29.ベラフの冬 白の貴婦人3
「えっ?」
スキプニッセはギクッと体を震わせた。
「やっぱりそうか」
私はため息をついた。
一ヶ月半ほど前、私が帰郷する前日のことだった。
アルヴィンは風もない海の上で、突然船が大きく揺れ、大波を被った。
そのせいで風邪を引いてしまい、私の帰郷は延期されることになった。
あれは、スキプニッセの仕業だったらしい。
「……どうして分かったの?」
「なんとなくかな? それよりなんでそんなことをしたんだい? アルヴィンは風邪を引いてしまったよ」
場合によっては風邪を引く程度ではすまなかったかもしれないのだ。
「……」
そのアルヴィンが音もなくペイストリー・ルームに滑り込んでくる。
頃合いになったら来てくれるように、彼に頼んでおいたのだ。
「……リーディアに帰って欲しくなかったの」
スキプニッセは小さな声で白状した。
「私に?」
「うん。領主様が風邪を引いたらリーディアは家に帰らないでしょう?」
「そりゃ彼が心配だからね」
「リーディア、お願い。ずっとここにいてよ」
スキプニッセは涙ぐんで私を見上げた。
「……スキプニッセ、私と一緒に来るかい?」
「えっ?」
スキプニッセは驚いた様子で私を見つめた。
「君が来たいなら一緒にルツに来るかい? 領主館には小さいけど湖もあるからきっと楽しく暮らせるよ」
「僕……」
スキプニッセは少し躊躇うようにうつむいた。
だが、彼は顔を上げると、きっぱり言った。
「僕はここにいる。この町が好きだから。怖いけど、ここにいる」
「クラーケンが怖い?」
「怖いよ。妖精は、皆アイツを怖がってる。領主様が来て、リーディアが来て、町に人が来て、皆ようやく少し怖くなかった。昔みたいになったってすごく喜んでる」
「……そうか、私がいたら皆、怖くないかな?」
私達はいつの間にかたくさんの妖精に囲まれていた。
私は彼らに語りかける。
「うん、怖くない」
スキプニッセも他の妖精も頷いた。
「じゃあ、私はここにいるよ」
「リーディア! 駄目だ」
アルヴィンがあわてて私を止めた。
私は彼の方を見ないで、そっと腹に手を当て、妖精達に語りかけた。
「ただし、私のお腹には子供がいるんだ。この子を危ない目に遭わせるわけにはいかない。医者がここにいては駄目だと言ったら私は領都に行く。それは分かってくれ」
妖精達は顔を見合わせて頷き合う。
「うん」
「赤ちゃんは大事」
妖精は子供好きなので、理解が早い。
「本当?」
スキプニッセや妖精達が目を輝かせる。
「リーディア、本当にここにいてくれるの?」
「ああ、クラーケンが退治されて、この町に本当の春が来るまで、ここにいるよ。騎士達は力の限り戦う。だから皆も協力してくれ」
「何をすればいいの?」
ブラウニーの一人がおずおずと私に話しかけてきた。
「そうだね。海の妖精達は丈夫で強い船が作れるように船大工達を手伝ってくれ。ブラウニー達は、皆の健康と家々の安全を見守ってくれ。冬の間、子供や生き物が命のともしびを消さないように。小さいけれど俊敏で働き者のお前達が人々を助けてくれたら、きっと上手くいく。森や海の精霊達にも伝えておくれ、人の子が光の名においてクラーケンを倒すから、どうか力を貸しておくれ、と」
部屋に戻ってアルヴィンは私に詰め寄った。
「リーディア、どういうつもりだ」
「彼らと約束しました。私一人が帰るわけには行きません」
「危険なんだ、リーディア」
アルヴィンの瞳をのぞき込むと、彼の心の痛みが伝わってきた。
彼は私をとても心配している。
自分の命より、ずっと、大事に思われている。
それは私をこの上なく強くした。
「分かっています。危険が来たら皆と共に逃げます」
戦いの日が来たら、騎士達以外の非戦闘員は皆、町から退去する予定だ。
「それでは間に合わないかもしれないと言っている」
「でも妖精達が怖がっている。おそらくはここに住む人々も。私がここにいれば、少し皆も安心出来ます」
「リーディア、もう君は騎士ではない。もう君が身を挺して戦う必要はないんだ。逃げてくれ」
「いいえ、逃げません。それは私が騎士だからではなく、ここがゴーランで、私がゴーラン領主の妻だからです」
「リーディア」
アルヴィンはなおも反論しようとしたが、その声は少し、弱々しい。
私は彼の頬に触れた。
「アルヴィン、一緒に戦いましょう。側に、居させてください」
アルヴィンは諦めたようにため息をついて、私を抱き締めた。
「こうなると思ったんだ。俺は君にとても弱い」
「私もアルヴィンにとても弱いですよ」
私は笑って彼を抱き締め返した。
***
まずは内々に実務を取り仕切る者――デニスや文官達――に春まで私はベラフに残ると打ち明けた。
「そうですか……」
彼ら達は揃って複雑そうな顔で、ため息をついた。
「実は、僕は一刻も早くリーディア様を領都に戻すよう、父や本家の長老達にせっつかれています」
本家っていうのは、このゴーランの領主一族、アストラテート家のことだ。
アルヴィンの父や祖父は既に亡くなっているが、祖父の弟や妹が今も存命である。デニスはアルヴィンの祖父の兄弟の孫に当たる。
実権は当主のアルヴィンが握っているが、年長者達の意見は無視出来ない。
デニスが言うと、文官達も大きく頷いた。
「我々もです。上役から早くリーディア様から業務を巻き取って領都に戻すように言いつかってます」
帰らないと言い出した私が言うのは憚られるが、それは、至極当然の判断だ。
アルヴィンの身に何かあれば、私のお腹の子がゴーランの領主となる。
その母親である私には是が非でも安全な場所にいて欲しいだろう。常識で考えて。
しかし、デニスは私に言った。
「そういうわけで、僕の口からは『早く領都に戻って頂きたい』としか言えませんが、僕個人としては、リーディア様がここに残るのを歓迎します」
「私達もです」
驚いたことに文官達もデニスに同意した。
「何故ですか? いや、説得されてもここに居るつもりでしたが……」
と私は思わずデニスに聞いた。
「リーディア様がこのベラフに来てもう四ヶ月余り。あなたはここに長く居すぎました」
デニスの言葉の後で、文官の一人が言った。
「アルヴィン様とリーディア様。ご領主夫婦はこの地の中心になっている」
「そんな中で、今リーディア様がここを離れれば、皆が拠り所を失うことなりかねません」
ある文官は、「僕が臆病者だからかも知れませんが」と前置きした後で、
「こうしていても、海から悪意のような嫌な空気が風に乗って運ばれてくるような気がします」
と身を震わせた。
「いや、よく分かるよ」
それは私も感じている。
海には、強大で恐ろしい何かが潜んでいる。
デニスは苦笑いした。
「ベラフの町の誰もが皆、心の中でクラーケンを恐れてます。それでもここで、人々は泣いたり笑ったりしながら、暮らしている。それは、リーディア様のおかげだと思うんです」
「私の?」
私は、驚いた。
住環境と皆の健康を維持するのが精一杯で、特段そんなことを意識して日々を送っていたつもりはなかったからだ。
「はい。リーディア様は楡の木荘にいるのと変わりなく、ごくごく普通に、皆と交流し、料理を作って暮らしてます。それはなんだかとても安心出来るんです。それに……」
デニスは周囲を見回して、多分、アルヴィンがいないのを確認するとこっそり私に言った。
「リーディア様といる時、アルヴィン様は見たことないくらい嬉しそうにしているから、見ていて和みます」
「そ、そうですか」
私は赤面した。
……アルヴィンがこの場に居なくて良かった。
彼は今朝方トルク退治をしに海に出ている。
「うちも新婚の頃こうだったなぁと」
文官が遠い目をして呟いた。
「話を戻しますが」
と自ら脱線させた気がするが、デニスが真剣な表情で私に向き直る。
「そういうわけで僕らは反対はしません。ですが、リーディア様とお子様に何かあればゴーランは終わりです。来るべき戦いの時は、非戦闘員と共に必ず、避難して下さい」
彼は私に釘を刺した。
私はデニスの言葉に頷いた。
「もちろん、皆と一緒に逃げますよ」






