08.海辺の町ベラフ3
振り返るとそこにはクロックが立っていた。
クロックは小さな帽子を脱いで私に頭を下げる。
「今晩は、リーディアさん、良い夜ですね」
「はい、今晩は、良い夜ですね」
返事しながら、チラリと横を見ると隣でシェインが目を大きく見開いて驚いている。
クロックが見えているようだ。
「あ、あの、リーディア様、あれは妖精ですか?」
シェインはあたふたとクロックを指さす。
「シェイン、彼は屋敷妖精ブラウニーのクロックだ。クロック、彼は北のロシェット辺境伯の息子さんのシェインだ」
「初めまして、シェイン坊ちゃま」
とクロックはシェインにも丁重に挨拶した。
「は、初めまして」
挨拶を終え、クロックは私に向き直る。
「リーディアさん、転移魔法陣をお探しとか」
クロックはまたまた早耳だ。
「えっ、本当にあるのか? 皆が使う転移魔法陣ではなく、誰にも知られていない転移魔法陣がいいんだが……」
話しながら私は、そんな都合の良いものがあるわけがないと思った。
あったらむしろそこは重大な防衛の穴となるから絶対にあってはならないもの。
……だったが、クロックはあっさり言った。
「ございますよ、ご案内しましょうか?」
「えっ、あるのか?」
「ございますよ。別館に」
「また別館かぁ……」
本当にあそこ、なんでもあるな。
クロックに別館にあるという転移魔法陣に案内してもらうことにした。
何かあった時用に私の私室のテーブルの上に子細を記したメモを置いた。朝までここには誰も入ってこないから、それまでに私が戻って握りつぶす予定だ。
岸辺のボート乗り場の兵士は前回私を別館に送ってくれた時と同じ人物で、彼の方も私を覚えていたらしく、声をかけてきた。
「あれ? リーディア様、また別館に行かれますか?」
「うん、そうなんだ。今度はこの子も連れて行く」
「ではお二人ですね。どうぞ」
兵士は快く私とシェインをボートに乗せてくれた。
無事に別館がある中州に着くと、そこにいたのもまた前回と同じ兵士だ。
「リーディア様、倉庫にご案内しましょう」
と彼は申し出てくれたが、私は言った。
「いや、今回は倉庫に用があるんじゃないんだ。別館の中に入りたいんだが」
「もちろん、よろしいですよ。どうぞお入りください」
そう言って、彼は別館の大きな門を開けてくれた。
「さて」
兵士と別れた私はクロックに話しかけた。
「案内しておくれ、クロック」
「分かりました。どうぞこちらに」
クロックは私を別館の奥へと誘う。
途中の扉には鍵がかかっていた。
「リーディアさん、鍵を」
「ああ、分かった」
クロックに促され、私は鍵を開ける。
私が持っているのは、領主夫人用のマスターキーだ。
私の鍵は、領主館の中程度までの重要区画と、領主私邸のすべての扉を開けられるものだった。
一方、領主アルヴィンは領主館全体のすべての鍵を開けられる、特別な鍵を所持している。
扉を開け、私達はさらに奥にと進んだ。
廊下を行き、いくつかの部屋を抜けて、私達は図書室にやって来た。
図書室は本館の図書室と何から何までまったく一緒だった。
置かれた蔵書の一つ一つまでも、だ。
図書室には隠し扉がある。
扉を開ける方法は、とある棚の本を入れ替えることだ。
私がアルヴィンに教えられた通りに本を並び替えると、「ゴゴゴゴ」と音を立て、隠し扉が開く。
その先に、転移魔法陣があった。
「本当にあったな」
転移魔法陣が敷かれた部屋の壁の横にはこの転移魔法陣で行ける場所が書き記されている。
私は指でリストを辿り、
「ベラフ、ベラフ……っと、あ、あった」
目的の地、ベラフを見つけた。
「シェイン、用意はいいかい? この転移魔法陣がベラフのどこに繋がっているか分からないが、向こうにいるのは三十分だけ。夜が明ける前に私達は帰る、いいね」
私はシェインに向き直り、念押しした。
「はっ、はい」
シェインは緊張した面持ちで頷く。
「じゃあ行こう」
私とシェインは転移魔法陣の上に乗った。
何故かクロックも当然のように乗った。
「あ、クロックも行くのか?」
「はい」
シェインが魔法を唱えると、魔法陣に書き記された魔法の文字が青い光を放つ。
『転移』
シェインが詠唱が終えた数秒後、私達は別の場所に転移していた。
暗くてよく分からないが、周りは石の壁で覆われており、壁にはびっしりと魔物除けの聖句が記されていた。
家というより、避難用の施設のようだ。
壁に二つだけ光の魔石が置かれているが、かなり暗い。
そんな薄暗がりの中、なんとか外に通じる扉を見つけ、シェインとクロック、三人がかりでその頑丈な扉を押し開ける。
途端に、潮の匂いが鼻をかすめた。
湿気をたっぷり含んだ、べとつく夏の海風が頬を撫でていく。
――ベラフだ。
私が立っているのは草原のような場所だった。
辺りは真っ暗で、分厚い雲が空を覆い、月も星も見えない。
腰まで伸びた雑草が、視界を遮っていた。
ベラフの町らしきものはおろか、人が住んでそうな建物も灯りも、見えない。
その時、雲がわずかに裂け、月明かりが辺りを照らした。
「……これ、海か」
草原の向こうに、黒々とした海が横たわっていた。
耳を澄ますと、風が草を揺らす音に混じって、海岸に打ち寄せる波の音が聞こえた。
私の故郷にも、王都にも、ゴーランにも海はない。
私にとって海は馴染みのない存在だったが、各地を巡った遠征の時、海を見たことがある。
その時に見た海は、雄大で美しかった。
だが、今眼前に広がるベラフの海は、底知れぬ闇を湛えていて、見ているだけで背筋が凍るようだった。
「リーディア様、あそこに灯りが!」
海岸近く、シェインが指さす先に、灯りが見えている。
「行ってみよう」
私達は雑草をかき分けながら、灯りへと足を進めた。
近づくにつれ、不快な、だが聞き慣れた音が耳に届き、肌が粟立つ。
金属がぶつかる音、怒声、そして獣の唸り。
そこは戦場だった。
百人を優に越える男達が、海辺で巨大な魔獣の群れと戦っていた。
魔獣は、セイウチに似た海獣――トルクだ。
濡れた皮膚は青銅色に鈍く光り、牙は岩のように太く、目は血のように赤い。
そして圧倒されるような、その巨体。
海岸には十匹以上のトルクが蠢いていた。
トルクは呪詛のような咆吼をまき散らし、激しく尾を振り上げ、地面に叩きつける。
それでも、銛を構える男達は怯まない。
巧みに距離を取りながら、次々に手際よく銛を打ち込んで行き、トルクの身体は血に染まっていく。
私は息を呑んだ。
「アルヴィン……」
戦っているのはアルヴィン達、ゴーラン騎士団だ。
私の声はほんの小さな囁きだったが、アルヴィンは戦闘中にもかかわらず、ピクリと反応した。
「リーディア?」
あ、マズイ。
私はとっさに頭を下げてやり過ごそうとしたが、アルヴィンは目ざとい。
「後は任せる」
と部下に言い捨てると、こちらに向かってずんずんと一直線に歩いてきて、
「こんなところで何をしている? シェインまで連れてきて」
と詰問してきた。
「あ、あの、リーディア様は私が来たいと言ったから連れてきてくれただけなんです!」
シェインはけなげに私を庇う。
だがアルヴィンは私を睨みつけたまま、彼には一瞥すらくれなかった。
「君のことはリーディアに任せてある。これはリーディアの責任だ」
「すみません。あなたがどうしているのか心配で」
私は正直に理由を言った。
アルヴィンは何故か少し戸惑ったようだ。
さっきまで勢いは消えて、彼はぽつりと呟いた。
「……俺のことが心配だったのか」
「はい、二週間近く音沙汰がなかったんで」
そう言うとアルヴィンは深くため息をつく。
「それは悪かった。明日には戻るつもりだった」
「あー、そうなんですね。すみません」
私はかなり間が悪いことをしたようだ。
「じゃあ帰りますね」
そう言って元来た道を戻ろうとする私達だが、アルヴィンは私の腕を掴んだ。
「ちょっと待て、リーディア達はそもそもどうやってここに来たんだ?」
「別館の転移魔法陣を使いました、勝手に。すみません」
ここまで来たら誤魔化しようがないので私は素直に謝った。
アルヴィンはギョッとしたようだった。
「別館の転移魔法陣?」
と鸚鵡返しに繰り返す。
かなり驚いた様子で、彼の腕から力が抜け、手がほどかれた。
「そういうわけで、私達のことはお構いなく。戦闘、頑張ってください。じゃあ帰りますね」
しばし呆然としていたアルヴィンは私の声に我に返る。あわててまた腕を掴んできた。
「待て待て、勝手に帰るな。とりあえずベラフの町に行っていてくれ。ここはまだ危険だ。ラズロ、ジェームズ!」
アルヴィンは大声で近くに居た騎士を呼びつけた。
「はい! アルヴィン様」
近づいてきたのは、以前に私の護衛騎士を務めたことがある騎士達だ。
「リーディアとシェインを守れ。二人を宿舎に連れて行ってくれ」






