第3話『避暑地での再会②』
チェックインの最終時刻である午後六時は、食堂での夕食の提供が始まる時間でもあった。大浴場の営業は午後五時から深夜零時まで。ホテルよりも時間の制約は厳しいけれど、不便だとは感じなかった。
結局怜人は夕食の時間になるまで伸吾さんと過ごしていたようで、僕は一人客室にこもってゲームで暇をつぶし続けていた。途中、管理人の魚住さんが気を利かせてアイスクリームをごちそうしてくれたのだが、これがとんでもなくおいしかった。近くの高原で放牧をしているそうで、搾りたての牛乳で作ったバニラアイスとのことだった。どうりでミルクの味が濃厚なはずだ。憂鬱な気持ちはどこへやら、アイスを食べながら僕はここへ来てよかったと心から思った。
夕食の席で、怜人は僕に「母さんたちとビデオ通話をしたんだ」とか「兄さんがあんな風になっちゃったから、ぼくが会社を継がなくちゃいけなくて」とか、僕と別れて伸吾さんと二人きりになってからの話を散々語って聞かせてくれた。まったくありがたくなかったし、怜人の口調が終始嫌みったらしかったせいで、芳子さん――管理人さんの奥さんが作ってくれた見た目も味も抜群のはずの晩ごはんの魅力が三割ほど減退してしまった。もったいない。
夕食を終える頃、僕と怜人は東京から遠く離れたこの山奥で思わぬ人と顔を合わせることになった。
「あら、海野くん?」
ちょうど僕らと入れ違いになるタイミングで食堂にやってきたその人は、怜人よりも僕の存在に先に気づいて声をかけてきた。デザートに出してもらったメロンを堪能していた僕は、驚きのあまり口からメロンの水分を飛ばしてしまいそうになった。
「水梨さん! どうして」
まさかこの場所でクラスメイトに会えるとは、という顔を互いに向け合いながら、僕は同じ明神学園にかよう水梨星蘭さんの突然の登場に腰を浮かせた。
「やぁ、水梨じゃないか」
ワンテンポ遅れて、怜人も水梨さんに声をかけた。水梨さんは長い黒髪を耳にかけながら怜人に微笑んでから、「奇遇ね」と主に僕に向かって言った。
「鮫島くんはともかく、海野くんとこんなところで会うなんて」
「おれは怜人の付き添いというか。水梨さんこそ、ここには家族旅行かなにかで?」
なにげなく尋ねたら、斜め上の答えが返ってきた。
「馬を飼っているの」
「う、馬?」
「えぇ。私、乗馬が趣味なの。ここの近くの牧場の方にお世話をお願いしていて、年に何度か乗りに来ているのよ」
へぇ、と僕は自分でも妙な顔をしていると理解しながら返事をした。真っ白な肌をして、颯爽と馬を乗りこなす彼女の姿はさぞ美しいだろう。
しかし、別荘、イングリッシュガーデンの次は馬ときたか。僕とはさっぱり無縁なワードのオンパレードだ。そういえば水梨さんの家はずいぶんな資産家だと聞いたことがある。誰に聞いたのだったか。そう、白瀬だ。あいつが言っていた。
水梨さんの後ろに、背の高い男性が歩み寄った。振り返った彼女が「高校の同級生よ、お父様」と説明していて、現れたのが水梨さんのお父さんであると知った僕は慌てて「はじめまして」と頭を下げた。恋人の父親の前でド緊張しているヤツみたいだと自分でも思ったが、水梨さんと僕はけっしてそういう関係ではない。教室で話したこともほとんどない。
「あなたたちは、今日ここへ来たのかしら」
今度は僕らが水梨さんに尋ねられ、「あぁ」と怜人が代表して答えた。
「今日から三日間の予定でね。そっちは?」
「私は今日が最終日よ。明日の朝には東京へ戻るわ」
「そうか。残念だよ、ゆっくり話す時間がなくて。なぁ、海野」
「あ、あぁ、そうだな」
社交界における挨拶合戦みたいな雰囲気がただよい始め、ただ一人一般庶民の僕にはこういう場でどのように振る舞うべきかさっぱり見当もつかなかった。とりあえず怜人の反応に合わせてみたが、水梨さんはとくになにを言うこともなく、たおやかに微笑むだけだった。
「それじゃ、また九月に学校で」
水梨さんが長い黒髪をなびかせながら去っていく。その後ろ姿をぼんやりと目で追っていると、怜人が「いつまで突っ立っているつもりだ」と僕の意識を引き戻した。僕はようやく椅子に腰を落ちつけた。
「マジでビビった。こんなところで同級生に会うなんて」
「ぼくもだ。話を聞く限り、ここの常連客なのかもしれないな」
怜人の言うことは間違っていないと僕も思った。こっちで馬を飼っていると言うし、定期的に訪れるのなら毎回同じ宿に泊まったほうが予定も立てやすいだろう。
水梨さんとお父さんは二人でテーブルについていた。家族構成はわからないが、この夏は親子二人で愛馬に乗りに来たようだった。
僕らと似たようなタイミングで食堂に入ってきた四人家族の客が部屋へ引き上げていくのを横目に見送ってから、僕と怜人も食堂をあとにした。大浴場でゆったりと湯に浸かり、二階の部屋に戻って日付が変わる頃まで二人でゲームを楽しんだ。ふかふかのベッドに入る頃には昼間に遭遇したちょっと嫌なできごともすっかり忘れ、怜人と二人で旅に出るのも案外悪くないかもしれないなと思い始めていた。恥ずかしいから怜人には伝えず、「おやすみ」と挨拶をして、僕は静かに目を閉じた。
明日は朝九時までに朝食を済ませればいい。夏休みらしくゆっくり寝ていられるなぁと悠長にかまえていたが、現実はまったくうまくいかなかった。
翌朝、午前六時すぎ。庭に面した南側の窓を突き破るような絶叫に、僕だけでなく、ペンションの宿泊客のほとんど全員がたたき起こされた。
なにごとかと僕はベッドから飛び起き、窓を開けて庭の様子を見下ろした。
悲鳴を上げたのはオーナーの妻、魚住芳子さんだった。今朝も変わらず色彩豊かで美しいイングリッシュガーデンの散歩道にしゃがみ込み、道の上で倒れている誰かの背中を揺すりながら泣き叫んでいる。
その光景にも十分驚かされたが、美しい庭にはもう一つ、僕の目を強く惹きつけたものがあった。
芳子さんがしゃがみ込んだ少し先に、ぽつぽつと花が咲いているバラのアーチが造られている。昨日の昼間見た時にはアーチの下をくぐれたのに、今僕の目に映っているアーチはバラの蔓がびっしりと蔓延り、通り道をふさいでしまっていた。
それだけならいい。だが、アーチの中央に向かって伸びる長い蔓は、中心付近でちょうど繭をつくるようになにかをぐるぐると巻き取っていた。距離のある二階の一室の窓から見下ろしても、そのなにかがおよそ人間くらいの大きさであることは一目瞭然だった。
目を凝らし、僕は蔓の中心にわずかに見えている人の顔を確認した。
葉の生い茂る、棘だらけの蔓に巻き取られているのは、どう見ても僕のクラスメイトである、鮫島怜人だった。




