただしく転移魔法陣の周囲に集まってきていた。
ブラウニー達は戦いの間近くの森に避難しているという。森には恐ろしい魔物もいるが、善い精霊も住んでいて彼らが守ってくれるそうだ。
「今日は具合がいいんですよ」
と私はデニスに答えた。
「そうですか、それは良かったです。じゃあ……」
『お気を付けて』
そう言いかけたデニスが、ふいに沖の空を仰いだ。
私もつられて振り返る。
海の彼方から押し寄せる黒雲が、空を呑み込むように広がっていく。
その渦の中心で、巨大な影が蠢いていた。
鈍い銀光を放つ異形の体。八本の触手が狂ったように海と空を薙ぎ払う。
その名は――
私は呆然と呟いた。
「クラーケン……」







