24.ベラフの冬 オークとリンデン
乾いた北風が空気を切り裂くように吹き荒れ、海は陰鬱な灰色にその身を染めて横たわり、空と海の境界は曖昧ににじんでいる。
秋が終わり、冬がはじまろうとしていた。
私が帰還する前日はとりわけ寒い日で、よりによってそんな日に海に出ていた『暁の人魚号』の船員達が濡れて帰ってきた。
アルヴィンが一番ひどく波を被り、同乗していた熊男の肩を借りてようやく立っているような状態だった。
「どうしたんですか、一体? 時化にでも遭いましたか?」
時化というのは、強風や高波などで海が荒れている状態を指す。
それまで知らなかった言葉だったが、私もすっかり港町の生活に馴染んでいた。
「それが、今日は珍しく凪いだ日だったんですが、急に船が大きく揺れやして」
ものに動じない熊男が少し困惑した様子で説明した。
おかしなことだが、海に出れば波を被るくらいは日常茶飯事だ。
幸いほとんどの船員は風邪も引かずに済んだが、アルヴィンだけは熱を出して寝込んでしまった。
医師によると病名は風邪。
直接の原因は寒空の下で水に濡れたことだが、積もり積もった疲労が原因だろうと告げられた。根が丈夫な人なので、ゆっくり休めばじきに回復するそうだ。
翌日の出立を取りやめて、私はアルヴィンの看病に専念した。
「すまない。もう大丈夫だ、リーディアは帰ってくれ」
ベッドに横たわったアルヴィンは息も絶え絶えにそう言った。
全然『大丈夫』には見えない。
私は呆れて言い返した。
「あなたがこんな状況なら帰りませんよ」
「しかし……」
「前から思ってましたが、アルヴィンは働き過ぎです。少しは休んでください」
「ああ、そうするよ」
さすがに懲りたのか、アルヴィンは素直に従った。
アルヴィンはトルク退治に参加し、かつゴーラン領の領主の仕事もこなしている。
さらにこのベラフの町は実質彼が取り仕切っていた。
総勢二十名の町民のまとめ役だったベラフの町の町長に、いきなり千五百人を越える今のベラフの行政の長が務まるはずもない。
住人の三割ほどが北部から派遣された騎士と羊飼い達なのも話を難しくしている。
町にはゴーラン領内外の人間がおり、様々な職業の人が入り交じって生活していた。
このため多くのことにアルヴィンの采配が必要だったのだ。
文官達は行政の運営の専門家なので、彼らがいれば上手く回してくれるが、文官が暮らす住居や事務所がない。
……という八方塞がりの状態だった。
ちなみに役場は来月完成の予定だ。
「文官達は一ヶ月後には揃いますから、当面私がベラフの町の面倒を見ます」
こういう時は地位が上の人間からの指示が一番効く。
今のベラフで二番目に地位が高いのは領主夫人であるこの私である。
「……しかしリーディアはもう領都に戻った方がいいだろう?」
「安定期に入りましたし、大丈夫ですよ」
「だが」
まだ不安そうなアルヴィンに私は重ねて言った。
「気をつけますから」
「そうしてくれ」
「じゃあ、決まりですね。はいこれ、『スライムの涙』です。クロックがくれました」
ゴーラン地方では魔物のスライムをトイレに飼っている。
何でも食べる彼らの習性を利用して、排泄物の処理に利用しているのだ。
スライムはごくごく稀に水色の水滴のような物質を分泌する。
これは『スライムの涙』と呼ばれ、畑や森にまけば肥料に、生き物が飲めば滋養薬になると言われている。
ブラウニー達は何故かこのスライムの様子を見に行くのが好きだ。クロックが見つけて私にくれた。
「いや、絶対飲まないぞ」
原材料が『何』であるのか知っているアルヴィンは『スライムの涙』を飲むのを頑なに拒んだ。
「飲みたくはないが、これは俺がもらっていいか?」
「それは構いませんが、一体これを何に使うんです?」
「体調が治ったら行きたいところがあるんだ。付き合ってくれ。そこでこれを撒こう」
「はい、じゃあ『スライムの涙』の代わりにエッグノッグでも飲みますか? ブランデーが入ったやつ」
「それは嬉しいな」
とアルヴィンは笑った。
厨房に下りた私は、奥の菓子工房でエッグノッグを作ることにした。
材料は卵黄に砂糖に牛乳と生クリーム。それとナツメグとシナモンを少々。
ボウルに卵黄を入れ、砂糖とよく混ぜ合わせる。鍋で沸騰させないよう注意しながら温めた牛乳を、卵黄が固まらないようボウルに少しずつ加える。
混ぜ終えたらボウルから鍋に戻して、弱火で加熱しながらさらに混ぜる。
生クリームを入れて、仕上げにナツメグとシナモンを一振りすれば出来上がりだ。
エッグノッグを作っていると船の妖精スキプニッセがやって来た。
「リーディア、領主様の様子はどう?」
と彼は心配そうに尋ねてきた。
「ああ、大丈夫そうだよ。少し休めば元気になるさ」
「良かった。リーディアは領主様の側にいるよね? ここにいるよね」
「しばらく彼の側にいるつもりだよ」
「良かったぁ。ねえ、何を作っているの?」
アルヴィンが無事だと聞いたらたちまち興味は料理に移ったらしく、スキプニッセは鍋を覗き込む。
「エッグノッグだよ。君も飲むかい?」
「うん!」
私とスキプニッセの分、ついでに『スライムの涙』をくれたクロックの分を取り置いて、残ったエッグノッグに温めたブランデーを注ぐ。
ブランデーのいい匂いがしてくるが、妊娠中の私はノンアルコールで我慢だ。
大ジョッキ一杯分のエッグノッグをアルヴィンは美味しそうに飲み干し、料理長お手製のカボチャのシチューも完食した。
これで風邪も治るだろう。
***
一週間後、無事に風邪が治ったアルヴィンは私を町を見下ろす丘の上に連れて行った。
歩いて二キロほどの距離にある高台で、街道とは逆の方向にあるため、私は初めて来る場所だ。
丘の上故、風景が一望出来る。
正面にはベラフの湾が、眼下にはベラフの町がよく見えた。横を向くと青い海原がどこまでも広がっている。
良く晴れた、寒いがすがすがしい日だった。
「ようやく魔物が一掃出来たんだ」
とアルヴィンは言った。
この辺りは森や草原の魔物達が闊歩する危険地帯だったそうだ。
今は皆でピクニックに行きたいような気持ちの良い場所になっていた。
アルヴィンは騎士団の力自慢を数名伴っていた。
「団長、こいつはどこに植えます?」
そう言って彼らが指さすのはオークと菩提樹の苗木だ。
「この辺りに並べて植えてくれ」
アルヴィンは高台の先端から少し下がったところを指定した。
丘で一番見晴らしが良さそうな場所だ。
「へい」
騎士達はあっという間に穴を掘り、そこに『スライムの涙』を入れて、オークとリンデンの木を植えた。
「リーディア様、アルヴィン様、どうぞ」
とスコップを渡され、最後の土は二人で盛った。
「これでいい、ありがとう」
植え終えた後、アルヴィンは満足そうに頷くが、私は「おかしなところに植えるなぁ」と思っていた。
「じゃあ我々は向こうで休憩してます」
「お二人はごゆっくり」
と冷やかしながら彼らは離れていく。
「あの、なんでここに木を植えたんです?」
私はアルヴィンに尋ねた。
「ゴーランでは土地の所有者が分かるように木を植えるんだ。この丘に植えた木が大きく育ったらベラフはゴーランの土地であると一目で分かるだろう?」
「なるほど」
今は吹けば飛ぶようなこの二本の若木もいずれ成長し、人々が集うのに丁度良い木陰を作ってくれるだろう。
この場所なら、ベラフの町からも、港を行き来する船からもよく見えるはずだ。
「オークとリンデンの木にしたのは、海の向こうの外国の神話に倣ったからだ」
「神話ですか?」
「ああ」と頷くと、アルヴィンはその神話を話してくれた。
『ある町に貧しい老夫婦が住んでいました。ある時町に旅人達がやって来て一晩の宿を乞いますが、町の人はそのみすぼらしい旅人達をあざけって冷たく戸を閉ざしてしまいました。老夫婦のみが旅人達を招き入れ、心からもてなしました。旅人達の正体は神で、神は町を滅ぼし、老夫婦の家を神殿に変えてその献身に報いました』
……すごい話だな。
「リーディアは聞いたことはないか?」
「いいえ、知りません」
そう答えるとアルヴィンは続きを話してくれた。
『神は天の国に去る前、この老夫婦に「願い事を一つ叶えよう」と言いました。夫婦の願いは、「最期まで二人一緒にいること」でした。日々は過ぎ去り、その時がやって来ました。彼らはオークとリンデンの木に姿を変え、今も二人は寄り添うように立ち続けているのでした』
「へー」
「俺もそれにあやかりたくてね。いつまでもリーディアと一緒にいたい。死の瞬間まで共に」
「アルヴィン……」
私達はそれぞれ領主と領主夫人の責任がある。
我々の命は、自分だけのものではない。私達は自分の命を散らす場所を選ぶことは出来ない。
だからこそ、私もアルヴィンもこの人と一緒に死ねたらどんなにいいだろうと願うのだ。
「そうですね。そうだったら、とても、いいですね」
私が笑うとアルヴィンも笑う。
「いつまでも一緒だ、リーディア」
まだひょろひょろとしたオークとリンデンの若木は、いずれ大きな木に成長するだろう。
この二本の木は、アルヴィンと私の木は、私達が死んでもここでベラフを見守ってくれるに違いない。
それはとても、幸福なことに思えた。






